第63話 そして月女神に隠れてあなたに口づけを
その夜、ヴィンセントはレイべリゼ公爵とラクシュミアと共に食卓を囲んでいた。
「ラクシュミア、しばらくはこちらに滞在できるのか?」
「うん、10日くらい。久しぶりの休暇ってところかな」
「そうか、ゆっくりしてゆくといい」
老侯爵と孫娘の会話で終始食卓は盛り上がり、その日の夕食はお開きとなった。
ヴィンセントが部屋に戻りしばらくすると、扉がノックされる。
ドアを開けると、そこには笑顔を浮かべるラクシュミアが立っていた。
「こんばんは、ヴィン。よかったらこれからお話しない?」
***
ラクシュミアと共にやってきた場所は、全ての窓から月明かりが差し込む大広間だった。
今宵、空に浮かぶのは満月であり、その明るさは全てをくっきりと、幻想的に映し出していた。
「黒狼卿、私と踊っていただけますか?」
冗談めかして笑うラクシュミアが、自ら手を差し出す。
「喜んで」
ラクシュミアの手を取ったヴィンセントは、その腰に手を回し、ゆっくりと動き出す。
音楽のない静寂に支配された大広間の中、2人はただ静かに優雅にステップを踏んでいく。
「ヴィンは踊りも上手なんだね」
「貴族の嗜み、ということで、昔習わされたよ」
「へぇ、それはいったい誰と踊る為だったのかな?」
若干、険のある声と共に、ヴィンセントは右足を踏まれた。「失礼」と踏んづけたラクシュミアはそっぽを向いてしまう。
そこでヴィンセントは、ラクシュミアに一歩詰め寄ると、両手でその体を高々と持ち上げる。
「!!!」
驚くラクシュミアを宙に持ち上げクルクルと回転しながら、緩やかに下ろしていき、最後に鮮やかにポーズを決める。
「……な、なに、今の! 凄い、こんなダンス初めて! したこともされたこともないよ!」
「俺も初めてやったよ。今、ふと思ったんだ。こうやったらミアが喜んでくれるかもしれないって」
そんなヴィンセントの言葉にラクシュミアが笑い出す。
「うん、凄かった。とっても面白かったよ」
そう笑顔を浮かべるラクシュミアに、ヴィンセントは尋ねる。
「もう少しだけ、一緒に踊っていただけますか、お嬢さん」
「もちろん、喜んで」
笑顔を浮かべる二人は、再び踊り出す。
「ねぇ、ヴィン。ここでの生活はどう?」
「悪くない。ここでの生活は静かで穏やかで、外の世界を忘れられる。そんな場所だと感じているよ」
ヴィンセントの答えを聞き、ラクシュミアが嬉しそうに微笑む。
「ここはね、私が本当の自分に戻れる数少ない場所の一つなんだ。ラクシュミア・イルア・レイべリゼは表向き、レイべリゼ家の本邸にいることになっているの。社交界にもまったく姿を見せず、ただ屋敷で婚約者の帰りをただ静かにまっているだけの女。そんなつまらない女だと思われている」
しかし本当は違う。ラクシュミアは鉄仮面を被り、天眼の軍師として戦場に立っている。
「私の素性を知る人はこの世界にほとんどいない。だけどここは、この場所だけは違う。誰もが私のことを、本当のラクシュミアのことを知っている。ジジ様たちがいて、カリナたちがいて……そして今はヴィンがいてくれる」
静かにダンスのステップを止めたラクシュミアは、そのままヴィンセントに体を預ける。
「私にとってこんなに素敵な場所は他にない。ずっとここでみんなと一緒に暮らしていたい、そんな風に思える場所なんだ」
その体を支えながら、ヴィンセントはあることに気付く。
ラクシュミアの身体が微かに震えていることに。
「ヴィンは……私のこと、怒っている?」
「ミア」
「分かっているよ、ヴィンはきっと怒っていないんだろうって。きっと私の考えに気付いてくれているんだろうって。……だけどね、そんな私の考えは本当に合っているのか不安になるんだ。本当はヴィンは怒っていて、こんな場所にはいたくなくて、さっさと自分の国に戻りたいと思っているんじゃないかって……」
「……」
「私はね、謝らないよ。自分がしたことも後悔はしない。そこまでしてヴィンが欲しかったから、ヴィンと一緒にいたかったから。それが私の覚悟だったから。……だけど怖くもあるんだ。ヴィンが本当に私の思いを受け止めてくれるのかって? 心の底から信じているはずなのに。その思いが絶対だって思うくらい強い気持ちだからこそ……不安になってしまう時がある」
ラクシュミアの葛藤が痛いほど伝わった。
ヴィンセントがラクシュミアのことを思っているように、ラクシュミアもヴィンセントを思っている。
それは確かなことだと思う。
だけど果たしてそれは本当なのか? そう思っているのは自分だけではないのだろうか?
不安になってしまうのだ。確かめたくなってしまうのだ。
聞きたくなってしまうのだ。
言わなくても分かる、という考えがある。
それはきっと嘘だ。
どれだけ相手のことが分かっていても、どれだけ信頼していたとしても、その気持ちはふとしたことで揺らいでしまう。
だからその度に聞きたくなる。確かめたくなる。
相手の気持ちが、自分が思っている相手の本当の気持ちが。
「戦場を離れ、この場所に来てから、平穏な時の中で色々なことを考えた。皇国のこと、ロウタたちのこと……なによりあの終戦協定のことを」
「……」
「そして思ったよ。きっと帝国は止まらずに戦もなくならないのだろうと」
ラクシュミアがピクリと反応したが、ヴィンセントはそのまま続ける。
「ミアと俺が一緒にいる為には、どちらかが何かを諦めなければならないだろう。皇国かミアか。あるいはこのレイべリゼ家か俺か。どちらかが二つを手に入れたままならば、必ずもう片方は一つを失うことになる」
「……」
「それも仕方ないことだと思っている。一つの区切りがついた時、そういう選択をしなければならない時、俺は黒狼卿としての全てを捨ててもいいと思っている」
「ヴィン」
「……だけど実際にそうなった時、果たして自分は本当にそれができるのか不安になる時がある。これまで培ってきた全てを本当に捨てられるのか? もしその時がきたら、躊躇し、逃げ出してしまうのではないかと怖くなる」
ヴィンセントはそんな心の中の葛藤を見せる。戦場で黒き死神と恐れられる男がそんな弱さを口にする。
自分が生まれた土地、英雄として守ってきた国、大切な仲間たち、信じてきた神の教え。
そのどれもが、これまで培ってきたモノが、ヴィンセントにとってそれだけ大きなものなのだ。
それはたぶん、自分一人だけでは捨て去ることができないかもしれない。
だから――
「ミア、俺に他の全てを捨ててもいいと思わせ欲しい。これまでの全てを捨てて、ただミアと一緒にいることだけを願う。そう決断させて欲しい」
――理由が必要なのだと思った。
全てを捨ててまで手にしたい存在が、守るべき存在が。
「ここにいる間にミアの全てを俺に見せてくれ。ただミアだけを愛したいと俺に思わせてくれ」
そんなヴィンセントにラクシュミアは優しく寄り添い、そして微笑む。
「ヴィン。もしこれから自分の選択を後悔する時があったなら、その時は私を憎んで。あなたを騙した悪い女だと思って一生憎み続けて」
「ミア」
「でも安心して、そんなことは絶対にないし、私が絶対にさせないから」
真っすぐな瞳でそう断言する愛する少女の言葉は、ヴィンセントの心に確かに響く。
「ありがとう、ミア」
「ふふっ、なんだか変だね。今日は、私が慰めてほしかったのに、いつの間にか、私がヴィンを慰めている」
「そうだな。すまない」
「でも不思議。あんなに不安だったのに、ヴィンの葛藤を聞いていたら、そんなこと忘れちゃった。ヴィンの為に私が強くいなきゃって、そう思っちゃった。……でも、そっか。ヴィンがいるからは私は強くなれたのか。もしかしたら――」
腕の中の少女が微笑む。
「――それが誰かを好きになるってことなのかもね」
そんなラクシュミアの言葉を聞いた途端、ヴィンセントはラクシュミアを抱きしめていた。
強く抱きしめる。その温もりを感じる。その鼓動を感じる。
そしてゆっくりと顔を上げたラクシュミアと目が合う。
潤んだ瞳と目が合い、そっと近づいてくる微かな吐息が唇に掛かる。
「ヴィン、恥ずかしいよ」
「大丈夫、誰も見ていない。俺だけがミアを見ている」
ヴィンセントは夜空を明るく照らす月女神からミアを隠すようにして、
そっと口づけをする。
「ミア、愛している。心の底からただ君だけのことを愛している」
「うん。私もヴィンのことが大好き。ずっとずっとヴィンと一緒にいたい。だからお願い、私のことを決して離さないでね」
***
――少し未来の話をしよう。
半年後、ローベルト帝国は北西にあるカナン光国に戦線布告をする。
しかしこの動きに対し、帝国の東に位置するアリオン皇国は一切の手出しすることができない。
それは教会聖地における終戦協定により、帝国に対して戦を起こすことができないからだ。
ここに来て、徐々に、あの終戦協定の思惑が明るみになり始める。
ミカサ皇女の考えなしの稚拙な行動が、帝国に良い様に利用されたのだと、誰もが気づき始めるのだ。
世論は掌を返し、平和の皇女のことを愚直な皇女だと罵り始める。
そんな非難を切り裂くように、皇国より遠く離れたカナン光国の地に、一人の黒騎士が姿を現す。
皇国の英雄・黒狼卿ヴィンセント。
その圧倒的な強さに、世は再び震え上がることとなる。
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ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
今話を持って、書籍一巻より続く物語は、第一部完結となります。
ここで一度お休みをいただき、再開が決まりましたら何かしらの形でご報告させていただきたいと思います。
鳳乃一真
イキシアノ戦物語 黒狼卿と天眼の軍師2 著:鳳乃一真 ファミ通文庫 @famitsu
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