三回表

 ツーストライクから五球ファウルで粘ったものの、結局啓子は三振に倒れた。

 ――まだ気持ちが長丁場のペナントレース仕様になってるのかな。

 三塁コーチャーズボックスに向かいながら自問自答する。一試合一試合が負けたら終わりの真剣勝負。そんな切羽詰まった状況にある現在を、頭は理解しているのに心はいまいち把握しきれていないような感じがある。

 もっともそれは、三年前に交通事故に遭って、四十歳プロ野球球団二軍監督の田村隆行から、十五歳女子中学生の青田啓子になってしまって以来の、全生活に関して言えることなのだが。

 ――ま、そんなことはどうでもいいさ。

 打席に入る弥生に向け、啓子はそっと姿勢を変える。「自分の判断で打て」のサイン。一死無走者では他に指示の出しようもないけれど、弥生は律儀に確認した。

 率直に言って、最初に顔を合わせた時最も不安だったのは弥生だった。だがものの一分と話さないうちに、不安は払拭された。

 三十年前の漫画にもなかなかいないような口調。優美な容姿。近隣に名の通った大社長の一人娘という立場。お嬢様の気まぐれか何かかと思ったものなのに、内面は鉄火肌と言うかむしろ明らかに男性的思考の持ち主で、啓子にしてみればものすごく話しやすい。またマネージャーを務めている修平とは小学校以来の「友人」とのことだが、どんな関係かは誰の目にも明白で、ばれていないと思っている辺りがうぶで微笑ましくもある。

 もちろん性格だけの話ではなく、野球の技術も大したものだ。武道をやっていることが役立っているのか、選球眼が良く、スイングの思い切りがいい。

 ピッチャー柴田の二球目。左投手がプレート一塁寄りから左打者の外角に投げ込む、厄介なクロスファイア投法。しかし弥生はうまく対応した。

 キン、とボールを芯で捉える音。投げ終わって体勢を立て直していないピッチャーの股間をきれいに抜く、センター返し。

 これで三イニング連続の出塁。そろそろホームに返して先制点と行きたいところだ。

 二番の優に対し、啓子がサインを出す。ヘルメットのつばに手をやるのは了解の印。

 そして初球。優は三塁線に、打球の勢いを上手に殺す鮮やかなバントを決める。

 一回表のバスターを警戒したか、サードの守備位置が少し下がっていた。急いで駆け寄るキャッチャーとピッチャーとサードのほぼ中央に転がる打球。声をかけて白石が掴み、二塁はもはや無理と見てそのまま一塁へ送球するが、かなりの余裕を持って優はセーフ。

 これでまた一死一二塁。打順はクリーンナップに回り、三番の美紀。

 場の空気は試合前に比べてはっきりと変わっている。女子野球部が毎回ランナーを出して押しているのに対し、男子野球部は梓の前にパーフェクトに抑えられているのだ。

 ここで押し込めれば、流れは一気に傾く。

 啓子がヒッティングのサインを出すや、美紀は即座に了解の合図を送った。

 あからさまなボール球を見送った二球目、甘く入ったストレートをためらわず強振。

 ゴロとなった打球は高速で一塁線を抜けようとして、飛びついたファーストに捕球される。だがそこから一塁ベースカバーにトスして美紀をアウトにするのが精一杯。

 二死二三塁。ついにランナーが三塁に進んだ。しかも次打者は四番の一美。

 マウンド上のピッチャーの元に、一塁からボールを手にしたセカンドが近寄る。後からショートとサードも何かに気づいたかのごとく、マウンドに駆け寄って行く。

 しばし話し合った後、それぞれの守備位置に戻って行った。

 ピッチャーはしゃがみ込み、スパイクの紐を直そうとしている。

 サードがこちらに近寄って来る。

「弥生、優、ボールに注意!」

 啓子の言葉に、サードベースから数歩離れていた弥生が慌てて塁に戻った。優も同様。

 そして啓子を見た三塁手は舌打ちすると、グラブに隠し持っていたボールを投手へと投げ返した。

 隠し球。手の込んだ牽制球の一種。こんなプレーでアウトになったら、ダメージは計り知れないところだった。それを回避できたことに軽く安堵の吐息をつく。ピッチャーの手にボールが渡ったことを確認し、弥生も啓子に目礼すると再びリードを取る。

 そして一美への第一球。それは、どんなスラッガーでも打ちようのない、打者の背中に抜ける大暴投。

 だが、その時。

 リードを取っていた弥生が何かに足を取られたようにたたらを踏んでよろめいた。

 素早く立ち上がってすっぽ抜けたボールをキャッチした白石が、すぐさまサードへすさまじい速さの牽制球。弥生は急いで引き返そうとするが、タッチの差で間に合わず、アウト。

 よってスリーアウト。ゆえにチェンジ。

 弥生はめげる様子も見せずすぐに起き上がったが、やはりショックは隠しようもない。それは傍に立っていた啓子にとっても同じことだった。

 真理乃の思いがけぬ長打力の発揮以来、いい感じに盛り上がっていたこちらの流れが淀みそうな、嫌な予感が啓子を襲った。

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