小笠原優:野球部の前キャプテンは幼なじみの身体になって、卒業したばかりの高校に入学する
少女は丁寧に襟元のリボンを結び、開かれた三面鏡を眺めた。
鏡の向こうから見返すのは、セミロングの髪を肩口で切り揃え、カチューシャを着けた少女。
名前は小笠原優。今日から清水共栄に通うことになる高校一年生。目鼻立ちのくっきりした、意志の強さを感じさせるルックスの持ち主である――本来は。
「これで、大丈夫かな?」
今、傍らに立つ青年に問いかける少女の表情は、不安そうに怯えている。自分の着ている空色のブレザーやスカートを恐る恐る取り扱う様は、生まれて初めて制服を着たかのようですらある。今から入学式に出るとは思えないくらい不自然なまでの動揺ぶりだった。
「まあまあかな。それと、そんなにおっかなびっくりすることはないから。制服はもともと少しくらい乱暴に着ても大丈夫なように作られてるんだし」
背の高い、引き締まった体つきをした青年は、妙に慣れた手つきで少女の服装や髪型を細かく整えていく。名前は山本猛。優とは三つ違いの大学一年生。
「でも……何か、落ち着かないよ。だって、学ランと全然違うんだぜ、この布地。妙に薄くってさ……」
愚痴をこぼす少女に対し、駄々をこねる妹をなだめるように青年が言う。
「いつも穿いてるスカートと変わらないんだから、気にすることないってば」
だがその言葉が少女の態度を硬化させた。そっぽを向いて、拗ねるように言う。
「俺がいつも穿いてるのはジーパンだよ」
青年はオーバーな仕草で肩を竦めると、少女の肩に手を置いた。
「それはこの前までの話でしょ、猛ちゃん」
「……はい」
十五センチの高みから見下ろされ、少女はしょんぼりとうなだれた。
二人の現在の関係を説明するには、時間を二週間前――とある事故の起こった日まで遡る必要がある。
その日の夕方までは、優は優であり猛は猛であったのだ。
猛がジョギングを終えてマンションに帰ると、空っぽのはずの自分の部屋にはなぜか灯りが点いていた。
「あ、おかえり」
玄関を開けると当たり前のような顔をして優が台所から顔を覗かせた。自分の家から持ってきたのか、ひよこのアップリケが入ったエプロンまで身に着けてすっかり新妻気取りである。
「今夜はキムチ鍋やってみるね。猛ちゃんの好きなうんと辛いやつ」
「何でお前がここにいるんだよ?」
優の台詞を無視し、スニーカーを脱ぎ散らして猛は訊いた。優は上がり框に膝をつき、そのスニーカーを整える。切り揃えた後ろ髪がさらりと流れ、猛は思わずドキリとした。
「だってあたしおばさまとおじさまにお願いされたもの。『わがままな息子だけどよろしく頼みます』ってご丁寧に」
猛の父親はこの春に名古屋の企業へと転職し、つい昨日母親ともども引っ越した。だから本来、その日からは猛の一人暮らしが始まるはずだったのだが。
「まだ少し早い気もするけれど、許婚としては望むところだし」
「だからその言い方はやめろって……」
猛と優はマンションの部屋が向かい合わせにある幼なじみである。優は小さい頃に猛の母が冗談で言ったはずの言葉を気に入って、山本家で遊んでいる時はよく『猛の許婚』を自称している。
「鍵はどうした?」
「おばさまからいただいてるわ」
猛の両親は本気で優を猛の嫁にしようと考えているのかもしれない。彼らが名古屋行きを決めたのは、自分たちがいない間に二人が一線を越えてしまえば却って都合がいいという計算もあったのではなかろうか。そんな不穏な発想までしてしまう。
エヘンとばかりに胸を張る優に、猛はひどくぶっきらぼうな口調で言った。
「俺は飯より先に――」
「お風呂でしょ? できてるわよ」
風呂場に行けば少し熱めのちょうどいい湯加減。優は猛の好みなら何でも心得ているのである。
少しジョギングに気合を入れすぎていたため、何はともあれ早くさっぱりしたかった。服を脱ぎ捨てて洗濯機へと放り込む。
小さな腰掛けに座って汗を流そうとした猛だが、風呂場のシャンプーを切らしていたことをその時になって思い出した。
おまけにタオルや替えの下着まで持って来るのを忘れている。予期していなかった優の存在にすっかり調子を狂わされている。
買い置きをしまっているはずの押入れは、風呂場からかなり遠い位置にある。優がいる以上裸でうろつくわけにもいかない。
「優、押入れから新しいシャンプーと……箪笥からタオルも、持ってきてくんないか?」
言ってから、何だか恥ずかしくなる。
「はーい。……あっ、猛ちゃんブリーフなんだ」
「ひ、人の下着見るなよ!」
「タオルがないなら下着や洋服も忘れてるんじゃないかと思って。違う?」
「……そうだけどさ」
三つ年下にも関わらず、小さい頃から猛は優にやり込められてばかりだった。
優の足音が近づいて来る。風呂場のドアのすりガラス越し、すぐ外にコトリとシャンプーを置く白い手が見えた。
優が去るのを待ってドアを開ける。腰掛けから立ち上がり、シャンプーに手を伸ばそうとしたその時。
いきなり足が攣った。
「あいたたたたた!!」
特殊な痛みが足を駆け抜け、声を上げずにはいられない。猛は風呂場と脱衣所の境の辺りに突っ伏してさらに呻く。
「猛ちゃん、どうしたの!?」
廊下と脱衣所を隔てるドアを開け、優が飛び込んできた。
と。
「きゃあ!!」
優の悲鳴。と同時にやたら固いものが猛の後頭部にぶつかり、猛は一瞬意識を失った。
「いってえ……」
気がつくと同時に、猛の額に激しい痛みが走る。情けないが涙が出る。痛くて目もなかなか開けられない。
身体を起こして額を手でさする。ずきずき痛むがどうやら出血はしていないようだ。
「いたたたたたた……」
すぐ傍では優が痛がっている。だが不思議なことに、妙に声が低い。
恐らくさっき、慌てていた優がドアを開けたら滑って転び、その額が自分の後頭部に当たったのだな、と猛は見当をつけた。
猛は床にあぐらをかき、おかしなことに気がついた。
なぜ自分は服を着ているのだろう?
なぜ自分は風呂場の濡れたタイルでなく、脱衣所の乾いた床に座っているのだろう?
なぜ自分は後頭部の痛みや足の攣りを感じないのだろう?
まだ涙の滲む目を開ける。自分の身体を見下ろして、最初に目に入ったのは黄色く可愛いひよこのアップリケだった。
自分たちの身体が入れ替わっていると認識した三秒後、漫画や小説におけるお定まりのものとよく似たパニックが二人を襲った。
だが五分が経過して混乱の時が去ると、現実的な問題が浮上する。
とりあえず猛となった優は風呂に入る他なく、その後は夕食を食べながら、今後のことを相談することにした(と言っても、優の身体になった猛にとって、キムチ鍋は辛すぎてとても食べられなかったのだが)。
しかし話し合うべき対策などあまりない。何度か頭をぶつけてみても元には戻れず、とにかく元猛は優として、元優は猛として、元に戻れるまで相手のふりを続ける他ないだろうという結論が出た。
幸い春から猛は大学一年生、優は高校一年生である。学校の人間関係で苦労させられることはなかったし、家庭の方もそれぞれの事情から充分ごまかしのきく状況であった。
「じゃあ……いってきます」
元猛の優は足取り重く玄関で靴を履く。
「一人で大丈夫? ついて行こうか?」
自分はすでに大学の入学式をこなした元優の猛が保護者みたいな口を利く。
「……いいよ。道はわかってるんだし」
「それもそっか。これで四年目だもんね」
優が入学したのは清水共栄。去年まで猛が通っていた高校だ。
「……まさかひと月前に卒業したとこに入学するなんてな……」
「けど猛ちゃんはいいね。一度教わったことばかりなんだから、優等生間違いなしだよ」
「受験が終わったら詰め込んだことなんてみんな忘れちゃったよ。それより優こそ羨ましいさ。受験なしに大学入れたんだから」
「…………」
優は軽口を叩いたつもりだったが、それが失敗したことをすぐに悟った。
「……あたしさ、入学式の後、野球部から誘われちゃった」
少しの沈黙の後、猛は表情を曇らせて口を開いた。
「…………」
それはそうだろう。『山本猛』は清水共栄の主将として、去年のチームを夏の甲子園準優勝まで引っぱったキャッチャーなのだ。
「断っちゃって、ごめんね」
元優の猛は、野球を知ってはいても選手としてやっていけるだけの経験を持たない。入部してもいずれボロが出るから、どう考えても断る他なかったのだが。
「……仕方ないって。だいたい国立大の野球部なんて大したことないんだから」
「でも、あそこの野球部はずいぶん強いんでしょ?」
優の胸がチクリと痛む。
元優の言う通りだ。大学に入ってからも野球は続けたかった。野球が盛んかどうかが大学を選ぶ基準の一つだったくらいである。
けれど今、野球は続けられそうにない。少なくとも、高いレベルでの野球はできない。
身体が入れ替わった二週間前の晩。股間から突起物が消え、好物を食べられなくなったあの時に味わった、アイデンティティの喪失感。あの時に数倍する何かが自分の中で失われたのを優は感じていた。
「……気にすんなって」
それでも、優は猛に笑ってみせた。笑顔が不自然に引きつってなければいいと願いながら、笑ってみせた。
「去年決勝でさ、小林にピシャリとやられた時にある程度踏ん切りはついてたんだよ。俺はあいつみたいにはなれないなって」
去年の夏の甲子園。二年生でありながら関西の野球名門校・大西義塾のエースナンバーを背負った小林和也。清水共栄は決勝で彼に完封負けを喫していた。猛自身四打席凡退、三つの三振を奪われた。
「大学入ったら遊びも覚えようかなって考えてたぐらいなんだから……優が気にすることないって、ほんとに」
幼なじみを慰めたくて、自分を敢えて道化にした一言である。言いながら、優は内心そんな自分に少し酔っていた。
だがそれは、予想外の反応をもたらした。
「……猛ちゃん、いつの間にそんな負け犬根性身につけてたの?」
「……え?」
ふと見れば、不愉快そうな猛の顔。平凡で人畜無害な顔立ちだと思っていた自分の本来の顔だが、こうして怒られるとけっこう迫力もある。
「……ゆ、優?」
「そりゃ『山本猛』の野球に空白ができちゃうのは残念だけど……あたしある意味でうれしかったのよ。だって、猛ちゃんが小林さんに借りを返す絶好の機会が与えられたんだから!」
「か、借りを返すって……」
「小林さんはまだ高校生。『小笠原優』も高校生。今年もう一度甲子園に出て、今度こそ打ち崩してやればいいじゃない!」
「あの……もしもし?」
清水共栄はこの県随一の野球名門校だ。今年の夏も甲子園に出場する見込みは充分にある。だが新入生の女子を甲子園で、しかも大西義塾戦に起用するような自殺行為をするわけがない。そもそも女子がベンチ入りメンバーに選ばれる可能性すら皆無だろう。
「それが何よ! 一度抑えられたくらいでそんな弱音吐いて! 猛ちゃんそれでも男の子なの!?」
「今は女の子なんだけど……」
「つまんない理屈こねないの!!」
猛に一喝されると優は怖くて口をつぐんでしまった。
「入学式が終わったら野球部に入部届出してきなさい。わかったわね?」
「ちょ、ちょっと? 『優』は陸上部に入るんじゃなかったの?」
去年の中学生陸上大会で百メートル走県三位の記録を残した『小笠原優』である。高校でも陸上部に行くと元猛の優は思っていた。
「別にいいわよ、元に戻れるまでその身体は猛ちゃんのものなんだから」
「け、けど……」
優の脳裏に不意に悪夢のようなビジョンがよぎる。ついこの前まで後輩として扱っていた面々を先輩と呼び、球拾いや雑用に駆り出され……。いや、それくらいまだいい。選手に起用されることもないまま、三年間マネージャー役として飢えた雄の群れを世話するなんて……考えるだけで背筋が寒くなる。
「野球部に入らなかったら……」
猛の目が残忍に光った(としか優には見えなかった)。
「晩ご飯は辛いものだけだからね。当然水を飲むのは禁止」
「そ、そんなのやだ……」
優は真っ青になる。この身体には、辛い食べ物は拷問に等しいのだ。
「わかったわね? じゃあ、早く行かないと遅刻しちゃうわよ」
猛に背中を押されるように玄関を出る。
優はままならない人生の転変に打ちのめされつつよろよろとマンションを出た。足は意思とは無関係に、三年間通い慣れた道を歩き出す。
前を行く自分と同じ制服を着た二人の少女――小柄で元気そうなポニーテールの少女と背の高くて三つ編みの少女――が談笑するのをぼんやり眺めながら、優の気持ちは暗く沈んでいくばかりであった。
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