第12話 サーシャ・クレイトン

 レイピアの切っ先を向けるサーシャの冷たい瞳がヴィンセントを見据える。


「何か言ったらどうなの、黒狼卿?」

「何も言うことはない」


 そうきっぱりと答えるすヴィンセントに、サーシャの瞳は一層冷たくなる。

 次の瞬間、サーシャが握るレイピアがヴィンセントに向かって突き出される。


 その切っ先は、瞬き一つしないヴィンセントの左目の直前で止まる。

 二人の視線が交わる中、レイピアの切っ先は微かに下を向き、ヴィンセントの頬骨辺りに触れる。

 絶妙な力加減を込められた剣先は、ゆっくりヴィンセントの頬の皮を裂き、かすかな血の点を作る。


 それでもヴィンセントは微動だにせず、ただじっとサーシャの冷たい瞳を見つめ返す。


「ヴィンセント。私があなたを殺さないのは、黒の英雄にはまだ利用価値があるからよ。皇国のため、何よりミカサ様の為に、私はあなたを生かしている。それがあなたの生きる価値だと理解しなさい」

「分かっている」

「ミカサ様のお考えはとても崇高なるモノ。きっと誰もがそのお心に感服し、この和平は必ずや実現するでしょう」


 そしてサーシャはヴィンセントに命じる。


「だからそれまでに殺しなさい。一人でも多くの帝国人たちを殺しなさい。エリオン兄様を殺した奴らを一人でも多く殺しなさい。ミカサ様の願いが成就されるまでに。そしてミカサ様の為に働き、全ての役目が終わったのならば、あなたも死になさい。私が殺してあげる」

「……」

「私があなたを、黒狼卿を殺すことができないと思っている? いいえ、私はどんな手段を使ってでも必ずあなたを殺して見せる」

「……」

「ヴィンセント。私はエリオン兄様を見殺しにしたあなたことを決して許さない。未来永劫恨み続ける」

「……分かっている。サーシャ、お前の気持ちは」


 ヴィンセントが表情一つ変えずにそう答えた瞬間、怒りの形相を浮かべたサーシャの握るレイピアに力がこもる。


「失礼いたします、サーシャ様。ミカサ様の命により、お茶をお持ちいたしました」


 だが扉の向こうから、侍女の声が聞こえると、サーシャの手からレイピアが消える。


「不要です。黒狼卿はお帰りになるそうです」


 扉の向こうにそう答えると、サーシャはヴィンセントを一瞥し、部屋を出て行った。

 その場に残ったヴィンセントは自らの頬にできた赤い斑点を指で拭う。


 今のサーシャ・クレイトンを支えるのは、敬愛するミカサ皇女への絶対なる忠義と最愛の兄を奪った全てに対する怒り。

 そして何よりエリオンと同じ戦場に立ち、それを救うことのできなかったヴィンセントへの憎しみ。


 サーシャの顔を見ると、ヴィンセントはどうしても昔のことを思い出してしまう。

 エリオンとサーシャ、三人で過ごした時間を。


 だがそれは、もうないのだ。

 今のサーシャには、かつての面影は微塵もない。

 それでもヴィンセントは思わずにはいられない。


「まだ生きていてくれてよかった、サーシャ」



   ***



 皇宮を後にしたヴィンセントが屋敷に戻ると、ルゥが出立の準備を済ませ待機していた。


「お帰りなさいなの、ヴィンセント隊長。準備はできているの」

「分かったすぐに出立しよう」


 ヴィンセントは、滞在中の屋敷を警護してくれていた兵士たちに礼を言うと、黒馬ミストルティンに跨る。


「また皇都ともしばらくお別れだな」


 ヴィンセントとルゥは、馬を走らせる。

 街道を進む中、後ろを走っていたルゥが尋ねてくる。


「ヴィンセント隊長。何かあったの?」

「皇王からの話については、帰ってから話す」

「そうじゃないの。ヴィンセント隊長。何か元気がない気がするの」


「そんなことはない」

「本当なの?」

「ああ、大丈夫だ。だから帰ろう、ルゥ。俺たちのいるべき場所へ」


 黒馬ミストルティンの速度を上げる、ヴィンセント。

 だがその横顔を見ていたルゥは、ヴィンセントが少し前の、表情を失ったヴィンセントに戻ってしまったように思えた。



  ***



 そしてヴィンセントたちが皇都を出立した、その焔の日の夜。


「こんなところで奇遇だな、良い女」

「白々しいのよ、髭面男」


 自由都市マルタのいつもの酒場では、黒狼軍副官を務めるロウタと天眼衆の長を務める、カリナが顔を見合わせていた。


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