第3話
地下鉄に乗り大学に向かう。
乗るまでの道すがら空に見える太陽はどうみても本物だ。空がすべて液晶パネルとは信じがたい。意外と高さはないのだろうか。でも山があるくらいなことを思うとけっこう高いか。空の高さはイコールでこの国が地下深く潜っていることを意味する。技術レベルでは可能でもそこまでするとは。
朝だというのに通勤通学ラッシュはないという。完全オートで分刻みで電車が走るためだそうだが、そもそもの人口が少ないこともあるはず。
混んでないとはいっても乗ってるのはみな太っている。狭く感じる。
普段は友達と電車で乗り合わせるそうだが、今日は少し早く出たこともあり誰とも会わないまま大学に到着した。
大学はいたってシンプルな見た目で、特に変わったところは見当たらない。講義塔、図書館、体育館の三つからなるという。
「最初に学長室に行くよ。大学に連れてきたら初めに行けって言われてたんだ。」
「あの四人に?」
セリムは頷く。大学とパイプがあるということか。
学長室は講義塔の最上階にある。ほとんどの生徒が訪れることはないと言われる場所だそうだ。
エレベーターが開くとすぐ目の前に重厚な扉が出現した。凝った作りで、いかにも扉の奥にラスボスがいますといった雰囲気だ。
私たちを自動で認識したか中から手動で開けたか不明だが、扉の前に立つとすぐに扉は開いた。
広い部屋の突き当り中央にこちら向きに大きな机が置かれ、その手前には応接用のソファーとテーブル。周りには本棚にびっしりと書類が詰まっている。いかにもな空間だ。
そこで待っているのは学長その人で、やはり太っている。
かなり身長が高く横幅も相当なもので貫禄は十分。私たちを歓迎した笑顔で迎えソファーに座るように告げる。
ソファーは私にはちょっとしたベッドのようで落ち着かなかったが、文句を言ってる場合でもない。
秘書らしき女の人がどこからともなく紅茶を持ってきてくれた。姿こそ黒いスーツを着こなしできる女の装いだが太っている。心無しか酸素が薄いような。
「おはようございます。君がミアくんだね。話は聞いている」
私はなんと答えていいかわからずただそうですという顔をした。
「緊張するなと言っても難しいかもしれないが、今日から大学生活を楽しんでほしい。これは君の学生証だ」
一枚のカードを渡された。どこにでもありそうな普通の学生証だ。いつ撮ったのかそこには私の顔写真がある。撮るべくして撮った表情をしていることが気になる。そんなことしてないからだ。ここで問いただしても答えは期待できそうもないししばらくは学生の振りをしておくべきだ。
「使い方、大学の仕組みなどはセリムくんに聞いてくれ。要件はそれだけ。朝の教壇に立つ先生が君のことを紹介してくれるから」
あっさりと学長との顔合わせは終わり、講義を受ける教室に行く。
講義は教室の各席に設けられたモニターで受けるらしく、授業に応じて教室を移動するということはないようだ。というか教室は一つしかないという。講義塔とは名ばかりで、残りの部屋はすべて先生方の研究ルームらしい。
そのため教室には大学の在校生のすべてが集まっていることになる。
ミアを見てすぐに見慣れない顔だとわかるのは当たり前で、次第にざわざわとする。
そこにすぐ先生が入ってきた。
毎朝ホームルームのようなものがあるらしい。
「さ、席について」
席は決められていない。どの端末からでも学生証で自分の履修する講義を受けることが可能だという。
私とセリムは隣に座る。すぐ横の男の子がおはようと笑顔を見せる。
「さて、おはようございます。今日はまず留学生の紹介だ。ミアさん、その場でいいのでちょっと立ってもらえるか」
名前を呼ばれてしぶしぶ立ち上がる。
「正式な手続きの元でなされた留学生だ。外からの生徒の受け入れは異例中の異例だが仲良くしてあげてほしい」
歓声が上がる。その場の空気が、留学生の珍しさを物語っている。
私はよろしくお願いしますとだけ言って座る。なんか恥ずかしい。
教壇に立った先生は私を紹介するさいに確かまず留学の紹介だと言っていたはずだが、紹介だけしたらどこかに行ってしまった。
最初の授業が始まるまで10分ほど。
周りに一気に生徒が群がる。
「かわいいー」
「オシャレだね」
「すごい小さいね」
女子がキャーキャー言っている。
「留学生だってやばいね」
「なんかセクシーでエロくね」
「なんかいい匂いする」
男子が後ろの方で言っている。聞こえてるんだけどと思いながらも男女とも私への反応、評価は悪くなさそうだ。
様々な質問が投げかけられるもセリムがうまくさばいてくれている。
すぐにチャイムが鳴り、残念そうにみな席に戻っていく。
「ごめんね、みんなミア興味あるんだよ」
「外の世界に興味を示さないのに?」
「外の世界うんぬんではなくミアそのものにだよ。この国は基本的に見知った顔しかいないから」
そっか。それもそうだ。外の世界とかじゃなく新しい人間が珍しい。しばらくは質問攻めに耐える必要がある。
セリムにやり方を聞き端末をセット。今日はすべてセリムと同じ講義をお試しで受けてみる。最初の授業は世界史だ。
内容は中世ヨーロッパはフランス革命について。
この手の内容の授業をしていてなぜ誰もこの国の政治に疑問を投げかけようと思わないのか。てっきり授業も偏った科目、内容を想像していたこともあり、一発目からセリムが普通の世界史を受けて拍子抜けというか余計に疑問だらけになる。教えている先生とも直接話をしてみたいものだ。
フランス革命は重要なテーマの一つとあって私の世界では中学でも高校でも切り口こそ違えど勉強する。もちろん大学でも学んだ。今まさに語られていることはレベルとしては高い次元の話だ。セリムは世界史をどの程度知っているのだろう。
授業が終わる。
セリムの隣の男の子が声をかけてくる。
「セリム、ちゃんと紹介してくれよ」
「やあやあ、アポロ。こちらはミア。ミア、こっちはアポロだよ」
「ミア、よろしく」
「こちらこそよろしくね、アポロ」
アポロと名乗る男の子はこの国の男の子と比べると少し小さい。それでも十分に太ってはいるが。清潔感のあるオシャレなデブ。言い方は悪いがそんな感じだ。
この国のイケメン基準はわからないがきっとアポロはモテるんじゃないだろうか。人当たりの良い雰囲気のある笑顔、がっつかない落ち着いた佇まい、そしてなにより着ている服がファッションに疎い私でもわかるくらいに洗練された感じがする。
授業と授業の間は5分。教室の移動がないわけだから妥当なところか。
セリムが受ける次の授業はなんと物理学だ。
文系と理系の区別はないのか。そもそもセリムは文理どちらなのか。
私は文系の人間だ。理系科目はさっぱり。特に物理は。人類学がなく文系科目に興味が持てなかったとしても恐らく私は物理のせいで理系に進むことはなかっただろう。
内容は案の定さっぱり。概論的な授業のようで、なんとなくセリムはなんでも興味を持つタイプの文系じゃないかと判断する。
大学のカリキュラムは午前午後それぞれ2コマずつの週5日制。午前の授業を終え、昼ごはんを食べに学食に行くことになる。
セリムとアポロはいわゆる幼なじみだそうだ。そしてそこにもう一人女の子が合流した。少々控え目な性格のようでほとんどセリムが紹介してくれた。
カーラという女の子で、セリムの妹のクレアと比べるとかなり痩せている。いや、もちろん十分に太ってはいるんだけれども。カーラはアポロよりもひと回り小さい。
ここまで出会った人を頭の中で並べてみる。セリムは標準というが、セリム、クレア、お母さん、アポロ、カーラとなるか。こうして校内を見るに妹のクレアは女の子としては太っていることがわかる。セリムも確かに相対的には普通なのかもしれない。
カーラは人見知りが激しそうだ。元の私よりも地味な格好を好むようで、女子力はほぼない。本気を出せばそこそこ化ける気もするのにもったいない。そう思ってすぐ自分を棚に上げてることに気づいた。
賑わう学食は暑苦しい。間違いなく酸素が足りてない。
私は小人になった気分を味わっている。どうせ昼ごはんも相当な量のものがでてくるのだろう。
カーラはお弁当だった。毎日自分で作っているという。力の入れるポイントに偏りがあるだけで女子力は意外と私なんかよりずっと高いのかもしれない。可愛らしいお弁当箱だ。ただA5サイズほどの箱が四段ある。
「ミア、学食はタダだよ。日替わりのプレートが何種類もある」
アポロが教えてくれた。
すべて無料だという。ならお弁当なんて作る必要ないじゃんと思うも、カーラは料理が好きなのかもしれない。
私はパスタのプレートを頼んだ。三種類の味のパスタがプレートに綺麗に盛られてはいるものの、量としてはその一種類で十分だった。この国の食料の消費量はどうなってるのか。生産はちゃんと追いついているのだろうかと心配になる。
セリムはいろんなものが一緒くたになっているものを選んでいた。ロコモコのように見た目は見えるけどちょっと違う気がする。
アポロは野菜中心のプレートだ。一見するとかなりヘルシーに思えるが何事にも限度がある。摂取量を間違っていないだろうか。
カーラのお弁当はその点バランスがとれていた。見た目の色合いも良く美味しそうだ。ただこちらも量は多い。
「カーラは料理が得意なの?」
一足先に私とカーラは食べ始めていた。
「うんとね、得意というか好きなんだ」
「羨ましい。私料理はまったくダメなんだ」
セリムとアポロがそれぞれ向かいに座る。
「セリムの家にいるんでしょ?セリムのお母さんに料理おしえてもらったらいいんじゃない?」
セリムのお母さんの料理の腕前は有名のようだ。アポロも料理が好きらしくたまに教えてもらいに行くという。
「え?ミアってセリムの家に住んでるの?」
カーラは驚いたように言う。
「そうだよ。僕の家がホストファミリーに選ばれたんだって。母さんの面倒見の良さが広く知れ渡ってるからかもね」
セリムはなんでもないようにさらっと言ってのけるがおそらく嘘だろう。
「いいなぁ、セリム。綺麗なお母さんに可愛らしい妹、そして突然現れたお姫様とハーレムじゃんか」
アポロの言い方を聞いているとあまり冗談のようにも思えない。たぶんこの国では本当にセリム母娘は美人のカテゴリーに入るのかもしれない。
なぜかセリムと一緒にカーラまで頬を赤らめている。セリムはもうなんとなくわかってるけどカーラもけっこう純情なんだろう。
「でも私この国の文化事情をもっと知りたいからみんなの家にも行ってみたい」
「いいね、それ。久々にみんなの家で遊ぼう」
アポロがすぐに反応した。
アポロはムードメーカー的な位置にいる。場を明るくする術を知っている。いい意味で遊び慣れているプレイボーイ体質だとみえる。
カーラは本当に口数が少ない。いつもこうなのだろうか。セリムの妹のクレアと比べると全然違う。この国の一般的な女子像はこの両極端な二人からは導けない。
「そうだ、ミア。カリキュラムについて話しておかないとね」
今日から大学に通うにあたって履修する科目を決めなければいけなかった。みんなはどんな授業をとっているのだろうか。
「ミアは文系?それとも理系?」
アポロは興味津々だ。
「私は文系。文化人類学を専攻してるの。ここでもそれを中心に勉強できたらって思う」
「そっか、文系かぁ」
アポロは残念そうに言う。
「僕とカーラは文系で、アポロは理系なんだ」
「でもセリムさっき物理の授業受けてたよね?」
この国では文理の区別はあまり重要でもないらしい。大きくその二つのくくりで分けてはいるものの、どんな授業の履修も可能というかなり自由な校風だという。
セリムが持つ端末でシラバスを見せてもらったが、かなり細かく専門領域が別れて様々な講座が開かれている。それこそ週に20コマの授業すべてを文化人類学関係の講座で埋めることもできそうだ。
「カーラはどんな授業を受けてるの?」
私はそんな本気で授業など受けなくてもいいんだろうけどなかなか良い経験にはなる。安易に選ぶよりはちゃんと決めよう。
「私は文学を専攻してるの。ほとんどを文学中心の講座で組んでる」
「へー、文学かぁ。私は読むものといったらもっぱらライトノベルだもんな」
「ライトノベル?」
みな一同に声を揃えた。この国にはないジャンルかも。
「ああ、私の国にある小説のジャンルの一つ」
「文学じゃないの?」
もっともな質問だ。カーラが読んだらどんな感想を持つか非常に気になる。普段から高尚な文章に慣れ親しんでいるわけだからたぶん違和感を感じっぱなしだろう。
「文学といえばそうだけど。文字通りライトなノベルって感じ。純文学なんかとは違って中高生をターゲットにした簡易的なものかな。いや、まあ、最近じゃよく出来たものもあるから一概に軽々しく扱うのもどうかと思うんだけど、世間的にはね」
うっかり口走ってしまったが、ライトノベルという概念が存在しないことには救われた。小説となんら遜色ない力ある作家も多いはずなのに今なお世間の目は冷たい。
「じゃあ、アポロは?何を勉強してるの?」
話題を変えたくてすかさずアポロに振ってしまった。
アポロはそんな私の顔色を察したようだが知らぬふりで質問に答える。
「オレは生物学が専門だよ。物理や科学なんかも勉強はしてる」
「それはすごい。こればかりは私には未知の領域だ」
「セリムは宗教学だよ。でも文理問わずいろんなことが好きだよね?」
アポロはカリキュラムの話を意図的に続けてくれている気がした。そうじゃなきゃまたライトノベルに戻りそうだったしありがたい。
「うん。僕は宗教学をメインに据えて歴史学、社会学、言語学、物理学や数学にと少しでも興味あるものはかじるようにしてる」
「あれ?文学はあんまりなの?」
あれだけ家に本があるのにと思ったが、偏ったテーマの文献ばかりで文学はなかったかもとも思う。
「うん。小説は嫌いじゃないけどかちっとはまった文学ってなると少し僕には硬い感じがして。ミアの言ってたライトノベルっていうのは面白そうだから読んでみたいけどね」
変な汗が出そうだ。せっかくアポロのナイスアシストがあったというのにこの男はさらっと話を戻してきた。いや、今のは私が悪いか。まったく悪気はない天然なのだろうが天然が一番厄介だ。
「ミアちゃんが普段読んでいるのはどんな話なの?」
ずっと静かにしてたカーラが話に入ってきてしまった。カーラの目は完全にまだ見ぬライトノベルにロックオンされたかのようだ。
「うーんとね、ちょっと説明が難しいというか。今度また時間がたっぷりある時にゆっくり話すね」
オタク文化など理解されようもないから詳しく話しても大丈夫だと思うも踏ん切りがつかない。
「あれ?初めて喋る相手にカーラから質問なんて珍しいね」
またもアポロの助け舟だ。
「なんか話しやすいの。私がつがつ来られても縮こまっちゃうから。ミアちゃんは距離感がぴったりっていうかなんか波長が合う気がするというか」
「カーラはクレアみたいのは苦手だもんね」
セリムが笑って自分の妹を引き合いに出す。
確かに波長といえば私もカーラと合う気がするかも。私もあまり自分から話すタイプではない。群れるよりは独りを好む。そんな私でも不思議とカーラには自分から声をかけていたような。
「うん。カーラ、私もそれなんとなくわかるよ」
学食の後、私たちが向かったのはコンピューター室だ。講義塔を入ってすぐのところにある部屋で、学食堂は講義塔の突き当りにあるので入り口に戻るかたちだ。
大学に来たらまずそのコンピューター室に行き、各々の体重を計測することが決まりになっているという。
「なんで毎日体重を測らないといけないわけ?」
身体測定なんて一年に一度とかあるかないかだ。
「この国では体重が最重要事項なんだよ。子どもから大人に至るまでどこでもそのコミュニティー内で体重が計測される。体重が健康バロメーターであり、社会人なら生産性の目安としても参考にされる。体重が減ったりしたらメディカルチェックというものをしなきゃいけなくて特別な施設でいろいろ検査をしなきゃいけないんだ」
アポロが丁寧に教えてくれる。
「体重が減ったら?増えたらではなくて?」
どう考えても増えたほうが問題ではないのか。減るなんて健康を考えたら喜ばしいものに思える。
「オレたちの体重が減るなんてことは基本的にはありえない」
「え?」
思わず足を止めてしまった。すぐ後ろを歩いていたセリムとカーラにぶつかりそうになる。
「ごめん、減ることがないってどういうこと?」
「そのままだよ。減らないんだ。普通に生活してたら増えることはあっても減ることはない。だから体重が減るというのはどこかしらに問題が生じているサインと捉えられてしまう」
そんなことがありえるのだろうか。人間なら日々の生活での体重の増減など日常茶飯事なはず。
「ねえ、根本的なところからなんだけどさ、あなたたちは私を見てどう思うの?すごい痩せてるって思うの?」
ずっと気になっていたことだ。痩せてる人がいないなら概念としても存在しない可能性があることは前にも考えた。
「痩せてるって思うよ」
アポロはさらっと言う。
「ここにいても外の世界のことを知る文献は多くある。一般教養レベルで外の世界の人たちが痩せているのが普通なことも知っている。でも知識として知ってはいても実際には誰も目にしたことはないんだ。だからファンタジーのような感覚でしかない。存在するけど存在しないみたいに思っちゃうんだよ。オレたちはみんな太っているっていうのはそうした外の世界との比較で理解してるけど、それをおかしいとは思わないし、他の人を見て太ってる痩せてるって思ったりはしない。大きい小さいとは思うけどだからどうこうと思うことは何もない」
私からしたらこの国の在り方そのものがファンタジーだ。つまりここでは太っている痩せているという区分があるにはあっても気になるレベルではないということ。見た目での偏見が存在しないのかも。
「実際に私を見て驚いた?」
「驚いたかな。でもそういう人たちがいることはみんな知っているしね。それはそれという認識があるから。セリムもカーラも同じだと思うよ」
「偏見というものがないの?」
「もちろんあるよ。みんな太ってはいても見た目は違うし行動も違う。でもそういった外見でどうこう思ったとしてもそれは想像力の範疇においての冗談みたいなもの。実際に本気で決めつけることはしない。これは国民性なのかもしれないけど、みんな中身を知ったうえで判断するんだ」
入り口から入り込む光に照らされて逆光となる。アポロの顔が光に満たされてよく見えない。言葉の重みによる効果と光の加減が合わさりアポロがかっこよく見えた。
確かに聞くに偏見はあるのかもしれない。でもそれはあってないようなもの。
私のいた世界は偏見で満ちている。
知りもしないですぐにライトノベルやアニメはオタク文化と決めつけ、さらには世間的に少し後ろめたいもののようなレッテルまで貼る。
太っているのを見れば生活習慣に問題があるとか怠慢だとか決めつける。
宗教グループがテロを起こせばやっぱり危ない宗教グループだとか、はたまた宗教そのものまでもなにかいかがわしいものと決めつける。
知らないことを知らないままに、知ろうともしないで自分の価値観の範囲でだけで決めつける。だから偏見はなくならない。
この国の人も外の世界についてはあまり進んで知ろうとはしない。でも知らないことを知らないままであれこれ決めつけて判断をすることはしない。
もし人類すべてがみな偏見をもたないならば。初めて触れる文化に対して驚きはしても拒絶しないならば。さらにはお互いを知ろうと常に歩み寄る精神を持つならば。
世界のあちこちで起こる民族紛争、宗教対立、利権対立、格差問題といった戦争やいがみ合いには、対話が必要不可欠だ。でも対話という誰にでも簡単にできるはずのスキルがうまくいかないのは価値観のぶつけ合いという偏見のせいだ。
平和へのアプローチの鍵をこの国はその姿でもって体現しているように思えた。この国を作った人はそんな平和の想いを胸に抱いていたのかもしれない。隠れて暮らす小さな国だが、偏見や差別のない社会。ただただ素敵だと思う。
この国は人類の可能性だ。ここを軸に世界を変えることはできないのだろうか。
「ミア、大丈夫?どうしたの?」
カーラの優しい声で我に返った。ずいぶんと深く考え込んでしまっていたみたいだ。入り口の日差しは変わらず神の後光のように輝いている。
「うううん。なんでもない。ここは素敵な国だなって思って」
「考え事?とりあえずここがコンピューター室だよ」
そう言うとセリムは学生証をドアの脇にある端末にかざしてセキュリティーを解除する。どこの国でもコンピューターを扱う部屋の管理はしっかりしている。
中に入るとところ狭しとパソコンが並べられている。機械が熱を持つために空調がかなりきつめに設定され、私には季節が飛んだ心地がする。
「さらに奥の部屋が体重を計る部屋だよ。そこは男女別になってる。僕とミアは今日まだ測ってないから後でやらないとね。その前に履修登録の仕方だけ教えておくよ。まだ決められないだろうけど、登録はここのパソコンでできる。一度すれば学生証がすべて認識してくれるよ」
セリムがパソコンを操作する。ふとよく見るとキーボードが大きい。彼らの大きい指に対応してできている。隣のキーボードに手を置いてみると見事に指が届かない。この国で生活していればこの先慣れるまで毎日のようにこうのような驚きの体験をするはず。でもそれは私のような偏見の塊でできた国に育つ人間を少しずつ矯正してくれる気がした。
登録の仕方を教えてもらい、そのまま隣の部屋で体重を測る流れも教えてもらった。
気づけば二時間という長いお昼休みも残り五分となっている。
私たちは駆け足で教室に戻り午後の授業の準備をする。
今日はこのままセリムと同じ授業を受けることにした。セリムの午後の授業は言語学とラテン語だった。言語学は人類学を学ぶうえでもツールとして覚えておくべき学問分野であり基本的なことは学んでいた、ラテン語も基礎科目として勉強していたので午後はなんの苦もなくさらりと終えることができた。
授業を終えた学生は何をするのか。終業チャイムが鳴り、学生は一斉に教室の外に出ていく。
私もセリムと一緒に外に出ると、まっすぐに帰る人、教室に残って勉強する人、なにがあるか忘れたが両隣の施設に向かう人、食堂に向かう人と様々だ。
アポロは体育館に行くらしい。フットサル同好会に所属していて週に二回は汗を流すそうだ。
カーラは予定もなく暇だという。大学に残って勉強はあまり落ち着かず集中できないとのことで、勉強はもっぱら家でするみたいだ。
セリムも特にすることはないようで、私に大学を案内すると言い出した。
案内がてらまずは体育館に行くことになり、結局セリム、カーラ、アポロ、私の四人はずっと昔から仲良しだったかのようにひとかたまりで行動していた。
体育館はフロアに応じて行われるスポーツが違っていた。九階建てということは全部で九のスポーツがあるのだろうか。
アポロが所属するフットサルは三階で、せっかくだから少し見学していくことにした。コートの広さは普通のフットサルのコートと同じだろうか。あまり詳しくないためわからない。ただ選手はみな太っているためコートが狭く見える。
あんな体型でみんな動けるのだろうかという心配はすぐに吹き飛ばされた。とても太っているとは思えない身のこなし。すいすい動いてフットサルならではのスピード感だ。ボールは瞬時に方向を変え双方のコートを行き来する。見てて目が回りそうなほどだ。
「セリムは何かスポーツはやるの?」
「僕は運動はダメなんだ。完全な文化系だよ」
となると誰しもあのような動きができるわけではないということか。
もしかしたら前提が間違っているのかも。そのときふとひらめいた。
私はついみんな太っているためにこの国の人はみんな動きが遅いとか、スポーツが不向きとか、食欲が旺盛とか、そういった太っている人のイメージを無意識に当てはめていた。自国で培ったあれだけ嫌悪していた偏見の賜物だ。
でもそうではないのかもしれない。太ってはいる。だが太っているだけだ。太っているということがアドバンテージにもウィークポイントにもなっていないとしたら。つまりこの国においては太っているからって動きが遅いとは限らない。現にアポロの動きはすごい。食欲に関しては今まで見てきた限りではそのまんまではあるけれど、基本的に太っているという状態は私の世界でいう普通の体型と変わらない状態なのかもしれない。
「体育館は部活やサークル活動に参加しない人はまず利用することはないと思う。でも気晴らしにスポーツがしたいとか、そういう気分の時はいつでも利用して大丈夫だよ。いろんなスポーツを体験できる設備がそろってるから」
セリムは擬似仮想体験までできる設備があるとも言っていた。脳科学を研究している人たちによる設備らしいが、VRの技術が進み、今いる世界と同じ感覚で仮想世界を脳にダイレクトにリンクさせることによってなんでも可能な夢の世界を旅できるという。
そんな仮想世界での死が現実世界とリンクしてしまうというデスゲームを題材にした超絶面白いライトノベルがあったなぁと思ってしまう。
この国の高い技術レベルが垣間見れて体育館はまたゆっくりと調べてみるのもありだなと頭の片隅に入れ、私たちはフットサルに熱中するアポロを残しその場を後にした。
「じゃあ次は図書館だね」
セリムは講義塔の右側に位置する大きな建物に目を向けた。
「この国に図書館はひとつしかなくて、それがここなの。だから一般の人も利用してて毎日図書館はものすごく混んでるの」
カーラは残念そうに言う。文学が好きなら図書館に入り浸るのも好ましく思うところなのだろうが、人が多いことが嫌となれば仕方ない。
でも図書館はこの国を研究するうえでももっとも大事な場所のひとつには違いない。大学にあるならいつでも利用できるし暇さえあれば来てみよう。
図書館は七階建てですべてのフロアに本がびっしりと並べられていた。その蔵書数はおよそ五千万だという。過去にも外交を一切していないということにもかかわらず所蔵されているのは外の世界で書かれた文献も多い。この国で書かれた書物もたくさんあるが、この国の規模を考えるとその数は不自然な気がする。
さすがにライトノベルこそ扱ってないが、外の世界の著名な作家の作品も多く見受けられる。
「これは七不思議のひとつだよ。図書館の本の数。どう考えても多すぎるんじゃないか。どうやって仕入れてるのか」
カーラは本が大好きな女の子だけあって図書館や本のことに関しては詳しそうだ。
「七不思議?」
「そう。この国には都市伝説なんて言ったりもするけど七不思議と呼ばれているものがあるの」
「他には何があるの?」
それはこの国の秘密に直結するものだと直感が働いた。七不思議を調べればこの国が見えてくるんじゃないか。
「国民全員太っているけどこの国の創始者は痩せていたとか」
「一度国の外に出たら二度と戻っては来れないとか」
セリムとカーラは交互に七不思議を披露する。
普段生活しているぶんにはなんら支障がないためにそうした七不思議もあまり引き合いに出されることはなく、全部覚えている人はほとんどいないらしい。この二人もそれ以上がなんだったか思い出せないでいる。
「ふーん。でも図書館で調べることはできそうね。うん、またひとつ課題が見えた気がする」
一階から七階まですべて歩いてみたが、どのフロアも調べ物や勉強に勤しむ人、ただ文学を楽しむ人などで溢れている。図書館独特の緊張感が館内に張り詰めている。勉学に励むか純粋に本が好きとかでなければこの雰囲気に耐えられない。なんだか息苦しい。
「ミアちゃん、大丈夫?なんだかここって落ち着かないよね。私も苦手なんだ」
カーラも同じような息苦しさを感じているのか顔をしかめている。
セリムも私たちの様子に気がついて今日のところはもう帰ることにした。
「やっぱり館内と外だと空気が絶対違うと思う」
カーラが言うように外に出た途端に息苦しさは消えた。
外は西日が強く照りつけ、大学の建物を光に包んでいた。雲ひとつない夕方の空は上から下に向かうにつれて紅みを帯びるグラデーションを形成している。それが偽物だと気がついてもなお見事な光景と見惚れてしまう。
途中駅でカーラは下車し、セリムと二人になる。
今日がまだこの国に来て二日目だとは。一日に得る情報量が多すぎてうまいこと処理できずにいる。セリムは私が疲れていることを理解してるのか何も話しかけてこない。そっとしておくのがいいと思っているのだろうが、今はそれがとてもありがたかった。
ただ家に着くまでの道のりを何も考えずにセリムの横を歩いた。それだけでいくらか脳が休まる心地がした。
家に到着するとすぐにお母さんが出迎えてくれた。私の部屋の片付けが完成したらしく早く見てもらいたいとのことだった。このお母さんのことだからきっとかなり手の込んだ部屋作りをしているのだろうと思い、言われるままにすぐさま上の階に上がった。
三階のセリムの隣の部屋は昨日までは誰も使っていない物置き状態であった。とは言っても広い部屋で物も少なくてそのままでも全然大丈夫だったのにお母さんが片付けると意気込んでいたのだった。
部屋の扉には昨日はなかったミアの名前が掘られた表札が取り付けてあった。扉を開けるのが少しためらわれた。絶対に驚くものかと気持ちを落ち着かせてからそっと扉を開ける。
昨日までは壁紙が白だったはずが、薄いピンクの壁紙に変わっていた。置かれている物は机と本棚と収納タンス、そして大きな天蓋のついたまるでお姫様が眠るようなベッドだ。メルヘンとまではいかないまでも入ってすぐに女の子の部屋とわかる。
片付けがあまり得意ではない私の部屋はちらかり放題で男の子の部屋と遜色なかったことを思うとこの部屋で私は大丈夫だろうかと不安を覚える。
まだ二日とはいえ女の子を演じている私としてはこの手の部屋に慣れる必要はあるものの、どこか痒くなってきそうな気がしてならない。
机の上には最低限の筆記用具が用意され、本棚にもなぜか様々なジャンルの本が並べられている。
後ろからお母さんの声がした。
「女の子らしくてかわいい部屋です。本当にここを使っていいんですか?すごい嬉しいです」
かなり時間をかけて私のために完成させたお母さんのことを思うと文句の一つでも言えば罰が当たる。実際好みの問題こそあれど文句のつけようがないくらいに部屋は出来上がっていた。
「気に入ってもらえたなら私も頑張ったかいあって嬉しい」
お母さんは嬉しそうにご飯の用意をしてくるわとルンルンで下に降りていった。
夜ご飯までの時間は部屋で過ごした。
今日はもう自分の中では終わったと思うくらい充実したものだった。日記を先につけてしまおうとノートにペンを走らせた。
第二日目
大学にて
生徒、教員、すべて太っていることを確認
授業のカリキュラムはあらゆる科目が履修できる
セリムの友人との会話にて、偏見をあまり持たない国民性とわかる
体重が国における重要事項
体重の減少は国家レベルでの対応
スポーツは充実
動きは俊敏で体の大きさを感じさせない
VRなど高い技術水準
図書館の蔵書数が異常に多い
疑問
偏見や差別のない社会を作るために国民がみな太っているのか?
体重が何かしらの鍵となる可能性がある?
太っていることが得にも損にもならない?
図書の検閲などされている?
第二日目
まだ二日目というのが信じられない。
かなり疲れて日記を書く気分でもないが、この興奮の気持ちだけでもとどめておくことは必要だと思った。
一番驚くべき点はこの国には偏見があまりないこと。それを狙って国が造られたかのような気がするが、現実問題としてそんなことが可能だろうか。
セリムの友人であるアポロ、カーラは気兼ねなく話せるタイプで仲良くなれそうだ。
記録も日記も書きたいことは多いのにいまいち筆が乗らない。
また明日からも少しずつ気になったことは調べていこう。
明日は土曜日で休みらしい。ゆっくりしたい気分でもあるが、買い物に行くのも悪くない。そこでも新しい発見は多くあるだろう。
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