三回裏
「リード一つ満足に取れないのかよ、お嬢」
雪絵が苛立ちを抑えきれずに言うと、グラブを手にベンチを出るところだった弥生は、唇を噛んで何も言い返そうとしなかった。
その様子に誰より弥生が自分自身を責めていることを感じ取り、弥生が軽い口調で罵り返すことを期待していた雪絵は、内心ひどい罪悪感に襲われる。
だからと言って掌を返すように自分がフォローするのもおかしな話で、結局それ以上何も言わないまま二人は守備位置についた。
バカなことを言ってしまったのは、さっきの自分のバッティングが尾を引いているからだ。せっかく前を打つ一美が見事なヒットを放ち、後ろの梓もちゃんと続いたのに、間で自分が三振したせいで、二回の表は得点できずにいた。
そんなことを思い返している間にもゲームは進んでいく。今打席に立っている相手の七番は当てるのが巧いとミーティングで説明を受けた記憶があるが、すぐツーストライクに追い込まれると、そのままあっさり三振に終わった。これで三振は毎回の四つ目か。
速いテンポで積極的にストライクを取りに行く。まっすぐで直截な梓の性格にとても似合うピッチングだ。球種が豊富でコントロールも絶妙なところにこの投げ方だから、相手としては気がついたら三振していたという気分ではなかろうか。
――このままパーフェクトくらいやってのけそうだよな。
攻めはうまくいってないが、梓の投球は快調そのもの。このまま完封できればそのうち打線も一点くらいはもぎ取れるだろう。
と、八番打者が球に当てた。ボテボテのゴロが雪絵の前に転がる。
簡単にさばいてファーストに送球。これにてツーアウト。
「ナイスショート」
三塁から一美が声をかけてくるが、当たり前のゴロを当たり前に処理しただけなので、別に褒められてもうれしくない。腰を落として、次の打者に備える。
九番はピッチャー。投げる方に専念しているようで、構えを見ても大したことはなさそうと一目でわかる。そして案の定初球を引っかけて、ついさっきと同じボテボテのゴロとなった。
さっきをリプレイしたように、ゴロは雪絵の前に。これでこの回もパーフェクト。
そう思った矢先。
打球がイレギュラーバウンドして、予想外の方向に跳ねた。
さらに、不測の事態に慌てて突き出したグラブが、球をあらぬ方向に弾いてしまう。
一美が即座に追いついたが、もうバッターランナーは一塁到達。
雪絵のエラーで、敵チームに初の出塁を許してしまった。
「ドンマイドンマイ。グラウンドがよくないよ」
一美がすぐに声をかけてくる。梓や美紀や弥生も。だが雪絵は言葉を返す余裕もない。
弾み方は確かに変だったが、冷静にやれば捕球可能だったはずだ。なのに弾いてランナーを出してしまった。
動揺を抑えきれないまま次の打者が来る。打順が一巡りして、トップバッター。
それでも梓の投球に大きな変化はない。ツーストライクからファウルで数球粘られたものの、最後はナックルで三振に……
取ったのだが、優が球をこぼした。それを見てバッターが走り出す。振り逃げだ。
優が球を拾おうとするが、油にでもまみれているかのように、なかなか掴めない。悠々セーフで、二死一二塁。
ツーアウトだがエラー絡みで二人も出塁。雪絵はすごく嫌な感じがした。
二番打者の三輪は、雪絵が陽介だった去年のチームメイト。全国大会準決勝まで進んだ時には、一番ショートとしてとにかくよく短打を打った。
だが梓の球はそこいらの中学生とはわけが違う。現にここまで男子野球部の誰もヒットで出塁したわけじゃ――。
キン!
快音が響き、雪絵の右、一美の左、二人のちょうど真ん中を速いゴロが抜けていった。必死に飛びついたが捕れない。
けれど点が入ったわけじゃない。得点圏の二塁にランナーが進んでいたから、守備位置は浅めに変更している。満塁でも次のバッターを仕留めれば――。
身体を起こした視線の先、三塁コーチが腕をぐるぐると回し、二塁走者が三塁を蹴ってホームに向かっていた。
――ふざけんな!
レフトの美紀は、守備の勘はいいが肩が強いわけではない。それでも雪絵の中継があれば、あんな浅いヒット一本で二塁から走者を返しはしない。
だがレフトに向き直ると、今度は美紀がボールを取り落としていた。
やっと拾って中継の雪絵のもとに届いた時には、もう本塁は間に合わない。三塁へ投げて残った走者の進塁を防ぐのが関の山。
一点を先制され、ツーアウトながらなお一二塁。打順はクリーンナップに回って、三番の白石。
「やな感じだねえ」
マウンドに九人全員が集まった。一美の口調は軽いが、ネガティブなことをあまり言わない彼女の性格を考えると、ここはけっこうな正念場だろう。
「ま、基本を忘れずに。きちんと捕って、きちんと投げる。これしかできることはないんだし」
啓子のさばけた物言いはもっともだが、さばけすぎていて今の雪絵の落ち込みと不安を払拭する役には立たない。
「梓、あれ、やってみる?」
「まだ早いよ」
優の提案を、梓は瞬時に却下した。それに啓子がすぐさま賛同する。
「梓に同意。魔球ってわけでもないから目が慣れられたらそれまでだしね。先々のこと考えたら、できれば今日は最後まで使いたくない切り札だ」
「新聞部のインターネット中継、やらなければよかったデスカネ……」
シャーロットが呟く。彼女は新聞部部長の家に住み込んでいるという話だったか。
「いえ。負けた時の言い逃れなど決してできないよう、何らかの手を打つ必要はありましたわ。リアルタイムですから細工も疑われない、公明正大な方法だと思います」
「このままだと俺らの負けを天下に晒すことになりそうだけどな」
弥生の言うことは正論だが、何となく混ぜ返す。どうもいまだにウマが合わないのだ。
「はい、喧嘩は終わり。梓がうまいこと投げて、打たれた時はあたしらがしっかり守る。つまるところは、それだけの話だろ?」
美紀が睨み合いそうになった雪絵と弥生に割って入って、まとめにかかった。どうもユニフォームを着ると、美紀には切れ者というよりは年配のご隠居めいた貫禄が加わる。
その言葉を潮に、ナインは所定の位置に散って行った。
左バッターボックスに白石が入り、プレイ再開。
梓の一球目は、オーバースローからストンと落ちるフォーク。この試合で初めて登場したこの変化球に、バットは空を切る。
二球目はサイドスローからのシンカー。見送って、ノーボールツーストライク。
――あんだけ選択肢が多いと、配球を読んで打つのはもう無理だって。
内角に食い込むか、外角に逃げるか、曲がるか、落ちるか、揺れるか。フォームからの判断はつかない変化球ばかり。たまにはスローボールも加わるから手に負えない。
――あれで球が速かったら、誰も手出しできないんだろうけどな。
だが悲しいかな梓の球は基本的に速くないから、目のいい奴は変化を見極めて対応できる。特に球に目が慣れていく後半のイニングに行くほど、その可能性は高まっていく。フォークを最初から使わなかったのも、まだ切り札を伏せているのもそのためだ。
そして三球目、アンダースローからのカーブを、白石は捉えた。
打球は高々と舞い上がり、ライト奥へ。二人の走者はすぐに走り出し、二塁ランナーはすでにサードベースを回っている。二塁へカバーに入りながらも、もう雪絵にできるのはライトの真理乃を見守ることだけ。
と、落下地点に走る真理乃が足をもつれさせそうになった。
しかし、真理乃はすぐに立ち直ると、その後は軽快に駆ける。落ちてくる白球を見上げながら、おっかなびっくりグラブに右手を添えつつも、しっかりとボールを捕った。
――次はきっちり打たねーとな。五番に入ってる意味がねーや。
内心で呟きながら、雪絵は引き上げた。
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