四回表
(さっき黒い靄がわたしの周りから消えたのって、マリードがやったの?)
試合前、真理乃は一人でこっそり着替え、その際にあの恥ずかしい呪文を唱えてすでに変身している。言わば魔力の元栓が開いているような状態なので、それを使うか使わないかはマリードの気分次第だ。
《ああ。ちょっくら力を解放した。……これは余計な助太刀とは言わないだろ? 本来ありえないものを排除しただけで、落下点に達してフライを落球せず捕ったのは、お前の実力によるものなんだからよ》
(ううん。マリードを責めたりしたいわけじゃなくて……ありがと)
《いちいち礼なんざ言うな。元男に言われてもうれしかねえさ》
ベンチに引き返すと、一美がバットを持って打席に向かう。二回表と同じ状態から始まるので、一人でも塁に出れば真理乃まで回る計算だ。
それにしても三回の表裏はひどかった。弥生が足をもつれさせたのも雪絵がゴロを捕り損ねたのも優が振り逃げを許したのも美紀がボールを拾えなかったのも、みんなあの黒い靄にまとわりつかれたせいだったのだ。
(あれでもまだ弱い邪霊なんだよね……)
《おう。力と知恵がつけば手下をこしらえたり陰謀を企んだりして厄介な存在になるぜ》
(そして、さっきみたいに人の暗い気持ちを吸い取るの?)
ミスやエラーをした直後、弥生たちの身体からは暗い何かがぼんやりとにじみ出た。黒い靄は、根を伸ばすようにそれに絡みつき、自分のものとしていった。それにまた、彼女たちを嘲笑う男子選手からも同質の存在が湧き出して、同様に黒い靄の養分となる。
《そういうこった。ああいうのがはびこってると、楽しい世の中にはならないわな》
不意に起こった歓声に顔を上げると、一美がライト前に転がる美しいヒットを放って一塁に到達していた。打率七割という当人の弁は、やはり事実だったらしい。練習でバカみたいに打っている姿は見慣れていたが、キヨミズの男子野球部を敵に回してここまでやれるとはさすがに考えていなかった。
続いて打席に入る雪絵。だが彼女の全身からは、まだ暗いものがじわじわと周囲に溶け出していて、邪霊の黒い靄がそれを啜ろうと周囲にまとわりついている。
五球目、バットを途中で止めたが振ったと判定されて、ストライクバッターアウト。
その瞬間、雪絵の全身からはさらに濃く溢れ出すものがあった。
(がんばらないと、いけないよね)
《頼むぜ。さ、準備始めな》
真理乃がネクストバッターズサークルに入り、梓が打席へ。前回ヒットを放った打者の登場に、守る選手は守備位置をやや深く取りダブルプレーを狙う。啓子の出しているサインを見れば、梓に任せるとのこと。
そして初球、梓は一塁線にお手本のようなバントを決めた。ツーアウトにはなったが、二塁に一美を進めて真理乃の打席。
《エースに活躍期待されてるぜ》
(わかってる)
強攻してダブルプレーに終わる危険性と、ランナーを得点圏に進める代わりにツーアウトになるデメリット。二つを秤にかけて梓がこの状態を選んだのは、続く真理乃がヒットを打つと思えばこそだ。
真理乃は腹に力を込めると、打席に立ってバットを構えた。
《邪霊の干渉は抑え込む。残るはお前がピッチャーとの力勝負に勝てるかどうかだ》
(うん!)
一球目、外角に逃げる直球を追って泳ぐような空振り。
二球目、ワンバウンドになったスローカーブを、まるでゴルフのようにアッパースイングして空振り。
《落ち着けバカ娘! 小学生でももうちょいマシなバッティングができるぞ!》
(うう……ごめんなさい……)
ベンチの梓たちも「真理乃ちゃん、落ち着いて!」などと声をかけてくる。気まずい。
だがこの時、幸運が味方した。
二球連続の素人じみた空振りにピッチャーが油断したのか、三球目は真ん中高めの甘いコースに入ったのだ。背後でキャッチャーの舌打ちが聞こえた。
真理乃はここを先途と渾身の力でバットを振り抜いた。確かな手応え。
快音とともに、白球はライトフェンスをはるかに越えて行った。
《さてと、ここからがもう一つの本番だぜ》
(う、うん)
真理乃はバットを置くと、一塁ベースへゆっくり走り始めた。
一塁手の渡辺は真理乃にそっぽを向いて、「女になんか打たれてんじゃねーよ!」と投手の柴田を叱りつけている。
二塁手の三輪は、真理乃が通り過ぎた時に「お見事」と言った。
遊撃手の橋本と三塁手の堀内は「まぐれだまぐれ」としゃべり合っている。
そして本塁。
唇を噛んで、三塁を回った真理乃を睨みつけている、捕手の白石。
その全身から黒い濃い靄が立ち昇り、うねうねと渦を巻いている。
彼こそが、邪霊の宿主となってしまっている被害者。
《一瞬触れればいいんだ。そうすれば俺様が片づける》
マリードは言うが、白石はホームベースから少し離れたところに立っていて、普通に通過していては触れられそうにない。
そこで真理乃は思いきった行動に出た。
「きゃっ!」
ホームベースを踏んだ直後に派手に転び、白石の立っているところへ倒れ込む!
よけられたらどうしようもなかったが、さすがにそこまで冷血でもなく、白石は真理乃を抱え込んだ。
身体が触れ合った瞬間、真理乃は自分の身体から眩い光が迸り、相手にまとわりつく黒い靄を焼き払うように消し去る様を見た。
それと同時にグラウンド全域から靄が消え失せる。空気がはっきりと変わったのを、真理乃は感じ取った。魔法少女からの変身も、マリードがそっと解いてくれた。
「ご、ごめんなさい!」
用が済めば野郎に抱かれる必要もない。急いで立ち上がるとぺこりと頭を下げる。
「い、いや……」
意外に純なのか顔を赤くしている白石に背を向け、ベンチに引き上げる。すると大喝采が真理乃を待っていた。
続くシャーロットもセンター前ヒットで出塁したが、啓子はピッチャーゴロでこの回の攻撃は終了。
しかし値千金の逆転ツーランにより、二対一。チームはこの試合初めて優位に立った。
そしてこれは真理乃とマリードと、他には美紀くらいしか知らないことだが……試合の正常化というとても大きな出来事がひそかに達成されたイニングでもあったのだ。
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