五 過去への回帰
金沢東部、医王山山麓の周辺で頻発していた器物破損の情報は、数日経つとぱったりと途絶えてしまった。ウェブページに表示される県内の報告一覧を一通りチェックし終えた俺は、そのページを閉じ、もう一つのページに目を通す。
ここ数日の間に見えざる何かは、富山県側に、明らかにその痕跡を表しはじめていた。
県境を越えて、紆余曲折を経ながら、そいつは東へと向かっている。その目的と目的地はわからないが、いずれは五箇山方面に行くだろうという予感がした。
その予感は、いささか奇妙でもあった。このまま東進すれば、富山平野の西部を構成する砺波平野に出るはずだ。五箇山をはじめとする富山県南西部の山地は、その南に位置しており、東進ルートの延長線上には無い。俺の予感というのはつまり、この何者かは平野部を避けて南回りに山間部を移動するはず、という直感めいたものだった。無論、根拠はない。あるとすれば、それは封じられた記憶の中だろう。
いかんせん、報道関連の情報だけでは判断材料が足りないと考えた俺は、他の情報サイトをあたってみることにした。クマの目撃情報。暴走族の取り締まり。地元の怪奇譚、恐怖体験を書き込む匿名掲示板。特に三番目には、幾つか気になる書き込みがされていた。
○
『半月ほど前、夜中に天井を誰かが歩き回っているような音がした。
屋根瓦を叩いているのか、カタ、カタという音が、三十分ぐらい聞こえていた気がする。
うちは山奥にある町の、他の家から離れた山林に近い場所に建っているので、また野生動物でも出たのかと思って、最初は放っておいた。
ところが突然、カァンという甲高い音と、何かが屋根から落下する音がしてきた。瓦を割られた! とすぐにわかって「このやろう!」と思わず上に向かって怒鳴ってやった。
それで逃げたのか、その夜、それ以上の物音はせず、自分も眠かったので外には出なかった。
翌朝、庭を見てみると案の定、真っ二つになった瓦が落ちていたので「やっぱり割られてたか……」と落ち込んだ。のだけれど、ふと、家の外壁を見てみると、大きな傷ができていた。
石か何かで引っかいたような、一メートルほどの痕。
昨晩、屋根に上った動物がつけたものだろうか。そう思ったあと、このあたりでこんな傷をつけられるやつといえば、ツキノワグマぐらいしかいないことに気がついた。
もし、怒りに任せて外に出ていたら……。そう考えると、背筋が寒くなった』
○
この書き込みをした投稿者の住所は不明だが、クマの目撃情報サイトに書かれていた、壁と屋根に痕跡があったという報告がされた家とその住人だろうか。
こうした書き込みは、他にもチラホラと見受けられた。山間の小さな町、山道の途中、交通量の少ない小さなトンネル。夜間あるいは陽の当たらない時間帯や場所での出来事ばかり。
そして。その全てが、痕跡を残した存在そのものを目にしていない。
見えざる何かが、東へ東へと移動し続けている。俺の記憶はそのことについて何も教えてはくれない。だが、心の奥底から湧き上がる声が、俺を糾弾する。
お前は見逃すのか。
俺は何を見逃している。
お前は見て見ぬふりをするのか。
俺は何から顔を背けようとしている。
お前は忘れたのか。
「俺は何を忘れたんだ……」
気づけば、そんな声が自然と口から垂れ流される。
この気持ちの悪い罪悪感はいったいなんだ。過去の俺はいったい、なにを犯したのだ。
俺は、まだ震えない手で電話番号を呼び出す。
理渡。あいつに、何かを伝えなければならない気がする。あの事件のことを探っていたあいつになら、この話をしてもいい。いや、しなくてはならないのかもしれない。
だが、呼び出し音はすぐに途切れ、録音された音声が冷たく希望を断つ。
『おかけになった電話番号は、現在、使われておりません。もう一度、電話番号をお確かめになって、おかけ直しください……』
予想できていた答えに対し、俺は無言で通話ボタンを切った。
そっちがその気なら、直接出向いて首根っこを掴まえてやる。
結論から言えば、俺は理渡どころか、船岡神社に辿りつくことすらできなかった。
そもそも、出発時にカーナビの目的地設定履歴から記録が見つからなかった時点で、気づくべきだったのかもしれない。いや、たとえ嫌な予感がしたとして、こんなことが果たして予測できたであろうか。
船岡神社は、影も形も消えうせていた。
「そんな馬鹿なことがあるか」
そうした呻き声を漏らす以外に、なせることは無かった。
小さいとはいえ、大きな民家ほどの敷地を持つ神社が、町中探し回っても見つけられないなど、明らかにおかしい。以前訪れた際に通った道には、見覚えが確かにあった。しかし途中で唐突に、見知らぬ街角に出てしまう。まるでよく似た別の町に来てしまったかのように。
駅員や警官、道行く人に尋ねてみても、誰もがそんな神社のことを知らないと言う。
鶴来船岡町の四六番地。手紙に書かれた住所すら、地図には記載されていない。
「……俺は夢でも見ていたのか」
あの、記憶を封じた日の出来事全てが、最初から白昼夢だったのだろうか。夢遊病じみた俺の妄想にすぎなかったというのか。
そもそも。理渡という人物は、実在したのか。
ほんの一ヶ月にも満たない間のことについて、俺は虚実の判断がつかなくなりそうだった。
鶴来から寮へと戻るまでの間、俺の心は窓の外に広がる夜景ほどの暗闇に沈んでいた。
俺の中にある封印の扉の隙間から、予感が訴えかけてくる。このままではいけない、と。山中を這いずり回る何かが、直接的な被害をもたらすかどうかは、いまだ表面化していない。だが予感は言う。いずれその時は来たると。
一方で、それについて少なくとも探りを入れていた理渡の姿は消えた。
全てが悪い方向へ転がりはじめている気がする。脅威のみが残り、望みだけが去っていく。否、理渡という望みは、もしかしたら精神的に追い詰められた俺の脳髄が生み出した、偽りの救世主だったのではないだろうか。始めから、救いも希望もなかったのかもしれない。
そうした暗い考えを続けているうちに、車は寮の駐車場へといつのまにか辿りついていた。自分の駐車スペースに車を停め、しかし車外に出る気力は残っていなかった。
だるさの残る身体を座席に預けつつ、数分が過ぎた頃。俺は、あることを思い出し、シートベルトを外して車外への扉を開けた。出る前に、後部トランクの開閉レバーを引いて。
車の後ろに回って、一瞬ためらった後、トランクを開く。駐車場の外灯が、中に収められていたものを照らし出す。
俺は、それを手に取った。確かに、ここに存在している感触が伝わってくる。
大学で理渡が残した、つば広の帽子。あいつに会いに行くついでに、返しておこうとトランクに放り込んでおいたもの。古い映画に出てきそうな、現実味のないデザインの帽子は、夜の闇の底でもくっきりと分かるほど、白色の光を返していた。
これは、これだけは、理渡という人物が存在したことを証明している。あいつは、俺の妄想の産物では、決してない。俺以外の人間には見えないのかもしれないし、俺にしても今はもう会うことすらできない。だが、あの女がこれを渡したという過去、理渡が実体を伴った人間であるという事実は、これ一つあれば実証できるのだ。
もしかすると、理渡が消える際にこれを俺に渡したのは、このためだったのではないだろうか。流石にそこまで考えるわけが、とは思うが、あいつならやりかねない気がした。
いずれにせよ、俺と理渡との線は、まだかろうじて繋がっている。あとは、それをどう辿っていくか。
この時、俺は一人静かに、決意を固めた。
理渡によって施された、記憶の封印を解くことを。
◇
理工学部研究棟一号館、工学部第二実験室。
ブルーシート一枚隔てた先に、その部屋はあった。
もうすぐ正午になろうかという時刻、中庭にいる人間は、俺一人だけ。ただでさえ夏休みの今、ひと気は何時間も絶えていた。
静かに目を閉じ、記憶を遡ろうとする。
夏休みに起きた事件について、その概要や人間関係を知ることは、さほど難しくは無かった。連日報道されていたからネットでニュースを拾い出すのは簡単だったし、友人知人に尋ねまわって、当時のことを聞き出すこともできた。第一発見者である俺自身がそんなことを聞いて周るというのもおかしな話だったが、「事件のショックが大きくて、大半のことを忘れてしまった」などと虚実入り混じりの説明をすれば、ほとんど疑われることはなかった。事実、それで精神を病んでいたのは誰もが知っていたのだから。
その日、この第二実験室内で発見されたのは、二人の遺体。
宵満敦、山壁日也。
さらに、残された血痕から、大量に出血していたことがわかった、一人の行方不明者。
家永守人。
いずれも工学部在籍の、俺と同じ大学四年生。
そして俺の友人達だった。
八月のある朝。俺が理工学部の総合事務室へ死人のような顔で駆け込み、「人が死んでいる」と告げたことから、事件が発覚する。
実験室内は竜巻が起きたかのように備品も机もバラバラになっており、その中でも特に二人の遺体は損傷が激しく、身体の一部が欠損していた。後になって現場から血痕が出てきた家永の消息ともども、今にいたるまで欠損部位は見つかっていないという。
警察は、犯人が実験室の扉を破壊して侵入し、中にいた学生を殺害、逃亡したと発表している。公式からわかることは、これぐらいだ。捜査は依然として進められているが、それ以上の情報は一ヶ月経っても何一つ公開されていない。おそらく何もわかっていないのだろう。
さらに人づてに尾ひれが加わった噂話同然の情報も聞いた。
いわく、実験室の壊された扉には、そもそも最初から鍵がかかっていなかったと。
いわく、今も行方を暗ませている家永こそが、他の二人を殺害した犯人だと。
いわく、犯人は気づかれることなく現在も学内で生活を続けていると。
その多くが根も葉もない風聞であることは、深く考えるまでも無く明らかだろう。これらはノイズのようなものだ。根拠に基づかないものを、考慮に入れてはならない。
俺は記憶の井戸の底へと降りていく。
家永たち三人とは、大学一年の頃には既にサークルを通して知り合いになっていた。学部が異なるのに知己を得ていたのは、そのためである。他にも何人か似たような連中はいたが、同じ工学部だったこともあって家永、宵満、山壁の三人は特に仲が良かった。俺はそこから一歩離れてはいたが、それでも親しい友人関係を築いていた。はずだ。
三人との思い出は、八月が近づくにつれて、虫食いのような空白が多くなっている。事件直前の一週間ほどになると、もう彼らと会っていたのかどうかさえ判断がつかない。お互いの活動範囲を照らし合わせれば、少なくとも学食で鉢合わせするぐらいの接触はあったはずだ。それさえ、今の俺の記憶野からは欠落していた。徹底的に、修正液で塗りつぶしたかのように。
理渡は言った。ここへ近づいてはならない。記憶を思い出すかもしれないから、と。だからこそ、記憶を取り戻すために、俺はこの事件現場へ来た。俺はかつて、ここで何かを見て、精神を病んでしまうほどの何かを知った。血と死体の海の中にあった、何かを。
幾度も幾度も、そうして記憶の海へとダイブする。だが、その試みは何度繰り返そうと、何らの収穫も得られないまま。空しく時間だけが過ぎていった。
やがて、昼休みを告げるチャイムが流れ出す。
午前いっぱいを使って、結局何も思い出せなかった。俺は徒労感のみを片手に持って、その場を一旦離れることにした。
「せっかく治ったのに、また元通りになりたがるなんざ、正気の沙汰じゃねぇだろ」
研究室に戻って自分の席でうなだれていると、坂井がそう言ってコーヒーを差し出してきた。お前は本当に気が利くいい奴だよ。ありがたくそれを受け取る。
「どうしても思い出さなきゃならないんだ」
「で、また一日の半分を犠牲にするつもりで?」
「アレが再発するかどうかは、わからない。精神的なものだし、今度は大丈夫かもしれない」
「俺にゃあ、危ない橋を叩かずに渡ろうとしてるようにしか見えんがね。嫌なことは忘れたままにしとこうや」
「忘れたのは……」本当の目的を話すわけにもいかず、俺は別の理由を口にする。「嫌な記憶だけじゃないさ。死んでいった奴らは、俺の友達だった。困ったことに、あいつらとの思い出も、かなり削られているんだ。せめて死ぬ前のあいつらの顔ぐらいは、覚えておきたくて」
「ああ、そうか」
坂井はそれだけ言って、自分のコーヒーカップの中身を言葉ごと飲み込んだ。
俺が今言ったことは、誤魔化すための嘘ではない。家永達とは数年来の友人だったし、故人との最後の思い出くらいは覚えておきたかった。
同時に、その記憶の一かけらにすら、暗黒への道が潜んでいることも予感していたが。
「坂井、お前は何か知らないか。噂話でもいい、何でもいいんだ」
「知ってるのはあらかた言ったぜ。あん時は理工学部棟全体が警察に封鎖されてて野次馬もできなかったからな。聞いた話じゃ、警察が隠す前には、事件現場の窓ガラスに血がべったりついてるのが外側から見えてたってよ。でもそれも俺が見た時にはブルーシートで隠されてたんだよなぁ。だから俺自身はまったく何も見てねぇんだ」
「なあ、俺は事件当時、すぐ大学病院に連れて行かれたらしいから知らないんだが。ここ全体が封鎖されていたのか? あの実験室だけじゃなくて?」
坂井はパソコンでネットの検索エンジンを開き、事件についてのページを呼び出す。
「警察発表じゃ、犯人は二人を殺害した後、研究棟屋上で給水タンクを破壊してから逃走したってある。なもんで、逃走経路を調べるために全部封鎖したんじゃね。事件のあった一号館だけでも広い上に、そこへ入る経路は本館側と中庭側と裏の駐車場側、それに図書館とこの二号館からの渡り廊下と、色々あるからなぁ。警察も大変だよこりゃ」
「給水タンク、あれが原因か……」
「これのせいで研究棟の上は浸水が酷かったらしいぜ。警察は何らかの証拠隠滅のためじゃないかとか考えてるらしいけど。返り血でも洗い流すつもりだったんかね」
「屋上まで行かなくとも、各階にトイレはあるだろうに」
「な。おまけに階段のすぐ近くに。こいつひょっとしてエレベーターで移動したんじゃね?」
「かもな」
もっとも、本当に返り血を洗うために破壊したのではないだろうが。
「屋上から先の足取りはわかってないか」
「わかってないっぽいね。てことはだ、犯人は屋上から忍者よろしくロープか何かで地上まで降りてそのまま逃走、と」
「刑事ドラマの見すぎじゃないか?」
「俺がか? 犯人がか?」
「さあな。もしそうだとしたら、犯人はうまいことやりやがったよ」
なにしろ何ヶ月も犯人を特定できていないということは、証拠をほとんど残さなかったということだ。警察も無能ではあるまい。ここまで大きな事件、普通なら靴跡の一つくらい見つかっていても良いはずだろう。
相手がただの人間ならば。
そう口に出しかけて、俺は自重する。まだそうだと決まったわけではない。そうだろうという予感はあるが、予感だけで憶測を立ててはいけない。
「とにかく今必要なのは、事件の真相じゃない。俺の記憶が戻るきっかけだ」
「そのきっかけになりそうなのは何よ」
「さあ、それが分かれば苦労しないんだが……」
理渡が言うほど、俺に施された封印はやわなものではないようだった。あいつは場所に近づいただけで記憶が戻るというようなことを言っていた気がするが、今のところまったくそんな気配はない。おぼろげなデジャヴめいた感覚はするものの、明確な思い出としては蘇ってこない。もっと強い何かが、ショックのようなものが必要に思えた。
無自覚にうなだれ、頭を抱えている俺を見ながら、坂井は溜め息をつく。
「無理して思い出すのやめようぜ。そのうちなんかの拍子に出てくるもんだって、こういうのはさ。無くし物ってのは忘れた頃に机の裏あたりで見つかるだろ、それと同じ同じ」
坂井にとっては気づかいなのだろうが、時間が無い俺にとっては無責任な言葉に感じる。時間が無い? また予感だ。ええい、忌々しい。
ともあれ、今のところ手も足も出ない状況であることは認めざるを得ない。こう煮詰まってしまっては、一度思考を仕切りなおしたほうが良さそうだ。
「……そうだな。今日はここまでにしておこう。午後からは文献もさらっておきたいし」
「お前、論文翻訳は終わってなかったっけ? 新しいのでも引っ張ってきたの」
「前に使った北海道の論文、今年のバージョンが出てたんだよ。夏からこっち死んでたから今まで確認できなくて。念のため、読んでおこうかと」
「先生には見せた?」
「まだだ。印刷は終わっているから、あとは先生に渡して読んでもらうだけだ。OKが出たら参考文献追加もう一つ、と。今、先生は昼食かな」
「さっき俺、学食で見かけたけど、俺より早く戻ってたぜ。居室には?」
「来る時に覗いてみたが、電気が消えていたし不在のようだ」
「ならタバコじゃね。中庭か屋上か……」坂井は窓から下を覗き込む。「……中庭にはいねぇな。じゃあ屋上だ」
「そうか。それじゃ戻るまで待つとしよう」
それにしても面倒事が重なるものだ。大学四年の忙しい時期に加えて、夏の事件に、俺の記憶に封じられた何かにまつわる恐れ。先行きが不安になる。
坂井とこうして冗談混じりの会話を交わしただけで、そうした暗い気分が多少は晴れたのは、小さな幸いだ。かつて家永達と馬鹿な会話をしていた時も、こんな感じだったのだろうか。
ともあれ、印刷した論文をホチキス止めにしなければ。このページ数だと事務室にある大きなホチキスでなければ針が貫通しない。今のうちに行っておくか。そう思って椅子から立ち上がった俺に対し、坂井は首をひねった。
「なあ真舘。そういやお前、ここ最近屋上には行かねぇな」
「……? そうか?」
「だって中庭でタバコ休憩してるのには行くのに、屋上の時は来ねぇじゃん」
「そうか……」
「まあ、今はまだ暑いし屋上は地獄だからなぁ。景色と風は気持ち良いんだけども。なあ真舘。おい。真舘? どうした? おーい」
坂井の声を背中に受けて、俺は足早に研究室を出た。
階段を昇る。途中で降りてくる先生と擦れ違ったが、軽い会釈だけをして上を目指す。
壁に書かれた階数が増えるたび、足が重くなる。体力はまだまだ疲労を知らないのに、足の骨が震えだして歩みを邪魔する。
ぴちゃり、ぴちゃりという聞こえぬ音が耳に響いていく。何度も何度も、靴が何かを跳ね飛ばしていないかと気になるが、蛍光灯を照り返す階段の上には水溜りなどどこにもない。
途中で、壁に手をつきながらでなければ進めないほど、身体中が石灰化したかのようにぎこちない動きになった。鼓動は静かに不安定な脈を打ち、冷たい汗が脊髄を滴り落ちていく。手すりに掴まることはできない。手すりはもう無いのだ。いや、まだある。今は違う、あの時とは違う。
めまいと吐き気に負けそうになりながら、とうとう、最後の扉の前まで至った。ガチガチと二重三重にブレる左手でドアノブを回し、倒れかかるように扉へ全体重を乗せて開いていく。
そして俺は、屋上へと出た。
額に溜まった汗の粒を、秋の風が撫でていく。
昼休みも終わりに近い今、だだっ広い屋上に人影はない。
誰かが備え付けたベンチと灰皿のスタンドだけが、無機質な空間の中に唯一ある人間の世界を形成していた。風に乗って、ほのかにタバコと灰の香りが鼻腔をくすぐる。
俺は、そうした風景を一通り見た後、視線を横に動かした。俺が今いる二号館の隣、工学部がある一号館の、その屋上を。
三号まである研究棟は、全て同じデザインで設計・建設された。だから、今俺が見た景色は、あそこと同じはず。かつて見たものと、同じはず。
俺は、それ以上は一歩も進めなかった。扉を出てまっすぐ歩けば、そこには巨大な給水タンクが二つ鎮座している。俺はその方向には進めなかった。
ここだ。ここではないが、ここだ。
ここで、見てしまった。
無数の破片で埋もれた実験室ではなかった。黒く変色した赤にまみれた死体などではなかった。本当に恐ろしいものを見たのは、ここ。だからこそ、俺は、俺は夜を、太陽の光が届かぬ闇を怖れるようになったのだ。アレがここにいたから。アレがここで。
アレとは何か。
記憶がまだ戻らない。思い出せない。思い出してはならない。思考と本能がせめぎ合い、脳の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
だが、その勝負は本能が敗北した。肝心の記憶は思い出せなかったが、それに至るための道は戻ってきた。俺がここを去った後、どこへ向かったのかという記憶が。
腹の中のものがごっそり地べたにぶちまけられたように感じながら、俺は屋上を後にした。
研究室で学生のために用意されるものとして、個人用の机と棚の他に、荷物や実験用白衣を入れておけるロッカーがある。それは四年生の俺にとっても例外ではない。
防犯のための鍵はもちろんあるが、盗まれるようなものなど無く、また互いに足りない用具や教科書の貸し借りを円滑にするため、常に施錠を心がけている者はそれほど多くない。
俺は、その多くない者の一人だった。だがそれが何故だったかは、俺自身忘れ果てていた。忘れたところで、取り出す物もなく、その扉を開ける機会はなかったのだが。
何故、忘れていたのだろう。
日が暮れて、誰もが家路についた後。俺は、自分のロッカーの前で、そう自問した。
ポケットから鍵を取り出し、数ヶ月ぶりに鍵穴へと差し込む。
錆び付いた開錠の音を聞いた後、その扉を開く。
ロッカーの底には、教科書やプリントが雑多に詰め込まれていた。その一番上に乗っていたものが、あまりの不安定さに、ドサドサと俺の足元へと落ちる。
そうした無秩序ぶりの中から、それが顔をのぞかせていた。
俺は手を伸ばし、埋もれていたものを掘り起こす。
埃まみれの袋。手に持つと、ずっしりとした重みが伝わってくる。袋の布地を引っ張れば、中には直方体状の――そう、それは大きな本の形の――ものが入っていると、簡単に知れた。
中身を確かめることを、俺はしなかった。もう、その必要はなかった。
恐怖は蘇った。怖れは戻った。
膝を折って、床に崩れ落ちる。凄惨な死と、おぞましい闇と、己の罪深さに、俺は恐怖し、おののき、震えた。歯がカチカチと音を鳴らし、血液は体表の毛細血管から姿を消した。
不意に。ズボンのポケットから、着信を告げる電子音が、無人の研究室に鳴り渡った。
俺は番号を確かめることもせず、通話ボタンを押し、耳に押し当てる。
『そう』
冷たい声が、哀れみのような響きと共に、独り言のような言葉を発した。
『思い出して、しまったのね』
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