第6話

 この国の日常は決して揺らぐことがない。

 外の世界から一人の女の子が突然やってきても大きな変化をもたらすことはなかった。そしてその女の子が去って一ヶ月が過ぎようとしていた。彼女が来る前と来た後、そして去った後でこの国が何か変わったかといえばそれはなにもない。決まった時間に太陽は昇り、また決まった時間に太陽は沈む。国民の誰もが朝目を覚まし、夜に眠る。

 今朝もまた朝早くから太陽は夏の日差しを煌々と地面に降り注ぎ、僕はその暑さでうなされるかのように目が覚めた。ミアと別れてからというもの僕の心が落ち着くことはなかった。ほとんど毎日のように明け方に彼女を追いかける夢を見る。決して彼女に追いつくことはできず、ただ走り彼女へと手を懸命に伸ばす。あとちょっとで届くと思うその瞬間にいつも目が覚める。朝からシャワーを浴びなければならないくらい汗はびっしょりでベッドのシーツは毎日交換していた。

 この国の日常は変わらなくとも、僕を始めアポロやカーラの心模様はミアの消失によって大きく変わった。三ヶ月という短い時間だったにも関わらずミアは昔から仲良くしているかのように僕たちの心にいた。その彼女が急にいなくなったことに対してなかなか気持ちの整理が思うようにつかないでいるのは僕だけではなかった。

 ミアがいなくなってからの最初の一週間は何もする気が起きなかった。いなくなってみて初めて僕の中でミアが占めているウェイトが大きいことを知って自分でも驚いたのを覚えている。

 ミアと接していた時に感じていた感情、あれは恋だったのだと気がついた時にはもう彼女の姿はどこにもなくなっていてなにもかもが手遅れになっていた。

 きっと自分の無意識の部分でミアに恋する気持ちをセーブしてたのではないかと思う。そうじゃなければあんなに簡単に別れることはできなかったはずだ。自己防衛の機能が働いたんだ。結局僕は自分のことが一番だったのかもしれないと思い悩んだ。

 今は月日の流れの中でミアを失った心の隙間のようなものは段々と塞がれてきているように思う。それでも毎朝見る夢は今も僕を苦しめていた。

 真夏に差し掛かってはいても山の頂上付近にそよぐ風は涼しく汗をそっと拭き取ってくれる。空を見上げていればまたミアが降ってくるんじゃないか、そんな思いを共有し、今日もまた僕は空を見上げに山に来ていた。

 そう、変化としてあるのは、山に登るのが僕だけじゃなくなったことだ。隣にはカーラとアポロがいる。毎週末三人でこの場所から空を見上げるのが決まりとなっていて、そんな僕たちの行動を中には死者を弔うようで感心しないと揶揄する者もいた。

 「やっぱりなんかここは落ち着くよ」

 アポロが地面にどかっと座りながら大きく深呼吸をして空一点を真剣な表情で見つめていた。

 「どうして今までこんな綺麗な空を見たいとも思わなかったのか不思議でならないや」

 「それは私も思うところ。相変わらず外の世界に飛び出したいとかは思わなくてもこの空は見たいと思うんだよね」

 二人の心は確実にミアによって影響を受けた。空を欲する思いはミアが二人に残したプレゼントなのかもしれない。ではミアは僕には何か残してくれたのだろうか。

 この問いに対してアポロは恋する気持ちだと言っていた。

 昔からの長い付き合いのアポロには僕が今までまともな恋心を抱いたことがないことをよくわかっていた。常に恋に生きる男から見れば僕がミアと出会ってから変化したことはあっさりわかったのだろう。自分自身ですら気が付かなかったことが恥ずかしい。

 「人は良くも悪くも恋をして成長できるんだ」

 いつだかアポロが言ってた。この手の恋の名言をアポロは常日頃からバンバン飛ばしていた。

 でも、そんな恋という素敵な気持ちを僕に抱かせておいて、その当人が消えてしまうなんてちょっと残酷すぎやしないか。空を見るのは好きなのにそのせいでよりミアのことを思い出す。

 「いいか、セリム。恋愛はついすぐ結果に目を向けがちだけどその過程こそが大事だ。言い方ちょっと悪いけど泡沫の恋だって溺れているうちは幸せと感じるかもしれない。でもその幸せがわかるから人は恋を求めるんだよ。今セリムは恋という気持ちをミアと接することで覚えた。それは生きるうえでかけがえのない素晴らしい気持ちのひとつだ。ミアのことを忘れろとは言わない。セリムがずっと想っていたいのならそれでもいいと思う。ずっと片想いできるなんてそれはそれですごく幸せなことでもあると思うから。でも恋するその気持ちを封印するようなことだけはしちゃいけない。一度張ることに成功した恋のアンテナは常にオンにしておくべきだ」

 アポロがかっこいい理由がなんとなくわかった気がする。僕にはすぐに真似できることじゃないけど、アポロは常に全力で恋をしているからどこか輝いて見えるのかもしれない。

 カーラは何も言わずうつむいていた。決して人のことを言えたものではないがカーラも恋愛沙汰にはだいぶ奥手のはずだ。

 「今はただ全力でミアを想い続ければいい。そしていつかもしかしたらミアと同じかそれ以上に感じるものがある相手に巡り会えるかもしれない。そのときに決めればいい、本当にセリムが好きなのは誰なのかを」

 「ちょっとアポロ、ミアちゃんを死んだように言うのやめてよ。ミアちゃんとのハッピーエンドの可能性はゼロじゃない」

 うつむきながらそう言うカーラの目にはキラリと光るものが見えた気がした。カーラはどんな気持ちなんだろう。僕には人の気持ちがよくわからない。アポロなら今のカーラの気持ちまでしっかり汲み取ってあげられるんだろうか。

 「そうだね、ごめん。確かに可能性はゼロじゃない。でも付き合いが長いセリムを心配する気持ちのが強いんだ。セリムのことを思うと酷なこと言うようでも新しい恋にも前向きにあってほしいんだ」

 蝉の声が微かに聞こえる。他に聞こえる音はなく辺りはひどく静寂に包まれてしまっていた。三人で話していて沈黙が気まずいと思うことなんて初めてだ。僕たちにはまず沈黙が訪れることがなかった。

 沈黙を破ったのはやはりムードメーカーのアポロだ。立ち上がり大きく伸びをしながらこちらを振り向いた。

 「俺は全力で恋に生きるし、セリムのことも全力で応援する。話はいくらでも聞くし、俺なりのアドバイスもいっぱいする」

 「私も応援する。アポロに比べたら恋愛なんてこれっぽちもわからないけど、一応女の子だし。女の子の意見もときには必要でしょ?今は、たぶんだけど私たちはとにかく笑顔でいなきゃいけないんだと思う。下を見るんじゃなくて上を向いて、とにかく笑おうよ」

 

 山から帰ると家に一通の手紙が届いていた。誰からの手紙かなんて見なくてもわかる気がしたが、封筒の裏を見るとミアの名前がそこにはあった。すぐに読みたい衝動に駆られたがこれはアポロとカーラも一緒に読んだほうがいいだろうと思い、彼らに連絡をして明日みんなで読むことにした。

 寝るために電気を消しても机の上に置いたその手紙だけ光って見えた。実際に光り輝いているとかいうわけではなく、読みたい一心から手紙が光っている錯覚に陥ってしまっていたのだろう。

 外の世界から手紙が届くことなんて絶対に無理だと諦めていた。ミアは死んだわけではないが死と同じくらいに考えたほうがいいほどこの国の鎖国主義は絶対だった。

 手紙が届いたということはまた会える希望を持っていいのかもしれない。ベッドに入っても心臓がものすごく鼓動していて全然眠れなかった。

 気がつけば部屋は朝日ですっかり明るく照らされ、サウナのようなうだる暑さがあった。いつのまにか眠ってしまっていたわけだが、今朝はいつも見るミアを追いかける夢を見なかった。正確には見ていたのかもしれないが、深く眠ったのか覚えていなかった。

 手紙はちゃんと机の上にある。手紙は僕の元に届いたということが改めて実感となって湧いてきた。

 その朝はやはり気がそわそわと落ち着かず、母さんの愛情たっぷりの朝食もほとんど手を付けられなかった。そんな僕のことを気にかけた母さんはフルーツをミキサーにかけ、手軽に栄養を取れるようにと新鮮なフルーツジュースを作ってくれた。

 アポロとカーラは午前のうちに僕の家に慌てた様子で二人同時にやってきた。カーラはすっかり息を切らし、アポロはいつものオシャレもままならないラフな格好で共にミアのことで心を乱していることが伺えた。

 「セリム、ミアから手紙が届いたって本当なの?」

 アポロが何か言いかけるよりも早く、息も絶え絶えにカーラが問いかける。

 「とりあえず二人とも落ち着いて。僕も昨日から全然落ち着いてらんなくてだから人のことは言えないんだけど。紅茶でも飲んでまずは気持ちを静めよう」

 二人が僕の部屋に来るのはすごく久しぶりな気がした。子どもの頃は本当によく遊んだものだ。毎回三人で遊ぶときはの誰かの家で遊ぶのが恒例で、僕たちはあまり外で遊んだりしなかった。

 「相変わらずさっぱりした部屋だね」

 アポロのこの言葉が長く部屋に来ていないことを物語っている。

 「やっぱり二人とも僕の部屋に来るの久しぶりだよね」

 「言われてみるとそうだね。なんか変な感じ。セリムの家もアポロの家も自分の家のように出入りしてたのに」

 昔は紅茶なんか飲まなかった。決まってジュースやサイダーなんかと一緒にポテトチップスやチョコレートといろんなお菓子が宴会場を華やかにしていた。

 僕たちはささやかなサイズのティーカップに注がれた紅茶とわずかなクッキーを見て頬を緩めた。みな同じことを思い出したようだ。

 「大人になったんだ」

 アポロがどこか感傷的につぶやくのを聞いて月日がしっかりと流れていることを僕は改めて身にしみて感じた。

 「ミアの手紙のことだけど、セリムはもう読んだの?」

 そう聞くカーラにアポロも身を乗り出す。和やかだった雰囲気はミアという名前に反応するかのように厳粛ともいえそうな緊張感のある空気を作り上げていく。

 「いや、まだ読んでない。ミアはきっと僕たち三人に手紙を書いたと思うんだ。だから三人で読んだほうがいいと思って」

 僕は机の引き出しを開け、その手紙を取り出した。小さな手紙一つにここまで場の空気を掌握する力があるなどと僕たちは誰も知らなかったと思う。部屋は一層としんと静まりかえり、つばを飲み込む音すら聞こえてきそうだ。

 「これなんだけど」

 差出人の名前がミアと裏に書かれている以外には真っ白なその封筒を二人に渡すと、大事なものを扱うように慎重にその手紙を眺めた。

 「開けようか。心の準備はいい?」

 「大丈夫。読もう」

 僕の問いにアポロとカーラは声を揃えた。

 

 幸せなひとときを演出してくれた最愛なる三人の友人へ

 久しぶり。というくらい時間が経っているのかな?私は外の世界に帰ってすぐ手紙を書いてちょうど一ヶ月後にそれを送り届けました。この手紙はすぐにみんなの手元に届いてくれてる?

 最後の日、私はひとつのお願いをしました。手紙のやり取りをさせてほしいと。

 たぶんかなり渋ってたと思う。四人の大男たちが顔を見合わせてヒソヒソと議論してたから。でも彼らは許してくれた。

 とはいえ鎖国政策を徹底してる国だから、手紙の内容は検閲されるみたいであまり変なことは書いても消されてしまうか届かなくなっちゃうみたい。

 毎月決まった日に青い鳩が私の家の前に飛んでくるって言われたの。その青い鳩に手紙を託せって。初めて書く手紙だからその鳩を見た感想はまた次回になっちゃうんだけど、本当に届くかちょっと心配。

 きっと今この手紙はセリムの家かなんかでアポロとカーラも一緒に三人で読んでるんじゃない?セリムならたぶんそうすると思うから私も三人に向けて手紙を書くね。

 あれこれ一緒に過ごした日々を連ねるのはもったいないしもう会えないみたいな雰囲気になるからやめておく。

 私は元気だよ。無事に家に帰ることができて今までまったくやらなかった家事とかやってパパとママにどこか悪いのかと心配されたよ。

 家族と過ごす時間がすごく大切だってすごくすごく身にしみてる。

 家族にもみんなのこと話したいんだけどさ、誰にも話してはいけないって言われてるし。でも秘密を守ればまた会いに行けるかもしれないでしょ、だからそのへんはすごく注意してるの。

 書きたいことは山ほどあるんだけどさ、やっぱり手紙だと大変だね。

 みんなの近況も知りたいな。

 毎月手紙を送るつもりでいるからさ、すぐに返事ちょうだいね。

 料理にもチャレンジしてます。

 みんなに美味しい手料理を振る舞えるように頑張ってます。

 

 ミア


 読み終わってからもしばらくは誰も言葉を発することはなく、それぞれが頭や心の中でミアからの手紙をゆっくり噛み砕いているかのようだった。少なくとも僕はそうやってじっくりとミアを感じていた。

 口を開いていいものかという空気がそこにはあり、お互いに顔を見合わせてみな苦笑いをしたことでやっと静けさから戻ってくることができた。

 「ミア、無事に帰れたんだね」

 僕は心からミアの無事に安堵した。

 「元気そうでよかった。毎月手紙のやり取りができるなんてこの国にしてみたらすごい進歩だ。ミアがまたこの国に遊びに来る日も近いかもしれない」

 「アポロ、さすがにそれはちょっと気が早すぎるよ。でも確かにミアちゃんとはつながっていることがわかった。よかったね、セリム」

 僕は答える代わりに笑顔を返した。

 ミアと会える可能性はぐっと高くなったんだ。そう思うと長いこと心の奥底で張っていた気持ちがいくらか緩むようだった。

 「でもちょっと手紙短いね」

 アポロが言ったことに関しては僕も疑問を感じていた。ミアならもっと長い手紙を書きそうだと思ったからだ。

 「毎月書くからそんなにがっつり書く必要もないと思ったのかな。もしくはミアちゃんも言ってたけど検閲されて内容を少し削られたとか?」

 カーラの指摘はどちらも考えることができた。ミアの性格を考えると検閲で引っかかるような内容も書くとは思えない。するとやっぱり毎月書ける安心感によるものか、単純に忙しくて青い鳩に間に合わないと思ったとかだろうか。

 「ま、また来月にも手紙来るんだから。とりあえずすぐ俺たちからも返事を書かなきゃだ」

 アポロの明るい言葉に促されてさっそく三人の共同の手紙を書くことにしたが、普段メールに慣れているせいか字を書くということが僕たち三人とも思うようにできなかった。そのなかでもカーラはやはり女の子とあって自分じゃ否定するも丁寧なかわいい文字を書いていたので、書くのはカーラにお願いした。

 内容はそれぞれが軽く下書きとして書いてみてうまいこと編集することにし、力を合わせて作業をすることが懐かしく楽しく、気づけば夜まで僕たちはその作業を続けていた。

 

 不思議の国に紛れ込んだ愛すべきお姫様へ

 ミア、手紙ありがとう。

 ミアの考えたとおりミアからの手紙は三人で読んだよ。

 この手紙は三人の編集作業によって構成されていて、文字はカーラが書いています。

 近況報告としては、セリムはミアと離れてからというものうじうじとずっと落ち込んでたよ。手紙を読んでようやく元気を取り戻したところ。

 アポロは相変わらず恋にオシャレにと大忙し。次にミアに会うときはもっといい男になってるんだと頑張ってる。

 カーラも相変わらずだね。おっとりのんびり毎日のように本を読んでる。

 でも大きく変わったこともあるよ。こと自体は大きくないかもしれないけど、三人にとってはとても大きなことなんだ。

 三人でいる時間の深みが増した。

 もともといつも三人でいることが多かったけど、ミアとの関係を通して三人の関係もより強く深くなったんだ。

 最近は毎週末に山に登ってみんなで空を見てる。その空を見ることでミアをそばに感じることができる。

 同じ空を見上げてる。

 離れていてもミアはいつだってそばにいる。

 三人分だから書くことはそれこそ山のようなんだけどさ、ミア一人で読むのは大変だろうし、毎月書けるわけだから控え目な量にしておく。

 きっとあまり長い手紙にすると検閲する人も辟易しちゃうだろうからさ。

 またミアからの手紙待ってます。


 不思議の国の仲良し三人トリオ

 

 時間をかけた割にはあんまりな内容だと三人とも思っていたようで僕の家で夜ご飯を食べながらずっと大爆笑が止むことがなかった。

 でも変にかっこつけたりするくらいなら自然なままのあるがままの姿をさらけ出したほうがいいというのはアポロの意見だった。

 「でもさ、この手紙ってどこに出したらいいんだろう」

 ふとアポロが言った一言に僕もカーラも食べかけのものを喉に詰まらせそうになった。

 「ミアのところには青い鳩が飛んでくるみたいだけど、俺たちはそのへんのことなんにも聞かされてないし」

 「どうしよう。せっかく書いたのに」

 「明日大学の後にみんなで元老院に行こう。きっと何かわかるはず」

 僕は強気にそう言った。


 元老院はいつでもそこにあるのにそこにはないような建物だ。存在感があるのに存在感がない。どうしてそう感じるのかはわからないが、僕以外の二人もその奇妙な感覚は感じているようだった。

 前回ミアを見送っていたために入り口を見つけることは容易かった。それでも近づくまでその入り口の輪郭すらしっかりと捉えることはできていなかった。入り口を前にして僕たちは足を止めた。いや、勝手に足が止まってしまった。

 大きな獣の口のようなその入り口に入ることは命を奪われるのではないかと思うくらい不気味なものだった。強い覚悟のうえで来たはずなのにどうして足が止まってしまうのか。

 暑さのためにかいていた汗とは違う種類の汗が滴り始めていた。アポロやカーラも自分たちの気持ちをどう処理していいかわからないといった具合でただ立ち尽くしていた。

 「行こう」

 僕は声を張った。もしかしたらその声は震えていたかもしれない。それでも今のこの状況を変えるには十分で、僕たちは獣の口に飲み込まれる覚悟を決めた。

 通路は一本道になっていて電気はところどころにしか灯ってないために昼間とはいえ光が入るのは入り口のみでかなり暗い。振り返ると入り口の輪郭が光って内側ははその光に塗りつぶされていた。

 突き当りにあるエレベーターに乗る以外の選択肢はない。エレベーターにボタンも付いてないことから行き先は決められているのだろう。

 肝試しにも似た心地が広がっていた。そして今は頂上に昇りつめるのを待つジェットコースターに乗っている気分だ。

 エレベーターが到着の音を静かに鳴らすと同時にドアが開きその広い部屋が一望できた。

 窓も何もない部屋。電気はあるのかないのか真っ暗だが部屋の様子は見て取れた。ただ空間がぽっかりとあるだけで何も置かれていないし、誰もいない。空調により調整されたのとは明らかに違う部屋の涼しさが恐怖を煽る。

 中に入るのはためらわれたが、ここまで来て引き返すわけにもいかない。僕は妙に強気になっていた。先陣を切って部屋の中に進んでいった。

 ジーと機械音が響いて僕も他の二人も寄せ合っていた体を大きく反応させて振り返ると、エレベーターが閉じていくところだった。なんだとばかりに安堵を覚えると今度はどこからかいきなり男の声が響いた。

 「手紙をそこに置いて立ち去れ」

 カーラは恐怖で何も聞き取れなかったようで、僕とアポロがかろうじてその内容を聞き取った。

 僕たちは無言のまま顔を見合わせるとその場に持ってきた手紙を置いた。するとエレベーターがそれをスイッチとばかりに再び開き僕たちを招くかのように不穏な機械音を奏ででいた。

 僕たちは足早にその場を去り、表に出た。ずっと呼吸を止めていたみたく眩しい光に目を細めながらぜえぜえと息を荒げた。心臓は信じられないくらいのスピードで動いているのがわかる。足もガクガクで思うように動かない。

 カーラはその場でしゃがみ込んでしまった。腰が抜けたのかもしれない。アポロもさっきは暗くて気が付かなかったが、真っ青な顔をしていた。きっと僕もひどい顔をしているんだと思った。

 「手紙、置いてきちゃったけど大丈夫かな。あれで届けてくれるならいいんだけど、もっと穏便なやり方はないものか」

 「遊園地のお化け屋敷でもあんなに怖くはないよ。この年になってまであんなにビビるとは思わなかった」

 僕とアポロは場の雰囲気を少しでも和らげようと少し大きめの声で会話をしてみるもカーラは依然として無言のまま疲れ切った表情で俯いていた。

 「カーラ、怖い思いをさせちゃってごめんね。もう大丈夫だから。今度来るときは僕とアポロで来るからさ」

 「ううん。大丈夫。ごめんね、ちょっとびっくりしすぎちゃった。でも私だけ留守番なんて嫌。手紙は毎回みんなで届けに行こ」

 ミアが以前この建物に一人で立ち向かったかと思うと僕は複雑な気分になってしまった。三人でいてもあんなに不安だったのにミアはどんな思いでいたのだろうか。

 「帰ろう」

 アポロがカーラに手を貸して立ち上がらせると僕たちは硬直した足を引きずりながらもゆっくり元老院を後にした。

 

 僕たちの手紙は本当に届いているのだろうか。そんな不安を微かに覚える中、ミアから二回目の手紙が届いた。

 今回も三人集合してから手紙を読むことにした。

 

 愛すべき三人の勇者へ

 手紙ありがとう。ちゃんと私のもとにみんなからの手紙が届いたよ。びっくりした。あるときいきなり窓から手紙が投げ込まれたの。誰が持ってきたかはわからないんだけどね。

 みんなの近況が聞けて嬉しい。みんなさらに一層と絆が深まったんだね。嫉妬しちゃうな。私もそのなかに入りたい。

 なんて、みんなが私のことを思ってくれているのはわかるから。また会える日を楽しみにしてる。

 手紙を届けてくれる青い鳩はもうなんとも形容しがたいただの青い鳩だったよ。たぶん本物の鳩だと思う。あれがロボットかなにかだったら衝撃的だよ。手紙をかざして立っていた私のもとに一気に空から下りてきて上手に手紙だけ奪っていっちゃった。

 でも返事が来たってことは私の手紙はちゃんと届いてたってことだよね。本当によかった。届いているか確認する手段がないしそればかりが気になってたから。

 私は相変わらず元気に過ごしてます。友達や両親との関係がすごく良くて毎日が楽しいよ。しいてわがままを言うならみんなのところにすぐにでも飛んでいきたいかな。

 あ、クッキー作れるようになったんだよ。

 女子力を着々と磨いています。

 次に会うときは一段と女に磨きがかかったスペシャルなミアだから。


 ミア


 「よかったぁ。ミアちゃんに手紙ちゃんと届いたんだね」

 カーラは読み終わると同時に大きな安堵の溜息をついた。アポロもやっと肩の力を抜けるといった顔で体を仰け反らせてリラックスし始めた。

 「あとは、手紙の出し方をなんとかしたいとこだね」

 アポロの言うことはもっともで毎回手紙を出すだけであんな不気味なところに行くのは神経が大きくすり減ってしまう。かといって僕たちに他の方法は思いつかなかった。あるとすればもう一度だけあの場所に行って顔も見えぬ相手に交渉することだろうが。

 「どのみち次にもう一回行くしかないんだし、今度は勇気出して手紙の出し方を相談してみよう」

 「セリムずいぶん図太くなったよね。どちらかというと怖がりでおとなしい印象だったけど最近はぐっと男らしくなった気がする」

 そうなのだろうか。自分のことは案外自分が一番よくわかってないのかもしれない。自分では何も変わったところなどないようでそうした変化に気がつく人がいるのは不思議だ。

 来週までにそれぞれが書きたいことを考えてまた休みの日に編集作業をしようということになり今日のところはお別れした。

 部屋に一人取り残されてみるとずいぶん静かで驚いた。いつも誰かと一緒にいることが多くて一人の時間を意識していなかった。

 みんながいるときにはなんとなく言っていいかわからなくて何も言わなかったが僕はミアの手紙に何か引っかかるものを感じていた。文面だけを見ればミアなんだとも思うけど、愛すべき三人の勇者ってなんだろうか。僕には勇者という単語が僕たちのあの場所での恐怖に対する頑張りを褒めているように思えてならなかった。ただの偶然でまったく違うことを意図して書かれたものかもしれない。でも一度気になるとその手紙はミアからのように思える一方でミアではないようにも思えてしまう。

 タイミングよく夕食が出来上がったのか下の階から母さんが声をかけてくれた。その声にもびくっとしてしまうこんな僕のどこが図太く男らしいのかと恥ずかしく思う。一人でいることが少し怖いのも事実と素直に認めて僕は下の階に下りて家族の顔を見てホッとするのだった。


 僕は気になっている点についてはアポロやカーラに言わないでいた。何か決定的な証拠が揃うまでは安易に変なことを言うもんじゃないと思い、その後もミアから来る手紙には人一倍神経を研ぎ澄まして不審なところがないか探し回った。

 こちらから出す手紙は交渉の場すら与えられず今もまだ毎回あの場に行って手紙を置いてくるということを繰り返していた。それでも人間なんでも慣れというものがあるのか今となってはカーラですらももはや怖がる素振りはみせないくらいになっていた。

 そうしてミアがいなくなって半年以上過ぎ、季節は冬となり吐く息は白くいくらか肌寒くなっていた。

 この国で雪が降ることはあまりない。おそらく雪なんて降らなくすることも可能なはずだ。それでもたまに雪がちらつくことがあるのは、そうした幻想的な空間の演出なんだと僕は思っていた。

 事実、窓の外はふんわりした白い小さな綿菓子のようなものが空からゆっくりと落ちてきていて、突然の空からのプレゼントに喜ぶ子どもの声が部屋の中にまで届いていた。

 手紙への意識の向け方がアポロやカーラとは違っているからだと思う。国に雪が降るなか届いた手紙に大きな違和感を感じた。

 ミアはこの国に雪が降っていることを指摘した。正確には、そろそろ雪がちらついてるんじゃないか、という表現ではあるが、タイムリーすぎる。僕にはその表現が推量のようで確信をもったように思えてならなかった。

 ミアは人類学を研究していて空を飛び回ったりもしていた。世界の天候事情にも精通しているはずだ。季節は冬とはいえ、この国のことをあまり知らない人間がこの時期に雪が降るなどと思うだろうか。地図上で考えればこの地域に雪が降るとすればおそらく2月だ。ミアが今この時期に雪の話題をするとは思えなかった。

 アポロやカーラはなんの違和感も感じていないようで、ミアへの返事を考えようと楽しそうにしている。僕はわからなくなってきていた。仮に手紙の相手がミアではなかったとして、それではなんのために僕たちと文通をしているのか。考えられるのは、ミアが無事ではない、ミアがこの国に再び来ることは不可能といった僕たちの不安要素を消すための国の策略。

 でもそこまでするだろうか。もともと僕たちはこの国の徹底した鎖国主義を知っていて元の世界に帰ったミアが戻ってくる可能性が薄いことは覚悟していた。手紙が来なきゃ来ないでおそらく僕たちは悲しいけれども納得していたと思う。ならばこの手紙には何か別の意図があるのか。考えれば考えるほどわからなくなる。そもそも前提として僕は手紙がミアによって書かれていないとしているが、そこが間違ってるかもしれないわけだ。

 好きな人のことを信用できないなんて。僕はなぜ疑ってしまっているのだろう。今年の雪はいつもより降っている気がした。しんしんと降るその雪を見ていると心が詰まる思いがした。

 その後のやり取りにおいては、ミアしか知らないであろう個人的な事を質問で聞いてみたりしたもののうまくはぐらかされてしまった。同じ事を何度と聞くこともできたが、アポロやカーラに変に思われてしまう気がする。

 どうにも決め手にかける状態がずっと続いた。その間僕はずっとミアがミアなのか疑いながらやり取りをしていたことになる。

 季節はまもなく春になろうとしていた。つまりはミアがこの国にやってきた季節を再び迎えようとしていた。

 庭のアネモネは再び見頃となり美しい花を咲かし、僕の家は優しい香りに包まれていく。

 「アネモネはそろそろ完全に咲き誇ってる頃かな?儚い恋を象徴するアネモネだけどセリムの家のは咲き加減だけで一年中綺麗だよね」

 ミアはアネモネのことは名前くらいしか知らなかったんじゃなかったか。そうでなくてもこの家に住んでる僕でさえアネモネのことなんて多くを知らない。儚い恋?一年中綺麗?

 「母さん、アネモネのことミアにどれくらい話した?」

 僕はすごい勢いで質問したのだろう、母さんはかなり驚いたようで後ずさりしてしまっていた。

 「いきなりどうしたの?アネモネ?」

 「うん。ミアとアネモネのこと話したことある?」

 母さんは記憶を遡るために右斜め上に視線を向けた。何事にも真剣に考えてくれるのは母さんの美点だ。

 「うーん、どうだろう。話したような話してないような。でもセリムに話してる以上のことは何も話してないと思うけど」

 「どういうこと?」

 「アネモネは母さんと父さんの大事な思い出の花だから、花についての基本的なことを聞かれたら答えるけど、私たちの思い出のエピソードに関してはセリムとクレアが聞きたいってなったら話すつもりでいるだけで他の人にはあまり話すつもりはないの」

 「それって、アネモネが儚い恋の花だとか、この家のは一年中咲いているとか?」

 「あら?セリム意外と詳しいのね。まあでもそのくらいならちょっと花に詳しければ花言葉だし知ってるかもね。この家のアネモネが一年中咲いてるのも近所に住んでる人にはわかることだし」

 僕は一年を通して毎日アネモネの花を無意識に見ていたから気が付かなかったが、花が一年中咲いているなんて普通に考えたらおかしい。母さんはアネモネとは本当は冬から咲き始めて春にその見頃を迎えると言っていた。僕ですらアネモネはずっと咲いてるものと勘違いしていた。でもミアは?そもそも一年中咲いてることを三ヶ月しかいなかった人間が知ってるのか?そして母さんはうちのアネモネの特殊性を言った覚えはないと。

 父さんにいたってはミアには一度しか会ってないと言っていたし、そのときにそんな話をするとは思えない。花言葉にしてもうちのアネモネの特殊性についてもミアが知っているはずはない。

 「セリムももう大人だからね、アネモネにまつわる私たちのエピソードを話そうかしら。ちょっと長くなるけど」

 母さんは僕がそのエピソードを知りたいと早とちりしているようだった。夫婦の馴れ初め云々については確かに少し興味はあったが今はそれどころじゃない。

 「うん、ありがと。でもまた今度の機会にお願いするよ」

 僕はそう言うとすぐに自分の部屋に戻った。

 決め手といっていいのかはわからないが、不自然な点が多いのも確かだった。知ってはならないことを知ってしまったときのような恐怖が体の中に渦巻いているのがわかる。全身が奇妙な緊張感で震えていた。

 ミアはこの国には大きな秘密があると考えていた。ミアのことを調べればその秘密にも辿り着くだろうか。僕はなんとか冷静を保とうと何度も深呼吸をし、自分の脳内にごちゃごちゃになった考えをひとつずつ紡いでいった。

 ミアのことを調べようにもそれはいきなり袋小路だ。なんの手がかりもないに等しいからだ。そうなればやることは一つで、国について探りをいれていくしかない。僕には国の秘密がミアに繋がると確信めいたものがあった。

 「監視されてるかもしれないの」

 ミアが友人たちと他愛もない会話に興じていた時に僕の携帯端末にふと打ち込んですぐに消した言葉が脳裏をよぎった。僕に伝えたいそのメッセージが重要なことは明らかだった。そんな状況でいきなり提示してくる必要があるくらい差し迫っていたか、実際に監視されてるから二人っきりで神妙に会話ができないことを考えたかだ。

 この国の監視網はよく知られている。だがそれが個人にも向けられているとしたら。いろいろと記憶が蘇ってくる。僕がミアと初めて会った時に現れた二人の男はどうしてあのタイミングで出てくることができた?ミアが来ることを予想していた?その可能性もあるがおそらくそれだけじゃない。あのとき用意されていたスクーターには僕とミアが乗るだけのスペースがあった。つまりは、僕も監視されている。

 導き出した考えにぞっとした。ミアに会う以前に僕は監視されていたのかもしれない。理由はわからないが思うところもある気がする。そうなるとなかなか動きにくい。どこで情報が漏れるかもわからないし、国を相手にする決意をするならしばらくは誰のことも信用してはいけない。

 僕は決めた。いや、初めから決めていたんだと思う。これはミアがくれたもの。リスクは重々承知のうえでもやらねばならないことなんだと感覚でそう感じていた。

 窓をかたかた震わせるほど強い風が吹きすさんでいた。僕はその風すら国が何か警告を促すもののように思えてならなかった。

 

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