戦いに備えて

試合二ヶ月前:グラウンドの整備だったり、監督の確保だったり、ピッチングマシンの調達だったり(真理乃、美紀、雪絵の視点)

「ほ、本当にそんな呪文なの……?」

《嘘ついてどうするってんだ。ほれ、さっさと唱えな》

 時に四月十五日の深夜。清水家の敷地内にある、雑草がはびこる女子野球部の練習場。

 その中央にぽつんと一人、真理乃は立っていた。

「で、でも……恥ずかしいよぉ……」

《今さら何言ってやがる。女になってからこっち、お前にとっちゃやることなすこと全部が羞恥プレイだろうが》

「そ、そうだけど……」

《うじうじ悩んでると夜が明けちまうぜ。お前も練習で疲れてるんだから、ぱっぱと済ませてぱっぱと帰っちまおうや》

 胸元で光るペンダントの中から語りかけるアラビアの魔神・マリード。その声に押されて、真理乃はようやく決意を固めた。

「ピュ、ピュリファイプリティサプリメント! プリティマリノがあなたのお世話しちゃいます!」

 マリードの言語センスのなさに泣きたくなりながらも、真理乃は設定された呪文を唱え終える。すると少女の全身を光が包み、服装がジャージの上下から一転して、動きづらくはないが全体的にフリルがひらひらしたいかにも魔法少女的なドレスへと変化した。手にはバトンほどの大きさのパステルカラーに彩られたステッキまで持っている。

 突然可愛らしく変貌した自分の衣装に心の準備はしていても驚き、さらにそのふわふわひらひらした服装を心地好く感じている自分に困惑しつつ、真理乃はマリードに訊ねた。

「それで、これからどうすればいいの?」

《どうすればも何も、やりたいようにやれっての。今のお前にはそれを叶えるくらいの力があるんだからよ》

 そう言われても戸惑うばかりだが、真理乃はとりあえずステッキを眼前に突きつけた。

 練習場はチームが結成されて数日を経た今も、本格的な練習のできる状況にはない。草むしりさえできれば、雪絵の家からピッチングマシンを持って来て打撃練習をしたり、内外野の守備練習をしたり、もちろん梓の投球練習もできるのだが、人手の絶対的な少なさがネックとなり整地作業は遅々として進まなかった。結果、全体練習は、キャッチボールや素振り、ランニングなどの基礎的なものに留まっている。

「え、えーと……野球の練習をしやすいグラウンドになってください」

 おずおずと真理乃が言うと、ステッキの先から温かな色合いの光が放たれた。

 その光が練習場内の草に触れると、草たちはCGか何かのようにひょこひょこと動き始め、むしられる恐れのないエリアへ移動したり、林の奥へと消えて行ったりした。同時に草が抜けた後の地面も丁寧に整えられ、均されていく。

 気がつけば目の前には、草の生い茂っていない整地されたグラウンドが広がっていた。

《よし、上出来だ。初仕事お疲れさん》

 マリードに温かい声をかけられ、真理乃は深く息を吐いた。同時に変身が解け、服装がジャージ姿に戻っていく。

《にしてもグラウンドに向かって『なってください』は傑作だったな》

「しょ、しょうがないでしょ。どんな風に言えばいいかわからなかったんだもん」

《別にバカにしてるわけじゃねえよ。前の真理奈なんざ味も素っ気もねえ、魔法少女にあるまじき魔法の使い方してたからな。それに比べりゃ頭悪そうなくらい可愛い方が、俺ぁよっぽど好きだぜ》

「全然褒め言葉になってないよお……」

《しっかし、お前さんが自分から魔法を使いたいなんて言い出すとはねえ》

 マリードがからかい気味の口調で、さらに言い募る。

《俺様の力を借りるなんて真っ平御免だと思ってるように見えたんだが》

 マリード自身が魔法にあまり熱心でない上に、真理乃もマリードに対して思うところはある。そして単純に、魔法少女になるなんて恥ずかしい。恥ずかしがり屋な真理乃の感覚においても、誠三郎本来の感性においても。だから今日までそんな話は持ち出さなかった。

 それでも。

「だって……みんな、とってもがんばってるから……何かお手伝いしたくって……」

 使いづらい練習場に案内したのは真理乃なのに、誰もそのことで咎めようとはしない。言葉遣いが悪くておっかない雪絵さえ、『この歳になって草むしりかよ』とぼやきつつ、毎日熱心に草を引いている。だからこそ、そんな彼女たちがたまに見せる、整ったグラウンドで練習したいと言いたげな表情が、真理乃にはとても辛かった。

 そこで今夜、夕食(自分で炊いてみたご飯とスーパーで買った値引きお惣菜)を食べた後、マリードに初めて打診してみたのである。

「でも……魔法ってすごい力なんだね」

 真理乃は美しいグラウンドを見て少し不安になる。人の力では何日かかるかわからない作業をほんの数分で終えてしまった自分。

「男子野球部と試合する時に邪霊を祓うってマリードは言ってるけど……わたし、それに備えて変身してなくちゃいけないの?」

 変身状態だとこんなすごい力を発揮できてしまう。そしてその力を使わずにフェアプレイに徹する自信が、自分にはなかった。フライを落球しそうになった時、空振り三振をしそうになった時、無意識に力を使ってしまうとしたら、とても嫌だ。

《安心しな》

 そんな真理乃の不安を見越したように、マリードはきっぱりと答える。

《この力はお前一人が願ったって使えるわけじゃねえ。肝心な一瞬が訪れるまでは俺が力をがっちり制御してるから、お前は自分の気持ちに素直に野球やってりゃいいんだよ》

「……よかった」

 真理乃は心の底から安堵した。

《ま、そこら辺はいいとして……あいつ、何か打つ手は持ってるのかねえ?》

「『あいつ』って?」

《村上美紀さ。あいつ込みで頭数は揃ったけど、あいつ一人だけは技術もなけりゃ身体能力もずば抜けちゃいない。と言って、十人目の選手を熱心に探してる風でもねえし……》

 マリードにわからないことが、真理乃にわかるわけもなかった。


「いいかげんに観念しな、ジジイ」

「そりゃこっちの台詞だ、バカ娘」

 村上家の居間で、遅い夕食を終えたばかりの孫と祖父が睨み合う。

「あんた梓のこと可愛がってきただろが。あの子が理不尽なバカ男どものせいで甲子園に行けないなんてことになりゃ、あんただって往生できないだろ?」

「縁起でもねえこと口にするんじゃねえや、バカ。そりゃ梓ちゃんの願いなら俺だって叶えてえけどよ。だからってなんで俺がおめえの身体で野球しなきゃなんねえんだ?」

「ジジイの身体で野球したって梓のチームには入れないからさ。何せキヨミズの女子野球部だからね。清水共栄に在籍してる女子以外はお断りだよ」

「ならてめえが自分でやりやがれ!」

「あたしが頭使うこと以外はとんと駄目なことくらい知ってるだろ?」

「なら他の女子引っぱってくりゃいいだろが!」

「今時野球を自分でやろうなんて考える女子はそうそういないっての。梓以外に学校内で七人使えるのを集められたのが奇跡みたいなもんだよ」

「最近の若い奴は情けねえ。俺が現役の頃は、プロを目指す女子だっていたのによ」

「甲子園を女人禁制にしていたのはジジイ世代やその上の連中の怠慢だろ。おまけに金満球団に牛耳られてプロまで魅力なくしてたら世話ないや」

「本当に口が減らねえな、てめえは」

「まったくだね。誰に似たのか知らないけれど」

「……だいたいフェアプレイに反するってもんだろが。俺ぁ、自分で言うのも何だが、プロで四十四まで一線張り続けた選手だぜ? そんなのが高校生に混じって野球するってのは卑怯じゃねえか?」

「ロートルが背負ったこと言ってんじゃないよ。だいたい、それはそんなに悪いことかい?」

「当たり前だろ――」

 耕作が怒鳴りかけるのを美紀は制した。

「生まれ変わりってもんがあると仮定しようや。霊魂だか何だかよくわかんないものが実在するってとこまでは、こないだの件でジジイも認めてるんだから、これくらいは許容範囲でいいな?」

「……それを仮定するとどうなる?」

「一流のプロ野球選手から女の子に生まれ変わった子がいるとする。前世のことをかなりはっきり覚えていて、野球の技術も失われていない。で、その子は小さい頃から甲子園目指してせっせとピッチング、じゃねえや、野球のトレーニングに励んできた」

「ちょっと待て。そりゃひょっとして――」

「目的意識があって蓄積があるから、幼稚園の頃から新しいテクニックの上積みも重ねてこれた。今じゃいっぱしの高校球児。さて、この子のしていることは卑怯か? やるんだったら前世の記憶なんか忘れてからにしろなんて言えるか?」

「そりゃ言えるわけねえだろ。けどな、その子は他にどうしようもねえが、お前がやろうとしてんのは俺たちがやらねえと決めればやらずに済むこった」

「……ふん。なら、こう考えてみな。ジジイが昔からあたしを野球漫画よろしく野球選手としてスパルタで鍛え上げてきたとする。それこそあたしをジジイのコピーにするくらいの勢いで」

「そんなことするわけねえだろが」

「したとして、さ。その時、打球があたしの守備位置に飛んで来た時の反応や、投手の投げたボールに対する反応とかは、ジジイ本人とジジイに叩き込まれたあたしとじゃ、どれほど違ってくるよ? それを今から即席でやる、と考えたらどうだ?」

「……どう言い訳したって野球するのは俺だろが。他の誰が知らなくても、お天道様と俺とお前にはわかってる」

「果たしてそうかな? 野球するのは村上美紀であって、村上耕作じゃない」

「だから、おめえはその身体を俺に動かさせようとしてんだろうが!」

「でもそのことを証明できる人間はいない。霊魂の存在さえ現在の科学で把握することはできてないんだ。Aの霊魂をBの身体に取り憑かせてるなんて誰も思わないよ。そもそもあたしたちはあのお札によって幻覚を見てただけかもしれないだろ? ジジイは眠ってる間あたしの身体を動かす夢を見ていた。あたしはジジイに身体を明け渡す錯覚を感じつつ実は自分の意識で自分の身体を動かしてた。その三時間の間二人に意思疎通を交わしていたような記憶が残っているのは単なる偶然の一致。こんな説明だって成り立つさ」

「……屁理屈もいいとこだ」

「乗っかっとくれよ。この話、ジジイにゃ何一つデメリットはないだろ? こないだも三時間経てばきっちり元に戻って、後遺症も何もなしってことは明らかだ。若い女の身体で若い女の子と野球を楽しめるなんて、冥土の土産にゃちょうどいいじゃないか」

「この先はどうなるよ。真夏の炎天下で空の身体が三時間野晒しじゃ戻るに戻れねえぞ」

「そこは心配なく。うってつけのポジションを『村上耕作』には準備してあるからさ」

「……ああ、そういうことか」

「そういうこと。にしても気が早いね。真夏の炎天下なんて、まずはキヨミズの男子野球部を倒さなきゃ始まらない話なのにさ」

「お前以外の子は使えるんだろ? なら勝てるさ。お前の見込みにゃそう間違いはねえ」


「グラウンドの整備が終わった? あの広さを? 夕方の練習が終わってから今までの間に? ……ああ、人海戦術。金持ちはやることが違うねえ。……うん。それじゃ、今から持ってくからそこで待ってろよな。……違うって、むしろ明日の夕方よりは今の方が都合いいんだよ。……怖いって今さら何言ってやがる。お付きの人とかいるんだろ。じゃな」

 真理乃からの電話を切り、雪絵は『父親』の純二に言った。

「ピッチングマシン、運んで」

「おやおや人使いが荒いね、雪絵。もう日付が変わろうという時刻じゃないか」

「ドラキュラみたいな生活してる人には関係ないだろ」

「それはそうだ。よし、行こう」

 軽いノリで立ち上がる。深く考えず口を開くこの相手にも少しは慣れてきた。

 庭からピッチングマシンを引いてきて、ガレージの軽トラックの荷台に積み込む。助手席に乗るとすぐ発進し、雪絵の指示に従って道を進む。

「しかしピッチングマシンなんてわざわざうちから運ばなくてもいいんじゃないかね? 森家の令嬢も清水家ゆかりのお嬢さんも加わっているんだし、調達は可能だろう?」

「百八十キロのスピードと宇野並に豊富な変化球投げられるピッチングマシンはそうそうないから」

 あんなマシンで何年間も毎日バッティング練習してたら、俺の百五十キロにびびるわけもないよな……と、こちらは心の中で呟く。

 そして雪絵の言葉に、自己流の改造をマシンに施した怪しい学者は上機嫌で肯いた。

「ふむ。ところで宇野とは?」

「チームのピッチャー」

「ほう。あのマシンには私の知る限りの変化球をすべてプログラムしたのだが……女子高生と互角とは、まだまだ私も不勉強だったようだな」

「あんたが不勉強なわけじゃなくて、宇野がどうかしてるだけだよ。あいつ今年で十六なんて絶対嘘だ。何十年もピッチングのことしか考えてない妖怪に決まってる」

 軽トラックが稲葉家の近所を通る。懐かしいけれど、今の自分とは切り離された風景。

「君がそれだけ他人の話をするとは珍しい」

 いくら何でもそんなわけねーだろ、と純二の言葉に反論しそうになり、この変人科学者相手に自分からはほとんど口を利いていなかったことに気づく。

「一年間楽しめる環境が形成されつつあるようだね。私としても被験者が不快なまま実験を終えるのは不本意だったので、何よりだ」

「黙ってろ」

 ヘッドライトの先、学園の裏山へ差し掛かる道の入口に、相変わらずおどおどした態度の真理乃が待っていた。

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