後編:あちらがわ

六 闇に蠢くもの

 俺が夜の闇を怖れるようになったのは、大学で殺人事件が起きてからのことだった。

 医者は、死体を見たショックによる精神的なものだろうと診断したが、怖れの対象が夜であること、夜だけでなく陽のあたらぬ暗闇にも恐れを抱いたことについては、何の原因も無いわけではなかった。そこには、それらを怖れるだけの理由があった。しかし、このことを誰かに明かしたことはなかったが。いったい、誰が信じるというのだろう。


 俺が通う石川大学は、金沢東部の山間部にそのキャンパスがある。

 起伏にとんだ地形により施設群は三箇所に分散しており、北の大学中央および文系学部、中央の理学部本館、南の理工学部研究棟にわかれている。北と中央の間は溜め池、中央と南の間は角間川が谷を作り、その上に架かる連絡橋が各区を繋いでいる。

 理工学部研究棟は細長い本館と、それに垂直に接続する三つの研究棟から成り立っており、上空から見るとEの字に似ている。俺の在籍する研究室があるのは、真ん中の二号館だ。

 大学の夏休みは八月と九月の丸々二ヶ月間という長期にわたる。補習や追試のない一年・二年は帰省やバイト、そして無論のことレジャーを楽しむためにもこの休暇を使うが、三年になると一週間の野外実習が入ったりするし、四年生に至っては休暇などあって無いようなもの。長期休暇とはあくまで授業が無い期間でしかなく、卒論のために大学を出て方々をかけずりまわったり、場合によっては海外調査のため出国する学生もいる。

「とかく理系の忙しさときたらないな。これで文系のやつらは遊び放題ってのが信じられん。本当に遊んでいて大丈夫なのか、文学部や経済学部は」

 七月末の理工学部の学食で、俺と工学部の三人は遅い昼食をとりながら、どこの道端にも生えていそうな会話の花を咲かせていた。

「さあね。少なくとも実験室の待ち時間が無いことだけは確かだと思うよ」

「こんだけ苦労させられて社会に出たら文系のほうが就職有利ってんだから嫌になるよなぁ」

「技術は資産だ。それがあれば食っていけないような目には会わん」

 宵満の言葉に、家永たちは肯いた。技術を身につけることは、将来必ずどこかで役に立つ救命胴衣を着用するようなもの。工学部生の彼らにとってそれは自明の理である。

 宵満敦は、その名前から満月のようにふくよかな人物像を思い浮かべるかもしれないが、実際は肥満とは無縁のがっしりとした体格をした好漢である。彼ら三人の中でも特に生真面目で勤勉で、父親の工場を継ぐという明確な将来目標を持つ実直な男だった。

「真舘は今年の夏休みどうする」

「たぶん大学にいる。文献演習をさっさと終わらせて卒論を進めないと年明け頃に死ぬ」

「そっちの学科、海外に行くやつもいるんだろー。真舘はー?」

「俺は県内から出ない予定だ。もしかしたら北海道あたりに先生の手伝いで飛ばされるかもしれんが……」

「それは大変だな」山壁は肩をすくめた。「北海道は広いぞー。北陸三県が三つくらい入ってまだ足りないぐらい広いぞー」

「そこまで広い地域を周ることにはならん。まあ、それでも大変そうだが」

「スケールが全然違うしな。でも北海道をドライブ旅行できたら楽しそうだよなー、俺もいつか有名な北海道の地平線を見てみたい」

 山壁日也は、車好きが高じて技術系分野に進んだタイプの男だ。良い意味での馬鹿であり、ムードメイカーで、遊び好きそうな外見とは裏腹に知識、特に車関連のものに秀でていた。

「卒業旅行に北海道は良いかもしれんな。先輩からユースホステルを巡ったりしていた時のことを聞いたんだが、ちょくちょくバイカーが出てきて、まるで旅人の国のような話だったよ」

「おー、そうしようぜ。来年の春に北海道。みんなでさ」

 いいねぇ、とその場にいた全員が好意的な返事をした。

「それならますます夏中に文献演習終わらせないと。まだ半分ぐらい翻訳が終わってない」

「僕は八〇〇ページぐらい残ってるね」

 家永はおどけた風に言った。

「お前、あれ本気で翻訳してたのか。一年の第二言語、中国語選択だったっけ?」

「ドイツ語。こうなるなら中国語にしとくべきだったよ」

「言語学者にでもなる気か」

「今は機械翻訳っていう便利なものがあるからね。慣れてくればけっこう楽だよ。さすがに専門用語は登録されてないけど」

「ほどほどにしとけよ」

 わかってるよ、という風に手を振って、家永は苦笑した。

 会話はこの後も続いたが、やがて適当に切り上げて、それぞれの研究室へと別れていった。


 八月に入って間もなく、俺のいる研究室まで足を運んだ家永が、頼みごとを持ちかけてきた。

「双晶を手に入れられないかな」

 双晶とは、文字通り二つの結晶が結合したように見える、V字型構造の鉱物結晶である。日本においては『日本式双晶』と呼ばれる水晶の双晶が産出することで有名だ。

「なんでまた」

「例の本に書いてあってね。それで誰かから借りられないかと」

「鉱物マニアなら何人か知ってるが、双晶か、持っているかどうか……鉱物研からサンプルを拝借するのが確実か」

「心当たりがあるのかい?」

「前に授業で見たことがあるような気がする、何の授業だったかは忘れたが。先生の私物か、実験室の資料棚にあるやつか。後者だったら、持ち出すのは難しくないだろう」

 以前『貴重なサンプルを盗む人間というのは昔からいる』と鉱物研の先生が嘆いていたことがある。そのため多少は防犯措置がとられているだろうが、俺の見る限り内部の人間、つまり学生なら、授業用のサンプルを短期間拝借することは容易と思われた。

「なあ、まさかとは思うが砕いて粉末にして薬にするとかって使い道じゃないだろうな。ちゃんと後々無傷で返すんだろうな」

「大丈夫だよ、ちょっと装置の部品に使いたいだけだから。理論上は大丈夫のはずだ」

「不安になるようなことを言うな」

「それから、もう一つ」

「なんだ?」

 家永は、注射器を腕に刺すジェスチャーをした。

「君の血を、少しばかり」


 家永は、いわゆるオカルトマニアだった。

 理系の人間とは思えないほど非科学的な知識に傾倒しており、それなのに工学部を選んだ動機については「神話や伝承は独学でもなんとかなるから、あえて苦手な分野へ進んだんだよ」と本人はよくうそぶいていた。人当たりの良い好青年で、やや童顔だからか、実際には背丈がそんなに低くないのに小柄な印象を受けた。

 研究室に配属され自分の席を与えられた三年生が、机に写真や土産物といった私物を飾るのと同じように、家永はタロットやお札、魔術関連の洋書、その他得体の知れないものを棚に並べては、研究室内で占い屋の真似事をしていたらしい。

「機械工学の参考書と一緒に天体運行図や民族信仰の本が並んでるのはシュールだぜー」

 とは山壁の談である。もっとも、俺のいる二号館の様々な研究室とて、どこを覗いても漫画や雑誌やフィギュアなどのオタクな物品に加え、たまにエセ科学やケルトの妖精伝承といった誰が持ってきたのか分からない書物が目白押しだったのだから、方向性が特異なだけで、家永のそれも大して奇妙な光景ではなかったのだろう。

 とはいえ、その日、工学部棟一階の第二実験室に広げられていた光景は、奇妙というか奇抜というか、流石に少し度が過ぎているレベルのものだった。

「また変なものを作ったもんだな」

 第二実験室は、実験室とは名ばかりの物置小屋扱いされている小さな部屋だ。実験に必要な作業机や棚、水道など最低限の設備はあるものの、机と壁の間を人間二人が擦れ違うことすら窮屈なほど部屋全体が小さいため、あまり使われることはないのだという。

 その、稀な利用者である家永達は、科学の場である実験室に奇妙なものを組み立てていた。

 作業机の上で着々と作り上げられているのは、金属筒をいくつも組み合わせた、装置のような台座のような、少なくとも俺の知るどんな機械とも似通うところがない何かだった。全体的な形としては、宇宙船じみた形状で有名なウィルスを彷彿とさせた。

「最後のパーツを取り付ければ完成だ。例のものは?」

「これだ。傷つけるなよ」

 俺は木製の標本入れを手渡す。家永は箱の蓋を開け、中におさめられていた結晶を見ると満足そうに頷いた。

「うん。これは良い成長具合だ。それじゃさっそく」

 家永は機械の中央部分を開き、水晶をはめこむ。寸法を測っていたわけではないので、調節ネジを巻いて挟み込み、微動だにしないよう、しっかりと固定した。

「よし。完成だ」

「おわったー」

 机の反対側にいた山壁が諸手をあげて脱力した。家永だけでなく、山壁や宵満もこの機械の製作に携わっていたらしい。

「それで、これは何の機械なんだ?」

「おおー、聞いて驚けよー」

 なぜか家永でなく山壁が得意げに答える。

「なんと、こいつはタイムマシンなんだとよ」

「へー」

「やっぱり信じなかったなー」

「本当のところはどうなんだ?」

 俺は山壁の横にいた宵満にたずねる。

「山壁の言ったとおりだ」

「そりゃ凄い」

「なんで宵満の言葉には納得するんだよー」

「彼は冗談を言わないからだよ。日頃の信用」

「まったく言わないわけじゃない」

 宵満は無表情で訂正を要求してきた。心なしか照れてるようにも見えたが。

「魔道書翻訳して完成したのがタイムマシンとは意味不明にもほどがあるだろう。霊体投射装置のほうがまだ現実味がある」

「僕としてもそういうやつのほうを期待してたんだけど。ただ予想外にこっちのほうが作りやすいかなと思ったんだ」

 家永は、作業机の端に置かれていた書籍に手を置いた。非常に大きく、分厚い本だ。赤色の皮装丁に金文字が刻印されている。その厚さと重量は片手で掴んで持ち上げられるかどうかといったほどで、傍目からも相当古いものだとわかるぐらい年季が入っていた。

 描かれている言語は中国語らしく漢字ばかりで、これを手に入れてからというもの、家永は翻訳に没頭していた。彼がそうまで入れ込むということは、すなわちこれがオカルトの書物であるということの証左である。

 水竜の書。家永はこれをそう呼ぶ。

「おそらく原型は、古代シュメールにあった時間移動のための魔術装置だと思う。その装置は元々、純粋な科学に基づいて設計されていたらしいけど、国もろとも滅びたせいで原理は伝わらなかった。それを後になって別の技術、といっても魔術のようなオカルト系統なんだけど、それと絡めて再現しようとした。そんな試みがあったらしい」

「そういう話がそれに書いてあったと?」

「うん。そして僕がそこへ現代科学を更に追加してみた……のが、この装置になる。水竜の書に描かれていた図のうち、代用できるものを金属部品で置き換えた感じかな。つまりは魔法儀式のための祭壇なんだよ、これは」

「機械仕掛けの祭壇か」

 そう言われると、作業机の上に鎮座している装置が、中南米の階段ピラミッドのようなものに見えてくる。

「しかし、いくら魔法でも時間旅行は無茶がすぎるだろう。パラドックスだのなんだの、そういった諸々をどうやって解決するんだ? そこも魔法の一言で全て解決するつもりか?」

「それが一番手っ取り早いんだろーなー」

「あるいは実践するまで誰にもわからない、と」

「それは味見なしで料理するようなものだろう。失敗して爆発したりブラックホール化して太陽系消滅したりとかは勘弁だぞ」

「流石にそこまで酷いことにはならないと思う。時間と空間そのものに穴を開けるわけじゃない。これは窓なんだ」

「窓?」

「そう、時間の窓。過去や未来を見るためだけの装置、が正しいかな。過去に干渉するわけじゃないから、パラドックスは発生しえない。録画された映像を見るだけじゃ過去を変えられないのと同じだよ」

 家永は自信をもって言っているが、当然ながら信用はできない。

 俺は宵満にたずねる。

「本当に成功すると思うか?」

「思わないな」

 彼は正直に答えた。

「まじないで物理法則を超越できるなら、現代科学はいらない。原理がいまいち納得しかねるものが正しく動くとしたら、それは常識のほうが病に倒れている時だろう」

「おい、早速メンバー内で不協和音が生じているぞ」

「うーん、実は僕も半信半疑だからねぇ」

「首謀者がそれ言っちゃダメだろー」

 山壁がうなだれた。

「俺は成功したほうが楽しいと思うけどなー。恐竜の生写真とか取れるじゃん?」

「恐竜か。そいつはいいな」

「やっぱり恐竜はいいよね」

「ああ。いいものだ」

「宵満が反応したぞ!」

「子どもの頃、博物館の展示用に恐竜ロボットを作ってみたいと思ったことがある。もちろん、そこまで本気ではなかったんだが」

「男の子は恐竜大好きだもんね。よし、そうしようか」

 家永はパチンと手を打った。

「最初の起動実験は中生代に狙いを絞ろう。恐竜相手ならプライバシーの侵害を訴えてくることはないだろうしね。当初の予定通り、日没後に実験をはじめるよ」

「今からじゃないのか? 完成したんだろう」

「地平線上にアルタイルが輝いている時間帯にならないといけないんだよ。天体の位置関係が重要なんだ」

「それを聞いてますます上手くいく気がしなくなったよ」

 魔法で時間を飛び越えようだなんて、小学生向けの文庫小説ですら採用をしぶるメカニズムだろう。荒唐無稽というより子供だましの領域だ。

 それでも俺たちが笑いながら家永の趣味に付き合ったのも、俺たち自身に子どもじみたところがあったからなのかもしれない


 合計数が一三六になるよう描かれた魔方陣の四方を東西南北にしっかりと向け、それぞれの角に受け皿を置く。

 四人の成人した男の血を皿に三滴ずつ垂らし、香木の粉末を一つまみ上から落とす。

 魔方陣の中央に置かれた装置の電源を入れ、目盛りを操作する。つまみをひねると内部の回路の幅が変動し、それに応じて遡る過去への距離も変化する仕組みだ。

 電気式ランタンの仄かな灯りの下でそうした作業を進めながら、家永は水竜の書から翻訳し抜粋したメモを片手に、ブツブツと文言を唱えていく。

「……我、秘蹟を用いて汝に厳命す。この場よりとく去りたまえ。調和する数によって整えられ、清められ、定められし場より去れ。汝らことごとく目を閉じて去れ、去れ、去れ」

 司祭にして実験主任たる家永の周りで、俺たち三人は黙って成り行きを見守る。

「夜の王よ、星より来たりて道を開く者よ。かつてあり、今はなく、いずれある、偉大なる御身の御名を讃えん。御身は大いなる力もて、我らに道を知らしめよ。時の衣を剥ぎ取りて、その手で扉は開かれん」

 まだ、何も起こらない。家永は祷文を読み上げつづける。

「柱連なる神殿の主よ、絶えず増え続ける奏者よ、全ての扉と窓を開きし者よ。夜の帳に招かれて、いざここに。我が求める扉を、いまここに。いざ、いざ、いざ、過去への窓を開きたもう!」

 印を結び、最後は叫び声となりながら、家永の詠唱は終わった。

 そのまま無言の時間が過ぎる。

 俺たちは祭壇装置とその周りや、自分の背後に視線を動かす。

 何かが起こるような気配も、予感も、しなかった。

「……失敗、かな?」

 うーん、と唸りながら家永は頭をかく。ブツブツとさらに二、三の文言を呟くが、もう本人からすらも確信は消え去っていた。

「まあ、最初っから成功するとは思わなかったが」

 わかりきったことを口から吐き出したのは俺だった。

「材料と手順は間違ってなかったはずなんだけどなあ。なにが悪かったんだろう」

「常識かなー?」

「時刻を旧暦で考えるべきだったかも。ああ、それから呪文を全部日本語にしたのはやりすぎたか。元の中国語やアクロ語のままじゃないと駄目だとか。あとはなにかあるかな……」

 呟きながら問題点を挙げていった家永だったが、キリがないことに気づいたのだろう。大きな溜め息を一つして、そこでようやく俺たちのほうに向き直った。

「うん、失敗だね。次回に期待しよう」

 彼は自嘲気味に肩をすくめて、対する俺たちも苦笑いでそれに応えた。

 次回もなにも、もうこんなおふざけをしている時間は、大学四年生には残されていない。それを自覚しているからこそ、皆はあえて無言のまま祭りの終わりを受け入れることにしたのだ。

「それじゃ、俺はもう戻る。双晶を返してもらっていいか」

「ちゃんとバレないように戻しておいてね」

 家永が取り外した水晶を受け取って、木箱に納める。これからまた資料庫に忍び込んで元の場所に戻さねば。普段は誰もいないところだから、さほど難しいミッションではない。

「もしかしたら、また必要になるかもしれないから、その時もよろしくね」

「危ない橋は何度も渡りたくないぞ。ほどほどにしとけよ」

 こんな忠告を素直に聞く奴でもないが、言わずにはいられなかった。

「うん。それじゃまた明日」

 俺は手をふってそれに応え、第二実験室を後にする。

 自分の研究棟へ戻る時に後ろを振り返ってみれば、暗い廊下に漏れる部屋の明かりの中に、談笑する三人の姿が見えた気がした。

 どこか疎外感のような寂しさを感じながら、俺は工学部棟を去る。

 和気藹々と青春を謳歌する彼らに、明日はこなかった。


 その夜、何が起きたのかは知らない。

 俺自身は試料庫を経由して研究室に戻った後、日付が変わる頃まで起きて作業していたのを覚えている。徹夜するつもりもなく、かといって寮に戻るのも面倒に思い、キリの良いところで横になって仮眠をとることにした。

 中途半端な時間に寝たせいか、目が覚めたのはまだ夜明け前のこと。特に悪夢を見たということもなく、普通の、平凡な目覚めだった。

 いつもならそのまま朝まで惰眠を貪ったのだろうが、寝ている間に家永からの電話があったと、着信履歴が教えてきた。およそ一時間ばかり前。まだ起きているかもしれないと、こちらから電話をかけてみたが、家永は出なかった。

 昨日の後片付けか何かで、俺を手伝いにに呼ぼうとしたのだろうか。それなりに複雑そうな機械だったし、大きさもあった。分解なり、どこかに片付けるなり、人手は必要だろう。

 もしかしたら今こうしてる間にも、そんな作業が進行中なのかもしれない。そんな考えに至った俺は、再度工学部棟へと向けて中庭に降りていった。


 赤い水溜りの前で、俺は呆然と立ち尽くした。

 視覚よりも先に、嗅覚が吐き気を引き起こし、身体がくの字に折れる。夜食を何もとらなかったのが幸いして、胃液の他に喉をかけのぼってくるものはなく、手で口をおさえることで何とか醜態をさらさずにすんだ。

 工学部棟へ入り第二実験室を視界に捉えた時、最初は爆発でも起こったのかと思った。廊下には重い扉がひしゃげて転がり、その周りにガラス片が散乱している。そしてそれらに混じって、赤い液体が床を流れていた。

 怪我人がいる。そう悟った俺は実験室の入り口まで進み、中を覗きこんだ。部屋内は暗く、爆発の衝撃で照明も吹っ飛んだのかと、目を凝らした。見なければよかった。

 実験室の中は、金属とガラスの破片で埋まり、その中にべったりと赤黒いものがマダラ模様を描いている。その中にあって原型を留めているものが何であるかを知った時、俺の視覚は麻痺した。

 山壁と宵満。二人の顔が、胴体を伴わずに、部屋の中に転がっていた。

 その他の場所にあるものが、彼らのバラバラになった一部だと悟り、そして部屋の中に漂っていた臭気がどこから出てきたものかを知って、吐き気が臓腑を締め上げた。

 死んでいる。

 二人が死んだ。

 嘘だ、嘘だ。これは夢だ。いや現実だ。だが、だが。信じたくない。誰か、誰か違うと言ってくれ。なんなんだ。いったいなにが起きたんだ。

 俺は後ずさり、反対側の壁に背中がぶつかる。その時、自分の体から平衡感覚が失われていることに気がついた。歩くことすら、困難になっていたのだ。

 そのまま床に崩れ落ちそうになるのを、膝を押さえてなんとか踏みとどまる。いやだ。こんなところで、こんなところで動けなくなるのはだめだ。どこかへ、逃げなくては。

 本館側へと繋がる渡り廊下へ向けて、壁伝いに歩く。ショックのあまり、おぼろげになってしまった視界の中、ふとあるものが目に入った。

 床に転々と続いていく、まだ赤い色の血痕。

 それは廊下の先、階段のあるフロアへ向かって道をなしていた。

「家永……」

 あの実験室に昨夜いた三人のうち、今俺が見たのは山壁と宵満だけ。家永は、どこにいる。あいつは無事なのか。

 俺は血痕を辿るように階段まで進み、それが上階へ続いているのを見た。

 実験室がああなっていたのなら、この血はそこで負った怪我によるものだろう。家永たちの研究室は三階、もしかしたら家永だけ逃げ出して自分の研究室に戻ったのかもしれない。

 あいつからの着信は一時間前だった。それは、もしや、これについてのことだったのだろうか。だとしたら家永が危ない。返信がなかったということは、もう電話に出られない状態に陥っていることを意味している。

 俺はもつれる足のせいで何度も踏み外しそうになりながら、必死に階段を駆け上った。


 三階に到達した時、俺の足は止まった。血痕は、家永たちの研究室には向かわず、さらに四階へと階段を上り続けていた。

 なぜだ。家永はどこへ向かったんだ。

 そう自問して、ある推測が脳髄を浮上し、そして鳥肌がたった。第二実験室のあの惨状は、事故ではなく誰かの仕業だったのでは? この血痕をつけたのは、家永ではないのでは? 山壁と宵満を殺したやつの、犯人のものではないのか。そう、二人と、そしてもしかしたら家永のものも含んだ、返り血……。

 この上にいるのは誰だ。家永か、犯人か。あるいは怪我を負った家永とそれを追った犯人か。

 いずれにせよ家永の安否を確かめねばならない。少なくとも電話がかかってきた一時間前は生きていたはずだ。怪我を負っているとしても、今ならまだ助けられるかもしれない。希望があるなら、それを無駄にしては……。

 俺は震える顎を手で叩き、再度階段を上りはじめた。

 もし犯人がいるのなら、武器が欲しい。階段の途中でそう思った。実験室の有様を見れば、相手は刃物か機械か、おぞましいものを持っているはずだ。どこかの階で消火器なり何なり持ち出したほうがいいだろう。

 ひとまず次の階で。そう決めた俺の目に、あるものが映った。階段の踊り場に転がっている、細長い金属製のもの。鉄パイプか何かだろうか、丁度良い、これを持っていこう。渡りに舟と、それに手をのばした。

 金属の棒を手にしてみると、だいぶ太く、固い。おあつらえむきだが、これは何の部品だろう。いくら工学部棟とはいえ、こんなものが階段に転がっているなど都合が良すぎる。犯人が落としていった凶器だろうか……。

 その答えは、棒を握って踊り場を過ぎ、さらに上階へ向かうため視線を上げた時にわかった。

 そこから上にあった手すりが、ひしゃげて原型を留めていなかった。

「……は?」

 俺は、自分の手の中にある金属棒を、あらためて見た。

 手すりの支柱だった。


 階を上がる毎に、異常な光景は増え続けていった。

 手すりが壊されているため、最初は壁に手をついて足が滑らないよう気をつけて進んだが、やがてそれも躊躇われるようになった。真新しい、大きな傷が壁側にも現われはじめたからだ。壁だけではない、上を見れば、階段の天上部分にも同じ傷がつけられている。

 何かで引っかいたような、大きな機材を運んでいてうっかりぶつけてしまったような、長い傷跡だ。山壁たちを殺した凶器だとすれば、日本刀のような間合いの長いものか。だが、なぜ、こんな振るい方をしている。なんのために。

 俺の脳裏に、逃げる家永を追って凶刃を振り回す男の姿が浮かんだ。もしそうなら、家永は執拗に狙われていたことになる。執念深く、おそらく怨恨も深い。

 だが。家永は誰かに恨まれるような奴だったろうか。確かに不気味な趣味の持ち主だし、目的のために俺を使って盗みのようなことをお願いする悪さもあった。それでも当人は身贔屓を差し引いても善良な人間で、誰かに恨まれるとは考えにくい。

 すると犯人の本命は山壁か宵満か。それも、俺には納得できない。宵満は馬鹿真面目で三人の中で一番人望があった。山壁も馬鹿だがそこに陰湿な感情はない。

 一番ありえそうなのは、通り魔による犯行だろう。猟奇殺人鬼が学校に入り込んで、彼らを殺害した。これは、俺の願望も混じっている。山壁たちが自分達の非で殺されるような人間ではないと、そう信じたい、俺のエゴが。


 終点である屋上への出口は、第二実験室のそれと同じように、扉が消えて破壊の跡だけが残っていた。間違いない、ここに来たのは犯人だ。では、家永は?

 俺は金属棒を固く握り締め、壁伝いに身を潜めながら破壊された出入り口へと近づいた。家永から電話があったのが一時間前、いや今となっては一時間半ぐらい前かもしれない。家永たちが襲われたのがそれぐらいだったとして、一時間半後の今にいたるまで犯人が屋上にずっと留まっているだろうか。わからない。相手は人を殺すような狂人だ。そんな奴の考えることなんか俺にわかるものか。

 充分に用心して、家永の安否だけは確かめなければいけない。ここから見える範囲に家永はいるのか。犯人がまだ近くにいるのか。これまで何度も早鐘を打ってきた心臓が、ここにきて疲労のピークに達しようとしていた。動悸で胸が痛くなり、手足から感触が消えかけている。

 見るだけだ。ここから外を覗き見して、犯人がいたら一目散に逃げよう。頼む、家永がまだ無事であってくれ。犯人が去った後であってくれ。

 息を止めて頭を少しずつ突き出し、屋上の様子を伺う。

 外は青白い朝の中に沈んでいた。日が出る直前の闇が死に絶える時間帯。上には空の青と雲の白が浮かんでいたが、山陰に隠れた大学に陽光が当たるにはまだ間があった。

 静かだった。山鳩の鳴く声も風の音もない。自分の鼓動だけが耳をうつ。あまりの静けさに、耳鳴りがするほど。

 屋上に人影はないかと、用心深く、さらに顔を出す。

 何も見えない。建物の影になって屋上の大部分が暗い。

 いや。おかしい。あんなところに影ができるような建造物はあっただろうか。ここは研究棟の屋上、それより高い建物など近くには……。

 その時、あやうく金属棒を取り落としそうになった。必死で掴みなおして、物音を立てずに済む。

 そして、俺は屋上へと足を踏み出した。呆然と、思考が吹き飛んだまま。


 流れ出た水に覆われて、屋上は一面の鏡張りとなって空を映していた。

 その水源である巨大な給水タンクの前に、黒くて巨大な何かがある。

 全体的な形状は球形に近い。その奥からクレーンのようなものが生え出し、周囲の床に先端を当てている。そのうちの一つが給水タンクを貫通していた。

 それは、なにかの機械、重機や実験装置ではなかった。

 それは金属ではなかった。

 黒く、ザラザラとした表面を、小さな棘のようなものが無数にびっしりと覆っている。

 それは人工物ではなかった。

 物体から生える長いものには、明らかな節があり、そこを関節として動くだろうと知れた。

 それは。俺の身長の二倍はあろうかというそれは。明らかに何らかの生物だった。

 巨大な、蜘蛛のような、硬い外骨格を持つ何か。

 俺は無言のまま、ただそれを見ていた。それが動いてこちらに動いてくるとは、微塵ほどにも思わなかった。

 やがて、俺の目に太陽の光が差し込んできて、その眩しさに目を細めた。

 日の出だ。

 朝日に照らされて、屋上の全てが明るみに出る。

 そうなってさえ、屋上に鎮座する物体はいささかも別の色に変わらなかった。光沢を返さぬ真の黒が、それを構成している要素であるかのように。

 そして夜明けの光がそれの一番上に投げかけられた時、はじめて、この静かな世界に変化が生じた。

 陽光に照らされた黒が、風の前の砂山のように、すみやかに微細な粒子となって霧散しはじめたのだ。それは太陽が昇るにつれて広まり、砕け散る黒は夏の空の中へ更に分解されて消えていった。

 それは時間にして一体どれほどの間の出来事だったのだろうか。

 朝日が全てを照らし出した時、後に残されたのは、立ちつくす俺と、排水溝から流れ消えていく大量の水と、そこに沈んだ金属製の棒のみ。

 家永の姿は、とうとう見つからなかった。


 その後のことについては、警察が知るとおりである。

 夏休みで誰もいないはずだったが、運よく警備員が朝の見回りをしていた総合事務へと駆け込んだ俺によって、事件が発覚する。第一発見者である俺は直後に倒れてしまったため、病院へ搬送されてしまい、警察が大学へ到着して以後のことを直接見てはいない。

 後から聞いた話では、第二実験室の遺体が山壁と宵満のものであると改めて確認がとれ、そして残された血痕の中から家永のDNAも見つかり、いまだ発見されていない第三の犠牲者として捜索が行われたという。

 犯人に関しては、実験室と屋上の扉を破壊した方法、山壁たちを惨殺した方法ともに謎が多く、今も特定できていない。依然として行方が分からない家永が容疑者として上がり、事情聴取の際に俺からも情報を得ようとしていたが、動機不十分で進展しなかった。いくらオカルトに傾倒していたとはいえ、それで同期生を二人も殺害するほど家永は狂っていなかったし、警察もそんなものが理由などと半信半疑の域を出なかった。

 ……事の顛末の、少なくとも最後だけを見た俺にとっては、そうした周囲の思考全てが虚しいものであると知っていた。知っていてなお、自分が見たものを誰かに話すことはできなかった。いったい、誰が信じるというのか。

 もし、信じるとしたら。それは消えた家永だけだろう。あいつだけは、この真実を受け止めてくれたはずだ。あるいは、そういう奴だったからこそ、この悲劇を招いたのかもしれない。

 家永たちは、自らが招いた何かによって殺された。

 あの夜、俺が去った後、彼らは第二実験室で何を行ったのだろう。あの装置が原因であることを俺は疑っていなかった。アレは実験室を破壊し、階段の途中で爪跡を残し、屋上で給水タンクに穴を開けた。だが、その他の工学部棟へ侵入する経路のどこにもそうした痕跡はなかった。あの大きさのものが外から入り込んだのなら、実験室や屋上の出入り口のように扉の一枚二枚が吹き飛んでいてしかるべきだろう。

 あれは、最初に第二実験室の中に現れたのだ。

 家永たちが作りあげたあの装置は、過去を覗き見るだけのものと言っていた。そうではなかったとしたら? あるいは文字通りの窓であり、そこから何かが這い出てくることが可能だったのだとしたら?

 あまりにも、馬鹿馬鹿しい考えだ。理系の人間がすべき発想ではない。それでも。俺は見てしまった。アレを。あんなもの、人間の科学で理解できるものではない。あまりにも未知すぎる、恐ろしい存在。

 これが全て仮眠明けの自分が見た夢であったのなら、どんなに良かったことだろう。

 そう切望しても、彼ら三人はもう戻ってこない。永遠に、闇の中に消えてしまった。


 ……以来、俺は夜の闇を恐れるようになった。

 陽光が照らし出さない暗黒の中には、人間が知るべきではない何かが潜んでいることを知ってしまった。闇に蠢き、鋭い爪をもって、俺たちを狩りにくる何かが。

 死体を目の当たりにしたショックで見た幻覚だ。そんなものが現実にあるわけがない。そう自分に何度言い聞かせたか。

 あるいは……怪異そのものは朝日によって滅びたのだ、もう何を恐れることがあろうか、と。

 だが。だが、どれだけ自分を騙そうとも、記憶は訴えかけてくる。あれは滅びてなどいない。あれはまだこの闇のどこかで身を潜めているだけなのだと。

 ああ、その記憶。俺が見たその光景が、ただの見間違えであったのなら……!

 ……俺は、見てしまった。

 太陽の清浄な光に照らされ、崩壊していく巨体。

 その背中に、大きな亀裂が走っていたことを。

 朝日と共に消え去ったものが、たんなる抜け殻にすぎなかったということを!

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