試合一ヶ月前:練習と偵察(一美、優、弥生の視点)
肩慣らしに百七十キロの直球を打ってみたが、狙った方向へは飛ばない。目はとうに慣れているけれど、まだ力負けしないバッティングフォームを確立できていない。
隣では、シャーロットが市販のピッチングマシンを相手に百二十キロの球を打ち込んでいる。野球未経験の素人さんと言う話だったが、ひと月でずいぶんバッティングフォームもさまになってきた。気持ち良さそうに金属音を響かせている。
「百八十キロを五球、その後三十球ランダムでよろしく」
「わかりましたわ」
一美のリクエストに応じて弥生がマシンを操作する。
マシンから吐き出された硬球が、高速で迫る。バットを操り芯で捉える。五球中どうにか三球は狙い通りの方向へ放てたが、まだ飛距離が足りない。
そしてストレートからナックルまで、何が飛び出すかわからないランダムプログラムに従って飛び出すボールを三十回打つ。前の六球と合わせて三十六球中、二十七本がヒット性の当たり。ただし長打は六本ほど。
「やっぱり一美さんはすごいデスネ」
同じタイミングで打撃練習が一段落したシャーロットが、汗を拭きながら一美に話しかけてきた。
「まだ駄目だよ。あたしは打つしか能がないからね。残り一ヶ月で、長打をきっちり打てるようにならないと」
「でも百八十キロの球をポンポン弾き返してマスシ……実戦だと百四十とか百五十くらいデスヨ?」
「機械と人間は、やっぱり違うから。梓ちゃんの『あの球』見ればわかるでしょ?」
「ああ、それはそうデスネ……」
グラウンドの隅でシャドーピッチングをしている梓に目をやり、シャーロットが呟く。梓と一美の勝負は、ひと月経った今も鮮烈な印象を他のナインに残していた。
「さ、よろしくお願いしますわ、二人とも」
二台のマシンをそれぞれ操作していた弥生と雪絵がバットを持って打席に入る。入れ替わりに一美とシャーロットがマウンド上に置かれているマシンに向かった。
「偵察、うまく行ってるデショウカ?」
「大丈夫でしょ。ま、分析は賢い面子に任せて、あたしたちは鍛錬に励むだけだけど」
そう言うと、一美は硬球をマシンにセットし始めた。
「一年生でスタメン二番かい。三輪っての、大したバッターのようだね」
少し遅れてやって来た美紀の言葉に、啓子が言い添える。
「バッティングだけじゃない。走塁も積極的だし、セカンドの守備も堅実だよ」
啓子と美紀と優と真理乃。四人は今、校舎屋上から、男子野球部と去年の西東京代表校の練習試合を観戦していた。真理乃がビデオカメラを据えつけて試合経過を録画し、他三人はその場で目についた選手やプレーに関してメモしておく。
別に女子野球部を警戒してのわけもないだろうが、ここまで一ヶ月、男子野球部の練習試合は週末のたびに他の地方へ遠征して行なわれていた。それを追うよりは地力を増す方が先決と判断し、女子野球部が男子野球部を偵察するのは今回が初めてである。
試合は二回裏。すでに清水共栄男子野球部は八対〇と大きくリードしている。コールドゲームになるとしても五回までにどれほど点差がつくことか。
「で、三番が弥生や梓にとって因縁の相手・白石。三軍からは舞い戻ってたんだね」
今度は優が答えた。
「あの人以上のキャッチャーはいない、みたいですから。ピッチャーの長所を生かすよりは、自分のリードにピッチャーを当てはめようとするやり方、だって話ですけど」
猛としての去年までの知識を交えて話すわけだが、その辺は間接話法にしないと当然ながら不審がられる。ぼろは出していないと思うけど、時々今の立場を見失いそうになるのが怖い。
「バッターとしては、苦手なコースがないタイプですね。どこへ投げても喰らいついて、四番へつなげようとする打ち方です。長打も狙えば打てるようで、厄介です」
言った矢先、快音を発して打球が右中間のフェンスを越えていった。ツーランだ。
「その四番が、彼か。あの下品な男」
右の打席に立った渡辺を見て、美紀が珍しく憎々しげに言う。梓と弥生が男子野球部と揉めた時に酷いことを言われたそうで、去年までのキャラクターを思い出せば、彼が何をどんな風に言ったかは優にも想像がついた。
「ただ、打ちますよ。半端でなく」
その声をかき消すような甲高い音。二年生だった去年よりさらに飛距離が伸びていて、二打席連続のホームランだということは打った瞬間はっきりしていた。それを打った当人が一番はしゃぎ、ピッチャーを嘲るように何か言いながらダイヤモンドを一周している。
「今の男子野球部に最もふさわしい四番のようだね。良くも悪くも」
美紀の辛辣なコメントに、優は内心身を竦ませる。『優』には直接関係ないことなのだから、表面には出さないよう努めたけれど。
「次の五番が、個人的にはむしろ怖い」
啓子がぽつりと言い、静かに左打席に立った長谷川を眺めている。
長谷川は、動揺を隠せないピッチャーが投げた棒球を二球見送り、三球目のスライダーを強打。打球は左中間フェンスを直撃したツーベース。誰にともなく美紀が訊ねた。
「あの投手の決め球は、スライダー?」
「正解」
「十一対〇になった練習試合。緊張が切れてもおかしくないそんな状況下で、自分なりの課題を見つけて打席に立ったってことかい。大したもんだね」
一打席見ただけでそれを見抜いた美紀も大したものだと思う。もっとも、最初は素人と言っていたのに、練習が本格的に始まった途端、玄人肌の打撃技術と職人的な外野守備を披露して見せた彼女のことだ。この程度で感心するのは却って失礼かもしれない。
続く六番の堀内と七番の工藤は簡単にヒットを打って、一点追加。状況は一死一二塁。
「六番は『くせ者』ってあだ名が昔からついていたそうです。七番はミートするのがうまいですね」
しかし八番の高橋、九番ピッチャーの柴田が凡退して、二回裏は終わった。
「八番のライトは、打撃は不得手ですけど、守備がすごいです」
三回表。優の解説を裏付けるように、右中間を破りそうだった相手チーム四番の打球をライトはジャンピングキャッチしてのけた。さらにそこから、肩を見せつけるようにキャッチャーまで返球したボールはノーバウンドでミットに吸い込まれる。
続く五番は三遊間を抜けそうな当たり。ショートがうまく回り込んで捕球すると、矢のような送球をファーストへ。
「あのショートは……一番バッターか。守備もいいけど打撃もいいのかな?」
「そうですね。足を生かしてコツコツ当ててきます。盗塁も得意ですし」
言いながら、優は今の自分の肩について考える。猛の肩よりは弱いので、スローイングをもっと工夫しなければなるまい。
「真理乃、どうした?」
美紀の声に驚いて振り向くと、真理乃が口元を押さえてしゃがみ込んでいた。
「な、何でもないです。ちょっと、その、立ちくらみしただけで……」
気丈に言ってカメラを覗き込もうとしているが、また口元を押さえる。性格はやたらと気弱な子だけれど、身体はいたって健康という感じがしていたのだが。
と、美紀が真理乃に近寄り、小声で何か言った。「見えたのかい?」と優には聞こえたが、どんな意味なのか見当もつかない。
しかし真理乃はその言葉を聞くと小さく肯き、「最初からずっと……我慢はしてたんですけれど……」と呟いた。
「あんたは意外と過敏な子なんだね。ま、悪いばかりじゃないから気に病むこたないさ」
美紀はまた優には微妙に意味不明な台詞を発し、そのままビデオカメラの前に立つ。
「録画はやっとくから真理乃は引き上げな。体調が回復したら練習に復帰しといてくれ」
「……はい。その、ご迷惑かけちゃって、本当にごめんなさい」
ぺこりと頭を下げる真理乃に、啓子がグラウンドを見つめてメモを取りながら、静かに声をかけた。
「気にしなくていいよ。体調が悪い時は無理しちゃ駄目だ」
「そうだよ、真理乃さん。あの、家に帰っちゃってもいいからね」
優が言い足すと、真理乃はもう一度謝ってから校舎の中に入って行った。
「さて。人数減った分気合入れて観察しようか」
さっきの会話について訊いてみたかった優だが、美紀に機先を制された。
「ピッチャーはこの柴田の他に誰が有力?」
「え、えっと、三年だと阿部がいます。右の軟投派で、柴田と左右の二枚看板ですね」
「今投球練習してる彼かな?」
「あ、そうです」
五回までに両投手を起用するらしい。優はメモと鉛筆を持ち直した。
「時間がずれ込んですまない。トリプルヘッダーの三つ目が意外と長引いてね。結局うちの男子が三連勝だったけど」
そんなことを言いながら美紀たち三人が戻ってきたのは夜遅く。仮設の照明が灯る中、最後の練習メニューまで終えた直後だった。
「三試合目の相手はどこでしたかしら?」
「神奈川の箱根創生」
「去年の夏は優勝候補の一角でしたわね。大西に二回戦で競り負けましたけれど」
そんな相槌を打ちながら美紀と啓子と優を見れば疲労困憊の様子。身体は動かさなくとも、本気で頭を使えば疲れるものだ。
「それで、偵察は満足いくものになりました?」
「ま、どうにか。向こうの手の内はある程度見えてきたわけだし、うちらの力も把握できてきたしね」
数時間の練習時間を犠牲にしても、チームの頭脳たる彼女ら三人に知恵を絞ってもらったのは無駄ではないはずだ。
そんなことを考えながら、弥生が何となく場を仕切って解散を宣言する。
「では今日はこの辺で。みなさん、中間テストもゆめゆめ怠りないようお願いいたしますわ」
「やなこと思い出させやがる……」
「美紀姉ちゃん、後で勉強教えて」
「んじゃ、夕食済ませたらそっち行くよ」
「お疲れさま。吉田くんにもよろしく」
三々五々帰宅の途につく仲間たちを見送ってから、弥生はプレハブに入った。
「みんなは?」
「帰ったよ。さ、もうひと踏ん張りするかねえ」
大きく伸びをして、弥生は縫い目のほつれたボールを修繕中だった修平と向かい合って座る。そして転がっている汚れたボールを手に取ると、消しゴムでこすり始めた。
マネージャーとして女子野球部に入部した修平。その雑用を手伝うのが、弥生の部活の締めくくりになっていた。今日はボールの手入れだが、日によってやることは様々だ。
しばらく黙々と作業に集中していたが、弥生があくびをすると修平が口を開いた。
「他の子にもやらせればもっと早く終わるのに」
「俺たち二人で済む仕事なんだから、他の手を煩わせるまでもねーよ。ピッチングの自主トレが残ってる梓みたいな奴もいるんだし」
そう言うと、修平は唇を尖らせる。
「……弥生ちゃんだって、帰ったら練習するんでしょ? 大変なのはおんなじなのに」
「俺の練習時間が減るのと梓や一美さんたちの練習時間が減るのはわけが違うっての。男子野球部倒すなんて無茶、エースと主軸の大活躍がなければ不可能なんだから」
「でもぉ……」
「修平、すっかり『弥生』に戻ってるぜ」
弥生がからかうと、修平は顔を赤くした。
「別にいいでしょ。二人きりなんだから」
「おやおや。『今の身体に合わせる』とか言ってたのはどこの誰だったかな。ま、確かに人前じゃ『物静かで理知的な吉田君』で通ってるみたいだけど」
「そうよ。がさつな弥生ちゃんだったらこうは行かなかったでしょうね」
「誰ががさつだよ。俺の評判知らないわけじゃねーだろ? 『キヨミズのお嬢』だぜ」
「……どう考えても褒め言葉じゃないわよ、それ」
いつものようにバカ話をしながら、秘密を共有する二人の夜は更けていく。
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