青田啓子:脳移植手術を受けて少女の身体で蘇生した元プロ野球指導者は、まだ何をやるべきかわからない

 少女はいつもの場所で壁にもたれ、ぼんやり空を見上げていた。

 百七十五センチの長身を持て余すでもなくすらりと立つその姿は、実にさまになっていた。腕を組み、片足は壁に預けている。今は物憂げな表情に包まれているが顔立ちの鋭さは隠しようがない。長くまっすぐ伸ばした黒髪も、手入れに無頓着なせいか、美しさよりもむしろ無造作な荒々しさを顕している。

 ここは旧校舎と新校舎の合間に隠れているデッドスペース。出る必要のない行事が行なわれている間はここで時間を潰すのが青田啓子の習慣になっていた。

 新入生の初々しい声が連れ立って体育館へ向かっていく。もう数分で式が始まれば、その声もきれいに静まるのだろう。

 と、足音がして啓子は振り向いた。

 髪を肩口で切り揃えてカチューシャを着けた、くっきりした目鼻立ちの少女である。驚いたような顔をして啓子のことを見ている。上履きの色から判断するに、新入生。

「体育館はあっちだよ」

「ど、どうもすみません」

 啓子が手で方向を示すと、まるで男みたいに頭を下げて去っていった。

 ――迷ってここに来るものかな?

 普通に使う廊下からここまでの道のりは、少し入り組んでいる。よほどの方向音痴か、あるいは兄弟か誰かがいてこの学校に前に来たことがあるか。

 ――だとしても、在校生ならまだしも、新入生が入学式をさぼるかね?

 妙に浮かない顔をしていた。何か、この学校に来たくない事情でもあるのだろうか(清水共栄は進学校にしてスポーツも各種盛ん。生徒の自主性尊重が浸透した校風で、バイトなども自由。芸能人も何人か通っている。さらには教師の質も高く生徒を人として扱ってくれる、かなり恵まれた学校だが)。あるいはじっとしてるのが苦手なのか(そんな落ち着きのない性格にも見えなかったけど)。

「…………」

 さらにいくつかの推論を重ねようとした啓子だが、それが無駄な作業に過ぎないことに気づいてしまった。

 人の行動を観察し、その心理を推測する。身について三十年近くになる習慣だ。昔はそれなりに役に立ちもした。

 しかし今のこの身体では、この生活では、何の意味もない。

「…………」

 空を見上げる。

「……何やってんだか」

 ため息がこぼれた。


 式が始まったのだろう。さっきまでの喧騒が嘘のように消え去った。体育館の中では、新入生たちが何がしかの希望と不安に胸ときめかせていることだろう。

 ……今の自分にはとんと縁遠い。

 ポケットを探って煙草の袋を出す。一本くわえ取り、今度はライターを出そうとして、尖った声に止められた。

「田村さん! 何してるんですか!!」

 白衣に身を包んだ女性が歩み寄ってきた。髪をひっつめ、銀縁の眼鏡をかけている。

「念のために見に来て本当によかった。早く体育館に行って下さい! また先生方に変な注目受けたらどうするんですか!」

 啓子から奪った煙草を自分のポケットにしまいながら、女性は叱りつける。

「……矢野さんこそ式、出なくていいの?」

「保険医に入学式は関係ありませんよ。階段転げ落ちてさっそく保健室に運び込まれた子もいますしね。とりあえず大きな怪我はしてなかったから寝かせておきましたけど、早く戻らなくっちゃ……」

 せかせかと言い立てながら、矢野と呼ばれた保険医は啓子の手を引く。

「相変わらず真面目だね。ただの隠れ蓑なのに」

「それだけが取り柄ですから」

 矢野は不機嫌そうに応じた。

「ところで最近、大森さんが来ないね」

「……所長は多忙ですので」

 答えるまでのちょっとしたためらい。啓子はさらにつついてみることにした。

「こんな面白いモルモットがまだ死にもしないでピンピンしてるのに?」

「そんな言い方はしないで下さい!」

 矢野は表情を険しくした。

「所長が手術をしなければ、田村さんはあの時確実に――」

「こんなところでしゃべっちゃ、まずいだろ?」

 啓子の言葉に我に返ったようだ。矢野は口をつぐんだ。

「……新しい手術でも手がけたのかな?」

「……ご明察です」

 啓子が少し黙って言葉を待つと、矢野は声を落としてさらにしゃべり出した。

「田村さんと逆です。二十代のOLだった人ですが、中学生の男の子の身体に……」

 ――なるほどね。大森はサドだし、今頃はさんざん言葉で嬲って遊んでるんだろうな。

 あの移植手術から三年経ってすっかりすれた啓子よりも面白いおもちゃが手に入ったわけだ。様子を見に来ないのも肯ける。

 さて。あんなサイコ医者に会わずに済めばそれに越したことはない。しかし――

「て、ことは。この先のこっちの生活はどうなるの? 患者を二人も観察してられるほど研究所に余裕があるとは思えないけれど?」

「……来年の三月をもって、田村さんへの接触は最小限度のものになる見込みです。もちろん、定期的な検査には来ていただく必要がありますけど」

「ならあなたとの同居生活も後一年、ってこと?」

「……はい」

「長いことお疲れさま」

「いえ、別に……」

「まさかこれほど生きるなんて誰も思ってなかったろうからね」

「ですから、そういう言い方はよして下さい!」

「はいはい。ま、今教えてもらってよかったよ。心の準備だってできるしね」

 その言葉に矢野が血相を変える。

「田村さん、まさか自殺でも――」

「今になってそんなことはしないよ。三年も生きてると、いつ死ぬかもしれない仮の身体でも、少しは未練を感じるしね。心の準備って言ったのは、来年春以降の生活について」

 そこまで言ってようやく納得してもらう。

「と言っても、やりたいことはないけれど」

「…………」

「どうしたの?」

 矢野は黙り込んでいたが、思い切ったように口を開いて啓子に訊ねた。

「前から気になっていたんですけど……田村さん、以前みたいに野球なさらないんですか? プロを目指したりしないんですか?」

「……この身体でかい? ま、草野球ぐらいはできるかもしれないけど、ドラフト指名してもらえるとは思えないな」

 啓子が肩をすくめると、矢野はあわてたようにかぶりを振る。

「いえ、あの、選手としてプロでプレイするのは難しいでしょうけど、事故に遭う直前は二軍監督を務めてましたよね。そんな風にいずれ監督やコーチみたいな形で――」

「女にそういう仕事を回してくれるオーナーはいないよ。何より選手がそんな指導者を認めない」

 啓子が即座に切り捨てると、矢野も黙りこくった。

 啓子はまた空を見上げた。

 校舎の建物に切り取られた四角い空はむやみに青く澄み渡り、今の啓子にはひときわ遠い存在だった。

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