入学式、九人の少女は同じ高校に集まる

宇野梓:名投手は、二度目の人生で夏の甲子園優勝を目指す

 一陣の風が吹き抜けて、火照った頬をなでていく。

「あ……いい風」

 走り込みを終えて家に帰り着き、庭で柔軟体操に取りかかっていた少女はしばし動きを止めて、心地よい風を全身で受け止めた。

 豊かな髪をポニーテールにまとめ上げた、整った可愛い顔立ちの少女だ。美少女であると言っても文句をつける人はいないだろう。飾り気のないトレーナーの上下に身を包んだその姿はいささか野暮ったいが、服装は少女の魅力をいささかも損なってはいなかった。

 少女に目を留めた者が最初に注目するのはその表情である。まっすぐで澄んだ眼差し。顔立ちからは活気が自然に感じ取れる。生きること自体を喜んでいるような明るさが、その一挙一動にみなぎっているのだ。

 今も、天を仰いで伸びをした少女はむやみにうれしそうに微笑んでいる。

 東の地平線からは朝陽がゆっくり昇り始めている。初春の空には雲一つ見当たらない。今日はいい天気になることだろう。

 ――何か、幸先良さそうだな。

 別に縁起を担ぐ質ではないが、せっかくの入学式なのだ。どんよりした曇り空や土砂降りよりは、晴れてる方が気分がいい。

「梓、ご飯ができたわよ」

 家の中から母親が呼ぶ。

「はーい!」

 少女――宇野梓は元気に返事をすると家の中へ引き返していった。


「美紀姉ちゃん、おはよう!」

 玄関前で待っていてくれた幼なじみの村上美紀に梓は声をかけた。美紀は梓より一歳年上。今日から一年ぶりに同じ学校に通うことになるのだ。

 と、美紀はわざとらしくため息をついた。

「どしたの?」

「いや、梓はいいよね。スタイルが良くて。キヨミズの制服もすごく似合うし」

 陰気なわけではないが、美紀には自虐的なところがある。

「またまた。美紀姉ちゃんがそんなこと言うと嫌味だよ」

 美紀の方がよほどキヨミズ――清水共栄高校に通う生徒は自校のことをそう称することが多い――の空色のブレザーをみごとに着こなしているのに。

 梓がそう言っても、美紀はかぶりを振る。

「服ってのは身体動かしてる時に似合うかどうかが一番大きいんだよ。あたしは背が高すぎるし不器用だからさ。どうにもいけない。サイズの合わないパーツで組み立てた人形動かすみたいなものだよ。歩いたり手を挙げたりするたんびにどこかアンバランスなポーズになる」

 たしかに美紀は背が高い。ついでに言えば三つ編みに眼鏡で、いかにも真面目な優等生という雰囲気だ。そして実際親しくない人間の前では、美紀は優等生の猫をかぶっていて挙措が穏やかなのだけど、それは今言ったようなことを気にしているからかもしれない。

「百七十、越えた?」

 梓は少し話題をそらしながら駅に向かって歩き出す。

「越えた。……うまくいかないもんだね」

 答えた美紀が、梓を見下ろして苦笑した。

「あんたは百五十、越えた?」

「こないだやっと」

 梓は少し面白くなさそうな顔をする。

「僕も小学校の頃はぐんぐん伸びてたんだけどなあ」

 どこから見ても少年には間違われそうもない姿形でありながら、梓の一人称は『僕』である。後に述べる理由により、これは物心ついた頃から変わっていない。

「ま、あきらめるのはまだ早い。身長の伸び方は一定のペースなんてものとは無縁なんだから」

「わかってるんだけどね。……『昔』がそうだったから」

 美紀が梓の頭を撫でる。

「何すんのよ、美紀姉ちゃん」

「いや、身長百八十五センチの大投手がこんなちっちゃい女の子になっちゃったってのがいつ見ても面白くてね」

 言われた梓は頬を膨らませる。

「また人のことおもちゃ扱いするんだから」

 駅へ抜ける近道の、人気のない林の中を二人は進んでいる。二人だけが知る秘密を話題にできるのはこんな時ぐらいのものである。


 今から十六年前の冬、梓は三十六歳のプロ野球選手だった。

 名前は小林拓也。年配のファンでなくても日本のプロ野球に多少なりと興味がある人ならば、今でも誰もがその名を知っているサウスポーだ。

 高校三年の春に選抜大会で優勝、夏に選手権大会で準優勝した小林はドラフト一位で指名を受けた。

 十八年間の生涯通算成績は、二百八十五勝百五十三敗。主なタイトルは、最多勝八回、最優秀防御率五回、MVP二回。所属していたのが、彼が現役の間に一度しかリーグ優勝をしたことがない弱小球団であったことを考えれば、この数字は驚異的である。彼が孤軍奮闘し続けたおかげで球団は身売りを免れていたとも言われていたくらいだ(今から十年前、五年連続最下位を喫した球団はとうとう売却されたが)。さらに彼は、二回のノーヒットノーランと一回の完全試合を達成した。

 だが、単に優れた記録を残すだけでは、現役生活を終えると同時に容赦なく忘れ去られる。

 その活躍をリアルタイムで知らない若者にさえ小林の名が知られているのは、その最期によるところがむしろ大きいだろう。

 前の年にチームのリーグ優勝と日本一とを果たし、最多勝と最優秀防御率のタイトルも手中に収めていた(無論MVPも獲得している)三十五歳の小林拓也は投手として二度目の絶頂を迎えていた。連投に耐えられる丈夫な肩と速球とに頼っていた若い頃とはスタイルが違うが、打者の心理を読み尽くすような老練な投球術は、面白いように凡打の山を築くのだ。

 そんな三十五歳の夏、病魔が彼を襲った。

 そこから一年半の闘病生活の末、妻と二歳の息子を遺して小林拓也は世を去った。

 と、ここまでは誰もが知る客観的な事実。

 梓にとっての問題はその後だ。

 苦痛に満ちた最期を終えたその次の瞬間、小林拓也は宇野梓としてこの世に新たな生を受けていたのである。


 お腹がすいた。眠い。おしっこをしたい。

 梓としての最初の数年間は原始的な欲求がとにかく強く、前世の記憶も意識の片隅に押しやられていた。だがどういうわけか、それが完全に失われることはなかった。

 前世の記憶が再び明確になったのは幼稚園に通い始める前後。その時期が、梓の人生において最も困難な時代だったと言えよう。

 三十代男性の意識を持ちながら四歳の幼女として振る舞うのは極めて難しい。誰に説明するわけにもいかず、梓は混乱に陥った。自分の境遇を嘆き、スカートを穿かされそうになるたびに抵抗し、梓と呼ばれても返事をしなかった(傍目には単に泣いたり拗ねたり暴れたりが激しくなったとしか映らなかったのだが)。

 しかしその時期を通り過ぎると、梓はやがて素直に現状を受け入れるようになった。自分のかつての身体が失われて新たな身体があてがわれた以上、じたばたしても始まらないという開き直りである。

 それにこの身体もそんなに悪いものではない。(当たり前だが)ものすごく若いし、何より健康そのものだ。

 ――もしかしたら、『拓也』の時に実現しそこなった夢を叶えられるかもしれない。

 十年前にあるニュースを聞いてその可能性に思い当たった時、梓の気持ちの切り換えは完了した。第二の人生を思いっきり楽しんでやろうと心に決めたのである。

 というわけで、梓は女の子としての生活をすっかり満喫することにした。

 一人称が『僕』であることや、小さい頃から傍目には妙なトレーニングを欠かさないこと、誕生日プレゼントに特注のグラブをねだることなど、いくつかの特徴を除けば、梓の『過去』を窺わせるものは何もない。

 もちろんこんな話を信じてもらえるわけも信じさせるつもりもないから、周囲には隠し通すつもりでいた。学校の勉強も手を抜いておいて、変に目立たないように気をつけていたくらいである(中学に入った頃からは本気で勉強し直さなければならなくなったが)。

 そんな中、小さい頃から賢い上にオカルト好きだった美紀だけは梓の事情に感づいた。

 ただ美紀にしてもやたらに騒いでもろくなことにならないことは承知しているので周囲には黙ってくれている。梓にとっては実にありがたい理解者なのである。


「話戻すとさ」

 むくれた梓をなだめるように美紀が言う。前世も含めれば梓の方が年長だが、梓の精神が身体と生活に引きずられるように幼くなり、美紀が極めて賢いこともあり、二人の関係は見た目と年齢にふさわしいポジションに落ち着いていた。

「あんたのピッチングは体格の助けなしでもやっていけるものに改良したんでしょ? 伊達に十年以上知恵を絞っていたわけでもあるまいし」

「うん!」

 梓はきっぱりと断言する。その様は、小さな男の子のように無邪気で誇らしげだった。

「今はまだ、パワーが足りないんだけどね。もっともっとトレーニングして……目標は、再来年」

 それが『夢』への再挑戦の時。問題も不安もたくさんあるけれど、梓は待ち遠しくてしかたがない。

「夏の全国高校野球選手権大会」

 何度も梓の『夢』を聞いている美紀が合いの手を入れる。

「今度こそ、真紅の優勝旗を手にしてみせるんだ!」

 晴れ渡る空を見上げながら、宣言するように梓は言った。

「まずは、野球部が入れてくれるかが問題だけどね」

 水を差す言葉とは裏腹に、美紀は梓に優しく微笑んだ。

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