第58話 人質交換(6)
それはほんの可能性の一つだった。
だがそれは、ロウタの頭をガツンと殴るほどの衝撃を与える可能性だった。
今回、ラクシュミアが持ち出した計画は、皇国側と帝国側という垣根を超え、ラクシュミアとロウタ、お互いが利を得るために持ち掛けられた提案だった。
素性を偽り鉄仮面を被るラクシュミアの目的は、自分の身代わりとなったカリナと表向き赤竜卿に捕らえられたことになっている天眼の軍師という存在の奪還。
一方、ロウタの目的は、劣勢の戦況下で、取り残された仲間たちを無事に皇国側に戻すこと。何より、重症を負ったルゥとラクシュミアの申し出を受けてわざと捕まったヴィンセントを取り戻すことにあった。
鉄仮面を被ったカリナを取り戻すため、ラクシュミアが裏で手を回した計略であったが、それを持ち掛けられたロウタとしても十分に魅力的な提案であった。
だからロウタはこれに協力した。
現にそれは八割方叶っている。
帝国領に取り残されていた黒狼軍やタイラーたち、何より捕らえられていたルゥ
も無事に戻ってきた。
だがしかし、だからと言って、なぜこの後、ヴィンセントまでもが無事に戻ってくると言い切れる?
「……俺はあのお嬢さんと一緒になって、赤竜卿や閃光のアルタナたちを騙していたのではなく、騙されているのは俺も同じだったとしたら?」
途端、ロウタの背中に冷たい汗が噴き出る。
顔を上げるロウタ。
すでに、赤竜兵に手を引かれながら杖を突く鉄仮面の軍師は、石壁の下にある。
「とにかく、急いで……」
そう一歩足を前にしたロウタだったが、その動きはすぐに止まる。
……俺はどうすればいい?
まだ本当にそうと決まった訳じゃない。ヴィンセントが帰ってこないと決まったわけじゃない。
案外このまま捕虜交換は滞りなく済んで、話は終わるかもしれない。
もしそうならば、今、何もすべきではない。
俺が何かすれば、この捕虜交換自体がご破算になる。
だが、もし本当に俺の想像通りならば、天眼の軍師を引き渡すのは得策じゃない。
赤竜卿に言って、待ったをかけるべきだ。
ヴィンセントのあの扱いについて抗議するということで、この捕虜交換を強引に中止させてもいい。
……だが、そうなると、確実に理由を聞かれる。
『ロウタ、お前はなぜそう思う?』
正直に話すならば、「俺は敵方のお嬢さんと結託して、この捕虜交換がスムーズに進むように画策していたから」と答えるべきなんだろうが、勿論そんなことを言える訳がない。
この時、ロウタの中では、このまま無事に終わるという可能性が2割、ラクシュミアが何かしら画策しているという可能性が8割だった。
ラクシュミアが何かを画策しているのならば、すぐに打開策を打ちたい。
しかし何事もなく終わる可能性が未だ残っている。何より、この場にいる自分以外のほぼ全員が、この取引が何事もなく執り行われることを疑っていない。
全てが何事もなく終わるという可能性が拭いきれず、何よりこれまでこの捕虜交換が無事に進むように動いていたからこそ、ロウタは動けずにいた。
ロウタが陰でラクシュミアに協力していたことを知る者がいない一方、ロウタの協力者もまた皇国陣営には一人もいない。
何も言わず協力してくれるであろう、黒狼軍、ライラ―伯率いる皇国軍、それにルゥたちは、すでに第一の関に向けて出立している。
「……っ!」
故にロウタは動けない。何の証拠もない、ただの可能性で、この取引を破談させることができない。
せめて、もう少し早く気づいていれば何かしら手を打てたかも……いや、そんなことを考えても仕方がない。
それよりも考えろ。
あのお嬢さんはどうやってヴィンセントと
石壁の上の物陰から見守るロウタの視線の先で、キーマィリが口を開く。
「これより黒狼卿を積んだ荷台を兵士一人に引かせ、そちらに向かわせる。そちらも兵士一人に天眼の軍師殿の手を引かせ、中央まで来てもらう。そこで互いに捕虜を交換し、引き上げる」
帝国軍の前に立つキーマィリは、自分のいる位置とブラームスが上に立つ石壁のちょうど中間辺りの位置を指差す。
帝国軍と石壁までそれなりに開けており、何かあれば即座に両軍が動き出し、自分側の捕虜を連れ戻せるだけの距離がある。
これを聞いたブラームスは「いいだろう」と答えると、背後に控えていた赤竜兵の一人に指示を出す。
その赤竜兵は階段を降り、鉄仮面の軍師の手を引く仲間にブラームスの言葉を伝える。
それを受け、鉄仮面の軍師を手を引いていた赤竜兵が、そのまま石壁の下を潜り始める。
杖を突いて歩く鉄仮面の軍師に合わせているので、その歩みはとても遅い。
一方で、帝国側からも黒狼卿を乗せた荷台が動き出す。
荷台を引く馬の手綱を持った帝国兵が歩き出したが、こちらも相手の歩みに合わせるように非常にゆっくりとした歩みだ。
――こうして黒狼卿と天眼の軍師の捕虜交換が始まった。
石壁の外で今まさに捕虜交換が始まった時、石壁の裏では、先ほど赤竜卿の言伝を伝えた赤竜兵が、石壁の裏に待機していた皇国兵たちに合図を送っていた。
これに頷く皇国兵たちは、急ぎ荷台の布を取り始める。
その下から顔を出したのは、複数の丸太を括りつけた巨大な板と、重石となる大きな岩の数々。
その目的は、石壁の穴を塞ぐこと。
砦門の代わりにするのではない。
完全に穴を塞ぎこの石壁をただの壁とすること、これこそが、石壁の上の物陰からその様子を見下ろしているロウタの考えた作戦である。
まずは石壁で山道口を完全に塞ぎ、山道内に帝国軍が入り込まないようにした上で、とにかく守りに徹する。
しかる後、皇国からの援軍を待って、マルデュルクス砦の立て直しを図る。
その目的は、山道口の確保ではなく、時間稼ぎである。
帝国軍の今回の大軍を持っての進軍は、絶対禁戦領域を定める教会に対する威嚇行為以外のナニモノでもない。
この点を上手く突き、政治的な道筋をもってこれを引かせること。
それこそが今回、ロウタがブラームスに提案した計略だった。
もちろんすぐに結果が出る話ではない。
これは戦場の話ではなく、政治の話。
むしろ時間の掛かる長期戦になることは必至だろう。
だがそうなれば、ブラームスはよほどうまくことを運ぶだろう。
まず教会に対してこの度の帝国側の進軍について報告すると共に、教会側から正式な抗議と事実確認と銘打ち、マルデュルクス砦周辺での両国の争いに待ったを掛けるように提案。この戦場を休戦に持ち込む。
この休戦は長ければ長いほどいい。
それだけマルデュルクス山道内の整備工事を進めることが出来るからだ。
おそらく、この休戦の間に、山道内の整備は終わる。
休戦が空けた後は、満を持して整備し終えたマルデュルクス山道を使い、帝国側に攻め入る、という算段である。
確かに、今回の帝国側の大進軍は意表を突かれたが、政治的に下手を打ったのは間違いない。
十分に付け込む隙となった。
つまり皇国としては、ここで石壁を防ぐことに成功すれば、後は上手くことを運ぶ段取りが出来ているのだ。
そう考えた時、この度のキーマィリが口にした捕虜交換の方法は、ブラームスにとっては渡りに船だったに違いない。
石壁の上の物陰から捕虜交換が行われる石壁の外に目を向けるロウタは、改めて天眼の軍師の手を引きながら非常にゆっくりと歩く赤竜兵を見て納得する。
おそらくブラームスは、この2人をなるべくゆっくりと歩かせることで、準備の時間を稼ぐつもりなのだろう。
杖を突かなければ歩けぬ天眼の軍師を中央まで連れて行くには時間が掛かる。その一方で、鉄檻に入れられたヴィンセントと交換したら、馬に乗って、一気にこちらまで戻ってくることが出来るからだ。
逆に帝国側は、交換後に、足の不自由な天眼の軍師を連れて戻すのに手間と時間が掛かる。
この差は、こちらの仕掛けにおいて非常に優位に働く。
だがその一方で、ロウタは、ラクシュミアの思惑について改めて思考を巡らせる。
この状況で、あのお嬢さんは、どうやって鉄檻に入ったヴィンセントと鉄仮面を被ったカリナを同時に手に入れるつもりだ?
このタイミングで、帝国軍を動かして、2人を確保する?
しかしもちろん、それを黙って見過ごすほど、ブラームスは甘くないだろう。
すぐさま、天眼の軍師の手を引く赤竜兵に命令し、その首を刎ねるに違いない。
確かにあそこにいるカリナは偽物であり、カリナならば赤竜兵を返り討ちにすることができるかもしれない。
しかしそれは、あくまで偽物であるカリナだからできることであって、身体を蝕まれている天眼の軍師に出来る芸当ではない。
その事実を隠したまま天眼の軍師という存在を取り戻したラクシュミアがそのようなことをするはずはないだろう。
この捕虜交換は2万の帝国兵と赤竜卿を始めとした多くの皇国兵たちが見守っている。
その視線の中で、天眼の軍師のフリをし続けなければいけないカリナと鉄檻に入ったヴィンセントを同時に手にするなど不可能だ。
ロウタはそう考え、そうとしか思えない。
――その時、どこからともなく馬の嘶きが聞こえてきた。
そちらに目を向けると、どうやら整然と並ぶ2万の帝国軍の馬の一頭が声を上げたらしい。
特に気にする必要もないと、視線を戻そうとしたところで、ロウタは改めてそちらを見る。
帝国軍の陣形、兵士たちの配置である。
前線に騎馬兵を多く並べている。
これはすでに気づいていたし、その理由にも心当たりがあった。
帝国側からしても、こちらがマルデュルクス砦に居座るつもりなのは明白。
捕虜交換が終われば、即座に動く腹積もりなのだろう。
おそらく、帝国側が動き出すタイミングは、捕虜交換が終わった後、ブラームスとキーマィリの問答が終わってからだろう。
書状での約束通り、こちらが引けば問題はなし。しかし居座るつもりならば、即攻め込む。
ブラームスもそれは分かっているだろう。
だからこそ、取り戻したヴィンセントが石壁の下を潜り抜けた瞬間、すぐさま石壁の穴を塞ぐ作業に取り掛かるつもりなのだ。
石壁の穴を塞ぐにもそれなりの時間を要する、それまでに向こうの妨害に合えば、この作戦は失敗するだろう。
こちらが穴を塞ぐが先か、向こうが攻め込むのが先か。
だがもし、その前提が違っていたとしたら?
改めて帝国軍に目を向ける。
気のせいかすでに帝国の騎馬兵たちは飛び出す準備をしているようにも見える。
しかし天眼の軍師は赤竜兵に手を引かれ、捕虜交換はまだ始まってもいない。
最低でも、捕虜交換が終わり、天眼の軍師の安全が確保できる帝国軍近くまで戻らなければ動けないはず。
気にし過ぎか?
ロウタの視線は、帝国軍の前線をなぞる様に動いていく。
そしてその視線はとある一点で止まる。
馬上にて、この捕虜交換の様子をジッと見守るキーマィリ。
――その左手が、自然と腰に下げた剣の鞘から柄へと撫でるように動いた。
ロウタは確信する。
あれはキーマィリが奇襲を行う直前に剣の位置を確認する時の癖!
視線を捕虜交換の場所へと向ける。
未だ、黒狼卿の鉄檻を乗せた荷台を引く馬も、天眼の軍師の手を引く赤竜兵も距離は遠い。
ロウタの頭を過ったのは、リドルの顔。
次の瞬間、ロウタは立ち上がり、石壁の裏側に向かって叫んでいた。
「作戦を開始しろ! すでに天眼の軍師は敵の手に落ちている!」
............................................................................................................
お読みいただき、ありがとうございました!
次回『第59話 人質交換(7)』は2月24日の配信予定です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます