八人目、九人目:(後)スラッガーとエースの勝負は、くすぶっていた心も揺り動かす
呪いのようなものだ、と父親はかつて切り出した。
今から八年ほど前。鮎川一美が小学四年生の時のこと。テストの名前欄にはやっと漢字で書けるようになった「篠原一実」と書いていた時のこと。リトルリーグで四番の座を不動のものにしようとしていた時のこと。将来自分の性別が男から女に変わるかもしれないなんて、夢にも思っていなかった時のこと。
何百年前からか、一美の家には奇妙な病気が発症するようになっていたという。十三歳の誕生日から十七歳の誕生日の間に、性別が変わってしまうという症状。ただし誰もがというわけでもなく、確率はおよそ四割。現代の医学では、元に戻ることも予防することも不可能。性別変化をするかしないか事前に判定することさえできない。
先祖伝来の口伝においては戦国時代に端を発する。地方の豪族だった先祖がある日旅の僧侶を虐げて、その数年後、三人の娘の性別が一晩のうちに変わってしまったというものだ。それぞれ有力な家柄との婚礼を間近に控えてのこの椿事。一族郎党は対処する術もなく、散を乱して逃げ惑い、以後二度と家運は栄えなかったとのこと。しかし『呪い』は執拗につきまとって現在に至る。
対象となるのは、宗家の子供。宗家が子に恵まれず廃れれば、最も近い分家の子供が次の標的となる。家名が問題なのかと、宗家の子供が一斉に嫁や婿養子になったこともあるが、その際は一番年上の子供が嫁いだ先で同じことが起きた。それが今に続く篠原の家。
性別の変化に伴うのは、体格・筋力・容姿の劇的な変化。性格の変化は緩やかに起こる上に個人差が大きいので、これは本人次第というものだろう。記憶や知識などはまったく変化しない。
だからお前も野球よりは勉強を、と言われて、当時の一実はひどく回りくどい説教だと判断した。後は適当に聞き流して、その場をやり過ごした。
だがその後もことあるごとに繰り返され、中学を卒業する頃には真剣に受け止めるようになっていた。けれど対策も何も取りようがないため、せいぜい今の生活を失うことがありうると、覚悟を決めるだけだったが。
そして去年の十二月。十七歳の誕生日を数日後に控えた朝。一晩のうちに変わり果てた自分の身体を見下ろして一実は深くため息をつくと、メールで両親に報告した。そして用心に買ってあった女物の服の中でサイズの合うものを着込むと、大阪支社勤めの父親と二人暮らしだったマンションを出て、東へ向かう新幹線に乗り、母親と弟妹が暮らす実家に帰り着いた。
通い慣れた高校にもう一度行くことも、ともに戦ってきたチームメイトたちに最後に顔を見せることも、無論できない相談だった。
「あら珍しい。この前もう野球はしないとか言ってなかった?」
村上美紀との会話の後に帰宅した一美は、ほぼ四ヶ月ぶりに素振りをしていた。さらに後から帰宅した母親がそれを見て、軽い口調で言った。
「うるさいよ、伯母さん」
「お腹を痛めて産んだ親に向かって何て口を利くのかしらねえ、この子は」
ハンカチを取り出してさめざめと泣くふりをする。実に苛立たしい。
「もう戸籍上はおばさんだろ。しかもにんべんの方」
篠原家の子供は『呪い』が発症した場合に備え、生まれると同時に田舎の役場に手を回して、親戚である鮎川家の戸籍も入手しておいてある。詳しいことはよく知らないが、病弱なので転地療養しているという理屈で義務教育などの問題はやり過ごしたらしい。
そんなわけで鮎川一美は、元の自分――篠原一実――の、従姉妹ということになっている。戸籍上の両親は、父親の妹である叔母夫妻。ほとんど逢ったこともない。
「はいはい。伯母さんは引っ込むことにしますよ」
すねたように言って姿を消した。と思ったら、またひょっこりと顔を出す。
「あなたはやっぱりバット振ってる姿が一番似合うわよ。可愛い女の子になってもね」
「どうしたの、優ちゃん。元気ないね?」
グループの先陣を切って歩いていたはずの梓が、いつの間にか最後尾の優の隣にいた。
「人数的には、九人揃ったわけだけど……これで男子に勝てるのかなって、ちょっと不安になって……」
今日の勝負に、昨日見つけた雑草だらけの敷地は不適だ。そこで学校から少し歩いたところにある河川敷のグラウンド目指して、放課後を迎えた今、グラブやバットを手にした主にジャージ姿の女子が九人、そぞろ歩いているわけである。
その一団を眺め渡して、優は頼もしさよりは不安の方を覚えてしまっていた。
昨日女子としては並外れた強肩を示したシャーロットは、帰りに全員で立ち寄ったスポーツ用品店で買った新品のグラブを、小学生みたいに飽かず眺めていじり回している。
その隣、同じく高い身体能力を披露した真理乃は、しかし内気で気弱な性格。誰かに何か話しかけられるたびにどこかおどおどした態度で応じている。
雪絵は他のみんなから、やや距離を置いたところを一人で歩いている。昨日の朝から見慣れた仏頂面は今日も健在。
先頭を行く弥生と美紀は、今日新たに仲間となるかもしれない二人と会話していた。
弥生はさっぱりした性格で積極的。高飛車と思われかねない口調だが、優としては男子並につきあいやすい。しかし優は、弥生の野球の実力をまだきちんと見ていない。大久保の百四十五キロをファウルで何度も粘り最後にはヒットを打ってみせた、とは梓から聞いているが、守備や走塁もそれなりのものでなければ困る。
美紀は頭が良い。今日の休み時間、梓は優との雑談の折に「美紀姉ちゃんは頭が切れるけれど詰めが甘い」などと寸評していたが、この二年生は人を見る目があるし、その人材を束ねる行動力もある。ただし、野球の実力は未知数だ。
そして新顔の三年生二人。今日の勝負を提案してきた鮎川一美と、その勝負を観戦に来た青田啓子。
一美は飄々としていて、奥二重の目が眠そうで、どこにでもいそうな愛嬌のある可愛い女子高生にしか見えない。
長身の啓子は、観戦ということで一人だけ制服姿だ。どこか人を寄せつけない雰囲気。雪絵のように周囲を威嚇するような感じではなく、あえて他人に近づくまい他人を近づけさせまいとしているような、印象。身体の線が細く、野球どころかそもそもスポーツに向いているように見えないのも気になる。
それにまた優は、自分の能力にも疑問符をつけざるを得ない。ピッチャーの球を捕る、そのキャッチャーとして最低限の技術は今も保たれているが、盗塁を防ぐ肩の力はどれほどあるか。バッティングはどうなることか。
それらを口に出したわけではないが、梓は優の考えを追うように言った。
「試合まではひと月以上あるからね。練習すれば、穴を見つけて埋めるのも、長所を見つけて伸ばすのも、きっと間に合うよ」
「練習は、男子もするわよ」
「それはそうだけどさ。まずはその前に、今日のことに集中しようよ」
「今日のことって、七割打てるか打てないかの件?」
優はのんびり歩いている一美に目をやり、肩をすくめた。
「まさか梓さん、打たれるかもしれないなんて考えてるの?」
優としては軽口のつもりだったが、梓は真面目に肯いた。
「油断してたら」
「ちょっと待って。いくら何でもあなたの球が女子にそうポンポン打たれるわけ――」
「男子野球部の人たちも、僕のことを甘く見て油断してたよ。優ちゃんも雪絵ちゃんも、最初は似たようなものだったでしょ?」
言われ、優は口を噤んだ。
「じゃ、ルールの再確認するよ」
河川敷のグラウンド。そのバッターボックスの周囲に、啓子を除く優たち八人が集まると、一美がのんびりした口調で口火を切る。啓子は少し離れたベンチに腰掛けている。
「あたしが打つ。そちらのエース――梓ちゃんだっけ?――が投げる。十打席勝負。そのうちあたしが七本ヒットを打ったら、あたしの勝ち。言い換えれば、梓ちゃんがあたしを四回アウトにできれば、その時点で梓ちゃんの勝ち。フォアボールになったら、打数に数えないでやり直し」
「つまり打率七割に達するかどうかがポイントなわけですわね。その基準はどこから?」
弥生が手を挙げて一美に訊ねる。
「あんまり深い意味はないけどさ。昔いたチームで、あたしトータルだと七割打ってたから。そんな平均的なピッチャーじゃ、つきあっても面白くないと思ってね」
「そのチームってのは、リトルリーグか草野球だろ? 図に乗ってんじゃねーよ」
隅で雪絵が吐き捨てるように言った。
「雪絵さん! 無礼な物言いはおやめなさい!」
「きゃんきゃんうるせーっての、お嬢様。ほれ、今のは俺の独り言だから、話続けろよ」
雪絵と弥生はどうも反りが合わないらしくて、昨日から何度となく衝突している。優としてはそのたびにうろたえてしまうし、シャーロットや真理乃も落ち着かない様子だが、この場の中心人物たる梓と一美、それに美紀は平然としていた。
そんな美紀が一美に言う。
「三振じゃなくて凡打でもアウトですよね」
「当然でしょ? そっちの人数が足りないのはわかってるから、空いてるポジションに微妙な打球が飛んだらフォアボール同様ノーカウントということで」
「よかったね、梓。こないだの九連続三振よりは条件が楽だ」
美紀が言う。言わでもがななことをあえて口にしたのは相手にプレッシャーをかけるためかと優は推測したが、一美は面白そうに目を輝かせただけ。そして梓に向かって言う。
「それともう一つ。昨日提案した時は言い忘れてたけど、どの打席もツーストライクから始めることにしようよ。時間の短縮にもなるでしょ?」
場が静まり返る。
「えーと、一球空振りするたびに一つアウトになるってこと、です、ヨネ?」
シャーロットが語尾だけ珍妙にして周囲に訊ねる。どうもこのアメリカ人、素の日本語は達者らしい。自らを不利にしすぎる一美の案に驚いて、思わず地が出たようだが。
もっとも、驚いたのは優も同じだ。この人はマゾか何かか、それとも内心では女子野球部に入りたくてしかたないのか、などと色々考えてしまい、半ばフリーズ状態。
だが梓もとんでもないことを言い出した。
「なら、スリーボールツーストライクからにしませんか? そうすれば一打席一打席がお互い逃げも隠れもできない一球勝負ってことになります。ただそれだけだと僕の方がまだ有利過ぎるから、フォアボールはヒット扱いということで」
「その意気やよし……と応じたいところだけど、キャッチャーさんと相談してみたら?」
と一美が振るのとほぼ同時に、優は梓をグラウンドの隅に引っぱっていった。
「鮎川さんも鮎川さんだけど、梓さんも何言ってるの? そんな変なことしなくても普通にやれば――」
「あれは、たぶん一美さんなりのバランスの取り方だよ」
「え?」
「普通に十打席僕の球を見続ければ、必ず打てるから勝負にならない。だから各打席ツーストライクはハンデとしてプレゼント……って考えたんだと思う」
「嘘でしょ? そんなの自信過剰にも程がある……」
「一美さん本人がそう思ってることは間違いないよ。実際の実力は知らないけど」
「だからって、それに乗っかるの?」
「十球で済むならそれもいいでしょ? それとも優ちゃんは、ボール球で遊んだりしてリードを楽しみたい? 僕はそれより一刻も早くメンバーを九人揃えたいんだけど」
「……それ言われちゃうと、反論しようがないじゃない」
「重要なのはもちろん内野ね。外野までそうそう打球が飛ぶとも思えないし」
「センターラインのセカンドとショートは、初心者には荷が重いでしょう。わたくしと雪絵さんがやるということで異存はありませんわね?」
「誰がやるにしろファーストは素人かよ。なら外人さんがやって。一番背が高い」
しばしの打ち合わせの末、ファーストにはシャーロット、セカンドに弥生、ショートに雪絵、サードに真理乃という配置にした。美紀が外野でひとまずセンターの位置に立つ。
優が定位置に腰を落とし、梓がマウンドに登る。そしてバットをかついだ一美が悠々と右バッターボックスに入った。第一打席。
「じゃあ……お願いします」
「いつでもどうぞ」
優のサインに応じて梓がサイドスローから繰り出した第一球は、ナックル。
打ちに行った一美は盛大に空振りし、派手に一回転すると尻餅をついた。
「これで第一打席はこちらの勝ち……なんですよね?」
思わず優が確認すると、膝をついて立ち上がろうとしていた一美が肯く。
「面白い球投げるね。こりゃいいピッチャーだわ」
「……そう思うなら、勝負はやめにしてチームに入ってくれません?」
「一度始めたことを途中で放り出すのは好きじゃなくてね。それに、こんな楽しい対決はなかなかできないし」
大きく伸びをして軽く素振りをすると、一美はバッターボックスに入る。第二打席。
――緊張するほどでもなかったかな。
優は軽く息をつく。スイングの鋭さは女子離れしていたけれど、これなら残り九打席で三つのアウトを取るのは簡単そうだ。
――一打席くらい花を持たせるか。
二球目、優は内角高めにストレートを要求した。梓は怪訝そうな顔をしたが、肯く。
指先から放たれる球。球速としては百二十キロに届かないくらいだろうか。
一美はタイミングを計るように軽く左足を踏み出すと、バットを振り抜いた。
甲高い金属音を後に残し、白いボールがライナーとなって右中間を突き破る。センターの美紀には捕れない。ライトに選手がいてもよほど異常な守備位置についていない限り捕れるわけがない。そんな完璧な長打だった。
律儀に一塁まで走って行った一美が、戻って来ると優に言った。
「いい流れを自分から捨てると、あんまりいいことないよ」
梓がマウンドから降りて、優をグラウンドの隅へ連れて行く。引っぱる腕が少し痛い。
「内角高めが一美さんの弱点だと見抜いたとか、そういうわけではなかったの、かな?」
いつもは無邪気に明るい笑顔が、今は露骨なまでに強張っている。
「え、ええと、一球空振りさせただけじゃ、そんなことまではわからないです」
思わず敬語を使ってしまう。
「じゃあサービス? 哀れみ? それって一美さんにすごく失礼だよ」
「で、でも、仲間になってくれる人なんだから、完膚なきまでにやっつけちゃうのも、その、向こうのプライドとか……」
「そんな程度で砕けるようなプライドなら、粉微塵にしちゃえばいいんだよ」
梓はきっぱりと言ってのけた。
「だいたい、手を抜いたらこっちが粉々にされかねないんだから」
一美の言葉も梓の言葉も、見事に正鵠を射ていた。
第三打席。優が提案したのはスライダー。マウンドの梓もすぐに肯く。
右打者の内角から横滑りに滑って最終的には外角に達する、梓の数ある変化球の中でも最大の横変化を誇るボール。
一美は打てるバッターであり、口先だけではないことがはっきりした。それでも当たらなければ関係ない。
そんな優の思惑は、しかし、あっさり打ち破られる。
一美は体勢を泳がせながらもスライダーの変化に対応し、バットを強振。打球は矢のようなライナーになり、ジャンプしてグラブを伸ばしたショート・雪絵の十センチほど上空を通過すると背後の地面で勢いよく弾んだ。
「まあ、こんなもんかな」
上機嫌で一美が一塁から引き上げてくる。と、静まり返っていたグラウンドの中、雪絵のこぼす言葉がやけにはっきり聞こえた。
「ただのショートライナーで調子乗んなよ。俺が普通の背丈の男なら捕れてた球だろが」
一美のそばにいた優は焦るが、一美は眠そうな表情を崩さなかった。
そして第四打席。今度はシュート。
しかし一美は急激に内角に切れ込んでいくシュートにも臆さない。肘を上手く畳んで、弾き返す。
打球はさっきを上回る速度で、ショートのちょうど真上、頭上五十センチの地点を通過した。雪絵は今度は何も反応できなかった。
一塁に目を移せば、一美が雪絵に向かってにやりと笑いかけていた。
狙って打ったのは、その場にいる誰の目にも明らかだった。
第五打席。一美は梓がオーバースローから繰り出したフォークをきれいにすくい上げ、センター前にぽとりと落とした。
これで五打数四安打。残り五回のうち、三回打ち取らなければならない。
「ここまでずっと横手だったのに上手で来るからね。上手でないと投げられないか投げづらい球かな、くらいは読めたよ」
戻って来た一美の言葉を聞いて、優は恥ずかしさに顔を赤くした。相手は数少ない情報を元に的確な読みを働かせたのに、自分は梓の球種に頼ってばかりの芸のない配球をしてしまったことに気づかされたから。
しかし、そんな風に一度悩み出すと、何を投げさせても打たれるような気がしてきた。
こんな気持ちになったのは、去年の夏以来二度目のことだ。大西義塾との甲子園決勝戦で向こうの四番だった二年生・篠原一実。高校本塁打の記録を塗り替えそうな勢いだった巨漢(去年の冬、難病を患ったとかで姿を消してしまったそうだが)。けどその本質は、ピッチャー渾身のボールを軽々スタンドに運ぶパワーでなく、あらゆるボールに即応できる目と反射神経、それを打撃に反映する天才的なバットコントロールにあったと思う。
今バッターボックスに立っている鮎川一美は、その篠原からごつい身体とパワーだけを抜き取った存在であるような、そんな錯覚を覚える。
そして今の優は、猛だったあの時と同じように、迷い始めてしまった。二本目のホームランを打たせてキヨミズの反撃機運を根こそぎ奪ってしまったあの時と同じように。
迷いは決して何も産まない。第六打席、成功の記憶にすがって梓に投げさせたナックルは、ボテボテながらも一二塁間を巧みに抜けるヒットとなった。
「魔球とは違うしね。消えはしないから、一度見れば当てるぐらいはどうにか」
一美のコメントに応じる余裕もない。
残り四打席のうち、三回を打ち取る。今の優には、それはもはや途方もない難事業に思われてならなかった。
「梓さんが、リードして」
マウンドの梓に駆け寄って優は言った。言って、自分はキャッチャー失格だと思った。
こんなすごいピッチャーと組んでいるのにむざむざヒットを打たせてしまう。このままだと自分のせいで投手を、チームを、壊してしまう。
それはどうしても耐えられなかった。だから、誰に言われるより先に自分で判断して、サインを梓に出してもらおうと考えた。
自分にはこのチームの頭脳なんて務まらない。ただ梓の球を受ける壁になる。それが自分にはお似合いだ。本当はきっと、去年の夏だってそうだった。決勝まで進めたのは単に運が良かったからで、それを勘違いして下手なリードをしたせいで、大西義塾にああまでみじめな惨敗を喫することになって……。
「優ちゃん、泣かないで」
うつむいていた優の顎を軽く指で持ち上げて、突然梓はそんなことを言った。
「な、泣いてなんかないよ!」
ちょっと目が潤みそうになっていたのは事実だが、涙をこぼしたりはしていない。優は躍起になって反論した。
「うん。その負けん気があればまだ大丈夫」
梓は優ににっこりと笑いかけた。
「気弱は勝負に禁物だよ。まだ一打席分余裕はあるんだし、がんばろ」
「き、気弱とかそういうんじゃなくて、本当に、梓さんがリードした方がよっぽど……」
「それは無理。僕のリードって目も当てられないくらいひどいもん」
言って、梓は首を横に振る。
「キャッチャー初心者の弥生さんと組んだ時は、男子野球部を九人連続三振させたのに?」
「互角の相手と渡り合えるほどじゃないよ。実際、前に若いキャッチャーのリードがあんまりだからって自分でやってみたら散々な目に……」
「若い?」
この子はどんな状況で投げたのか。
「と、とにかく、ここはやっぱり本職の優ちゃんに――」
「ふと思ったんだけど」
「うわ!」
優と梓が話す横に、見物人のはずの青田啓子がいつの間にか立っていた。
「緩急つけたらどう?」
「か、緩急って、でも、梓さんは見ての通りあまり速い球が投げられるタイプじゃ……」
「緩急は球の速い遅いだけじゃないよ」
「え……? ああ!」
優と梓が同時に叫んだ時、弥生や美紀たちも集まって来た。そして美紀が啓子に笑う。
「青田さん、観客が選手にアドバイスするのは筋違いだよ?」
「選手なら問題ないね?」
「もちろん」
「……久しぶりに血が騒いできたよ、柄にもなく」
「あなたは元々そういう人だったんじゃないの?」
「……かもね」
美紀とのそんな会話を済ませると、啓子は居並んだ他の六人に向かって言った。
「三年A組、青田啓子。これからよろしく」
「それにしても、どうしてうちの部員には、野球に詳しい割にグラブも持っていないような人が何人もいるんでしょう?」
バックネット近くにまとめておいたバッグの中から予備のグラブを出しながら、弥生が近くで梓と打ち合わせをしていた優にぼやいた。昨日買うまで小笠原優としてのミットは持っていなかった優としては、曖昧な笑みを浮かべるしかない。
「ぐ、偶然の一致ってやつじゃない? あ、あれ? この吉田って誰?」
「……幼なじみですわ」
「え? 男の子? 女の子?」
自分のバッグから飲み物を取り出して飲んでいた梓が、反応よく食いついてくる。
「男ですけれど、それが何か?」
「どんな関係?」
「どんなも何も、まだ変なことにはなっていませんわ」
「ふーん。『まだ』かあ」
「梓さん! 言葉尻を捉えるのはおよしなさい! 優さんも妙な顔をしない!」
「私は変な顔なんかしてないよ!」
「グラブ一つ引っぱり出すのにいつまでかかってんだてめーら!!」
雪絵に怒鳴られ、三人は慌ててグラウンドに戻る。
「わがまま言って悪いけど、走り回るのは苦手なんでファースト希望」
制服姿にグラブをはめた啓子が言う。
「ならシャルが外野に行きますネ」
守備位置を変更し、八人がグラウンドに散る。そして迎える第七打席。
「いい感じになってきたね。すごく楽しそうだな」
一同の様子をのんびり眺めていた一美が打席に入り、戻って来た優に言った。
「だから、そう思うならさっさと終わらせましょうよ。空振り三回でいいんですから」
優が応じると、一美は目を細める。
「元気になったようで何より。まあ、今は勝負のことだけ考えようよ。投げて、打って、捕って、走る、それだけをさ」
「……はい!」
優が腰を落とし、ミットを構える。梓が投球体勢に入る。いつもなら、そこから左足をしっかり踏み出して右腕を力強く振り抜く。球種に関わらず常に一定のタイミング・一定のモーションを保つのが、梓のピッチング。
だが、今の梓は左足をちょんと踏み出し、そのまま右腕を小さく振った。
ランナーが出た際に盗塁を警戒して投球動作を短縮するのがクイックモーション。だがこれは、クイックモーションというにもあまりに速く、しかし代償として球威はまったく期待できない。
打席の一美があわててタイミングを取り直そうとしているのが感じられる。本来盗塁を抑止するのがクイックモーションであり、もちろんその球速は維持するものだから。
――ところがこれは、球速まで犠牲にしてるんだな。
優のリード通り、梓の指から放たれたボールは、奇跡のようにゆっくりと宙を漂った。球速六十キロもなさそうに見えてしまうほどの、紛う方なきスローボール。
一美もそれは目で捉えているが、クイックモーションに応じるべく切り換えた体勢は、脳の再度の切り換え要求にまでは反応できない。早過ぎるスイングの始動。
バットが空を切り、その後をゆるゆるとボールが通過して優のミットに収まった。
「……いっそのこと一回転すればよかったかな?」
バットをこつんと額に当てながら、一美が言った。
「二段構えはやられたよ、ナイスリード」
その言葉は、今の優にとって最高の勲章であった。
――偉そうにアドバイスしたけれど、必要なかったかな。
一塁ベース近くで身構えていた啓子は、一美を空振りに切って取ったバッテリーを見ながらそんなことを考えた。あそこで口を挟まなくてもすぐに自力で思いついただろうし、実際に投げた球には啓子のアドバイスには抜けていた工夫も盛り込まれていた。
さて、これで七打数五安打。もう二回抑えれば、一美を仲間にする条件は達成される。
本来なら守備位置を調整して一美シフトでも作り、打たせて取るピッチングを徹底したいところ。しかし一美は、先刻のショートを狙った打球を見るに、どこへでも自在に打ち分けられる模様。梓の球威のなさが災いしていると言えよう。
もっともそれは、梓のレベルが低いからというわけではない。変化球のキレと制球力が生命線の梓のピッチングが、動体視力と反射神経を主武器とする一美のバッティングに対して徹底的に相性が悪いからという話に過ぎない。今快音を飛ばしている一美にしても、球威のある重い球を擁するピッチャーを相手にした場合にどこまで力を発揮できることか。
――って、何考えてんだか。ここはベンチでも試合前のミーティングルームでもなくてグラウンドだってのに。
気を取り直して意識を第八打席のマウンドに向けると、今度の梓はサイドスローでもオーバースローでもなく、アンダースローで投げていた。
――どこまで器用なんだろね、この子。
それは打席の一美も同意見だったようで、「今度は下手かいっ!」などと叫んでいる。
それでも初見の球を打ち返してしまうその技術はさすがだが、流し打った打球は地を噛むような鋭いゴロながら、啓子の真っ正面に転がって来た。捕って一塁を踏めばアウト。
なのに、腰を落とし、捕球しようとして、強烈な打球はグラブの拘束を逃れんとばかりに跳ねる。一度は収まったはずのボールが、地面にこぼれた。
ボールを日常的に扱うそれまでの生活が失われて三年。それは同時に大手術の代償として激しい運動を控えてきた三年間。その不利は、さっきフェアグラウンド内に足を踏み入れた瞬間から自分自身が誰より強く意識してしまっている。
ボールを掴もうとする手が滑る。
心が焦りに囚われそうになった時、傍らを飛び跳ねるように駆けていく影。
梓が一塁のカバーに入ろうとしていた。
ベースを踏み、啓子の方を向いてグラブを伸ばしながら、瞳が明るい光を放つ。
勝利へと一直線に突き進む、力強い眼光。この勝負の間、ずっと失われなかった輝き。啓子の決意を最後に後押ししたその光に導かれるように、啓子はボールをトスしていた。それは一秒前までとは別人のように、実に自然でスムーズな動きだった。
駆け込んで来た一美。梓のグラブに吸い込まれるボール。
「アウト、ですわね」
ベース後方でバックアップに入っていたセカンドの子が口を開くと、一美も肯いた。
「ちょっと間に合ってなかったね。ここからあたしが勝つには二打席連続ヒットかあ」
そんなやり取りを聞きながら、啓子は深く安堵の息を吐いた。
「次にちょっと投げてみたい球があるんだけど……いい?」
第九打席に入る前に、優をマウンドに呼んで梓が言った。
「いいけど……どんな球?」
梓の答えに、優は耳を疑った。
「そんなの打たれるに決まってるじゃない! 梓さん、どうかしちゃったの?」
「それが本当に打たれるかどうかを試してみたくって。まだ一打席余裕がある今だから、やってみたいんだけど……駄目?」
小首を傾げて少しばかり背の高い優を見上げてくる梓。ポニーテールを弾ませたその姿は妙に可愛くて、優はいささか冷静でいられなくなる。
「う、打たれても私は知らないからね!」
「ありがと! じゃ、コースの指定はよろしくね」
やたらとうれしそうな梓の声を背に、優は自分のポジションに戻った。
「あのおチビさん、今度は何をしてくるのかな?」
「私にもよくわかりません」
一美とそんな会話をしていると、梓がとある行動に出た。
そして梓が球を投げる。
一美のバットはものの見事にボールの下を空振りした。
「一美さん、これからよろしく!!」
その場にいた梓以外の全員が驚愕からいまだ覚めやらぬ中、梓の明るい声がグラウンドに響き渡った。
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