第11話 ミカサ皇女の密かなる願い
「ご無沙汰しておりました、ミカサ皇女殿下」
「こうして再びお会いできたことを嬉しく思います」
まだあどけなさの残るミカサ皇女。背まで流れる美しい黒髪、なにより吸い込まれそうな優しさと意志に満ち溢れた瞳がとても印象的だ。
それとは対照的に、ミカサの背後に控えている凛とした侍女は、冷たい瞳でヴィンセントを見据えている。
「黒狼卿のご活躍は広く皇国中に広がっています。そして多くの民が平穏を感じています」
「恐れられていなければいいのですが」
ヴィンセントの本音にミカサがくすくすと笑う。
「確かに小さい子たちは怖がっていましたね。母親たちも『悪さをすると黒狼卿がやってくるぞ』と口を揃えて言っていますから」
「そうですか」
以前、マルデュルク砦に隣接する村で子供に大泣きされたことを思い出し、ヴィンセントは重たい気分になる。
「ですがそれ以上に、皇国の英雄たる黒狼卿の存在は、多くの人々の憧れとなっています。あたなのようになって皇国の為に戦うと修練に励む者もいます。彼らにとってあなたは希望なのです」
微笑むミカサ皇女の言葉に、ヴィンセントの心は軽くなる。
「もしそうであるのなら、本望です」
そう口にしながら、ヴィンセントは改めてミカサ皇女について思う。
本当に不思議な方だ。
神々の血脈たる皇王の一族は、性別によってその役割を決められている。
正義神の末裔である皇王の血脈において、神の力を宿す皇子は、神の領域である神聖宮に止まり、神として人々を導く。
一方で皇女は、外界へと降り立ち、人々に安寧を与える。
皇国の民は、皇王を神の末裔として崇め奉る一方、皇女のことを神の血を引く巫女として敬愛している。
そしてその一人であるミカサ皇女は、皇宮の外に足を運び、多くの民たちと言葉を交わしている。
ミカサ皇女の前では誰もが素直に心を開き、安らぎの言葉をかけていただける。
いつの頃からか、このように囁かれるようになっていた。
そんなミカサ皇女は、一度背筋を伸ばすと、突然頭を下げ始めた。
「先に謝らなければいけません。今回、黒狼卿が皇都へと呼ばれたのは、私の働きかけなのです」
「分かっております。ですから顔をお上げください」
皇王からのお言葉が全てを物語っていた。
皇王は嘘も偽りも口にしない。
ただありのままの言葉を口にされる。
その皇王が、ただミカサ皇女と会うことを命じたのであれば、そういうことなのだろう、というのはヴィンセントには想像がついていた。
顔を上げたミカサ皇女に、ヴィンセントは改めて尋ねる。
「それでミカサ皇女。自分にどのようなご用件でしょうか?」
ミカサ皇女は、一拍の間をおいて、口を開く。
「黒狼卿。帝国との戦いをどう思われていますか?」
「と申しますと?」
「私は常々、疑問に感じております。はたして、それは正しいことなのかと」
それは正義神の末裔たる皇王の一族が口にする発言としては、あまりにも意外な一言だった。
「長く続く帝国との戦。神々の教えを重んじる皇王のお言葉も理解できます。皇国の正義をもってこれを征することが役目であるというお考えも。ですが、根本にあるのは、帝国が教会の教えをないがしろにしているという理由であり、それを力によってねじ伏せるというやり方はどうなのでしょう」
その言葉を受け止め、ヴィンセントはミカサ皇女の意志ある瞳を見つめながら尋ねる。
「皇女殿下は、帝国との争いに反対なのですか?」
「私は多くの皇国の民たちを見てきました。確かに皆が平穏に暮らせています。しかしその中には戦で愛する者を亡くした女性も父親を失った子供たちも沢山いました。そんな民たちの涙を見ながら、私は常々思ってしまうのです、はたしてその犠牲は本当に必要なもなのかと」
長年続く、帝国との徹底抗戦の中、帝国との和平を求める声は少なからず存在する。
しかしまさかそれが、皇王の女児たる皇女の口から聞くことになるとは、まったく想像していなかった。
ただただ言葉を無く、皇女の言葉に聞き入るヴィンセントに、ミカサはさらに驚きの言葉を口にした。
「近くローベルト帝国の帝王グラム王が自由都市マルタを訪れ、教会の聖地を訪問するという情報があります」
「! それは真でございますか!?」
これまで帝国は、教会とは常に一定の距離を置き続けてきた。
肯定するでもなく否定するでもなく。ただただその存在を黙認し続けてきた。
その頂点たる帝王が教会本部に赴くこと。
それはつまり、帝王が神々の御前にはせ参じることを意味している。
もしそうであるならば、帝国が教会を敬ったという明確な事実となる。
「私はその場へと赴こうと思っております。そして帝王閣下に、私の気持ちをお伝えするつもりでいます」
ヴィンセントは目を見開く。
「危険すぎます!」
「すでに懇意にしている教会本部の方々にはご助力を賜っています。それに教会聖地、その入り口でもある自由都市マルタは絶対禁戦領域の中。私は何度も訪れたことがあります。黒狼卿にも以前付き合っていただきましたね」
それは少し前のこと。皇王の勅命により、ヴィンセントが極秘裏にマルタへと訪れた時のことだ。
その目的は、マルタを半日ほど訪問したミカサ皇女の護衛だった。
ラクシュミアと運命的な出会いをしたのは、ミカサ皇女を見送った、すぐ後のことである。
だが今の話を聞く限りでは、すでにその時には、この計画の話は進められていたのかもしれない。
「ですが、万が一ということもございます」
教会の定めたこととはいえ、一般人の往来のあるマルタでイザコザがないわけではない。
ヴィンセントの言葉に、ミカサはチラリと後ろの侍女に目を向ける。
「安心して下さい、私には頼りになる者が付いていてくれます。ですが、それだけは不十分であることも実感しています」
「ですから自分に声を掛けていただいたのですね?」
ミカサは頷く。
「この話は私の周りにいるごく一部の者しか知りません。黒狼卿、あなたに打ち明けたのは、あなたを真の騎士と見込んでのことです」
その意志ある瞳に見つめられ、ヴィンセントの背筋が伸びる。
ミカサは尋ねる。
「黒狼卿。真の騎士のあり方とは、正義の名の元に敵を打ち滅ぼすことでしょうか?」
ミカサの質問に、ヴィンセントは首を横に振る。
「いいえ違います。騎士とは人々の平穏と安寧を護る者であるべきだと存じ上げます」
ヴィンセントの言葉に、ミカサは「やはりあなたに打ち明けてよかった」と微笑みを浮かべる。
「黒狼卿、どうか私に力を貸してください。あなたが守るマルデュルク砦は、今や皇国と帝国の争いの中で重要な拠点であり、その意味はとても大きい。加えて自由都市マルタとも近くにあります。帝王閣下が教会の聖地へ赴かれる時には重要な意味をなしてきます」
「心得ています」
ヴィンセントは考える。
皇国と帝国の和平。
自分や目の前にいるミカサ皇女が生まれる前から続く帝国との戦争。帝国は敵であり戦わなければいけない、という教えの中で、実際に帝国と刃を交える自分には、それをあまりにも途方もないことに感じていた。
しかし皇女として皇国の民と触れるミカサはそれを見ていた。
ふと脳裏に過ったのはラクシュミアの笑顔だった。
ミカサ皇女の提案。
それはヴィンセントにとって、一筋の希望に感じられた。
だからこそヴィンセントは床に膝を付き、ミカサ皇女に首を垂れる。
「このヴィンセント、皇王様より賜りし黒狼卿の名に誓って、ミカサ様のお力になることをお約束いたします。自分がお力になれることがありましたら、何なりとお申し付けください」
「ありがとうございます、黒狼卿」
ミカサは嬉しそうに笑った。
「ミカサ様、そろそろお時間です」
話の区切りにそう口にしたのは、ミカサの背後に控えていた侍女だった。
「分かりました、サーシャ。黒狼卿、これより私は公務の為に出立しなければいけません。折を見て、マルデュルク砦へと使者を送ります」
「かしこまりました。それと皇女殿下、あえて一言。この件を伝える者、くれぐれも慎重にお選びください」
「ご忠告ありがとうございます。その言葉、胸にとどめておきます。では私はこれで失礼します。ですがサーシャを残していきます。二人とも久しぶりに会うのです、語らうことも多いでしょう」
口を噤むヴィンセントに、ミカサは微笑む。
「今となっては、あなたたちは元許嫁同士。ですが、私は今でもあなたたちが笑い合っている姿を覚えています」
それだけ言うと、一人部屋を退出するミカサ。その足音はやがて聞こえなくなった。
そしてヴィンセントと侍女サーシャの二人きりなった。
次の瞬間、冷たい表情を浮かべる、侍女の手に突然レイピアが現れる。
隠し武器だ。
そしてその切っ先はヴィンセントに向けらえる。
サーシャ・クレイトン
武勇の誉れ高いクレイトン家の娘である。
ミカサ皇女の侍女としてその身の回りの世話をする以上に、サーシャに求められていることは、皇女に近づく脅威を全て排除する、護衛の任。
サーシャはこれを見事に勤め上げている。
そのサーシャの唇がゆっくりと開かれる。
「まだ生きていたのね、ヴィンセント。いったいあなたはいつになったら死んでくれるのかしら」
サーシャ・クレイトン
ヴィンセント・ブラッドの元婚約者であり――
そしてなにより、英雄として戦場に散った友の妹でもある。
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