黒い影 2

 シツとケンは、世界の中枢である中央本局に帰還した。

 そこは東町とは比べものにならないサイズの町だ。中央本局は年中春のような気候で、そこに降り注ぐ太陽光が植物たちを生き生きと輝かせている。

 畑に育っている摩訶不思議な野菜に水を与えている若い女がいた。彼女はシツの姿を目に留めると大きく手を振って彼を出迎えた。手入れされたブラウンの髪が美しい輝きを放っている。

「シツさん、お帰りなさい」

 ふんわりとした春の香りが彼女から漂う。瞳を輝かせる彼女につられて、シツも笑う。

「ただいま」

 彼女は真面目な顔を作ろうとしては、失敗して、を何度も繰り返している。よほど重大で、彼女にとっては嬉しいことがあったに違いない。

「何があったのですか」

 ケンが彼女を急かした。

「北町の神が……お触れを出したのよ」

 このような外でなければ叫んで走り出したいくらい、彼女は歓喜していた。

 それと反対にシツの顔は沈む。太陽が雲に隠されて、町に影を落とした。

「一体、どのような」

 その先は聞かずともわかる、とシツの空気は語っていた。目元が僅かに歪んでいる。

「東への道を一時的ではあるけれど、一般に解放するとのこと」

 嫌な予感は的中した。ケンは絶望に等しい感情を面に乗せ、頭を垂れた。

「なぜ、落ち込むの? 良い事じゃない。閉鎖的な規則の突破口になるもの」

「ハナ、それは違う。四年前の事件を忘れたわけではないだろう」

 ハナの細い足が、緊張で硬直した。

「あれが今回のことに関係していると?」

 彼女の曖昧な反応に、ケンは憤りを隠せない。

「そうですよ! シツ様のお考えは今日、正しいと証明されたのです。東町にはあいつ、デビがいたのですから」

 それを耳にすると、ハナの浮かれた気分は一変した。それはあまりにも信じ難いことである。四年前に殺されたと言われていた彼が生きているだなんて、シツが一人で喚いていた虚言なのだと思っていたからだ。

「で、では、東への通路が開いたのは」

 その先をシツは神妙な面もちで引き継ぐ。

「恐らく……復讐だ」

 彼女は全身の力が抜けたように、膝から崩れ落ちた。町に溢れる切羽詰まった空気が、やっと彼女にも届いたらしい。

 シツはハナに対して、本局勤めの神失格だ、などとは思わなかった。彼女が北町のお触れを聞いて真っ先に思い浮かべるのは我が子のことだからだ。

 幸い彼女の子供は東町で安全に暮らしてはいるが、父親とは顔を合わせずに離れて暮らすことを義務づけられている。親子という存在が東町では異色だからだ。新人はもちろん、そこに住む全ての住民には親がいない。もしも発見されれば、子供は親から引き剥がされてしまう。それならば、気づかれないように町の端と端に別れて暮らすのが最適である。これが東町のやり方だった。

 北町のお触れはそういった制度を飛び越える権力を持っている。しかし、規則に反すると神であっても影鬼に殺されかねない。

(今回は影鬼ようきが容認したってことか)

 血が出るほどに唇を噛みしめる。シツにとって彼ほどに怖い存在はなかった。それは神である誰もがそうだ。

「ケン、行こうか。あいつが呼んでいる」

「あ、はい!」

 シツはハナに別れを言うと、影鬼のいる中心部に向かった。

 中心部は巨大な繭のような建物だ。それを憎々しげにシツは見つめた。


 繭の中に消えていく二人をハナは苦しげに見送った。

 シツという男は強い。しかし彼は、人間の住む町に直接手を出さないだろう。地球でも、彼だけが支配対象――別名トーイの運命を流れに任せていた。対象がどんなに危険な目に遭おうとも、放って置いていた。悪く言うと放棄だ。神としての職務を果たしていなかった。

 しかし、彼には他の神にない力がある。それがどんな力かはわからないが、彼は一番影鬼に近いとされている。

 多くの神々が彼の協力者となってこの世界になだれ込んできたとき、その大きな波に紛れて、彼は四年前にここに来るはずだった。実際はそうはいかなかったのだけれど……。

 ハナは立ち上がって、野菜に水をやり始めた。彼女の顔には暗影が落ちている。周囲の喧噪と切り離されたかのように、ハナは水を与え続ける。ただ、我が子の無事を祈って。



 鳥の鳴き声と時計塔の鐘が揺れる早朝、つばきは目を覚ました。目に飛び込んでくる天井のショッキングパープル。次に、ロゼットとヴァイオラ。

「おはよう」

 つばきはゴワゴワの布団から這い出て、綺麗におり畳んでおいたマントに手を伸ばした。彼女のか細く痛々しい手がそれを掴み、手元に引き寄せた。

 相当冷え込んでいる。吐く息が白くなって、つばきは体を震わせた。彼女の着ている服と言えばティーシャツとスカートだけで、マントがなければ凍え死んでいるだろう。

 ロゼットは行儀良くお座りしてご飯を待っている。ヴァイオラはご飯の袋をつついてはこちらを見て、早く! と言っている。

 つばきはマントを羽織り、早速二匹にご飯をあげた。夢中で手のひらのフードをがっつく二匹の首輪が、喉元を締め上げて窮屈そうに見えた。食べるときくらいはつけなくても良いかな、と二匹が食べ終わるのを見計らって、ロゼットの首輪を外した。途端にロゼットは縮こまった。つばきにすり寄って、マントの中に一生懸命入ろうとする。

(震えてる!)

 小刻みに動く小さな体を抱きながら、つばきは、あっと声を漏らした。

(この首輪……もしかして)

 ロゼットを体から引っ剥がして、首輪を装着してやると、途端に大人しくなった。

 その首輪はシツからの贈り物であったのだ。名前が書いてあるからてっきり元々付いていたのかと思っていた。

「寒かったね」

 二匹にご飯を与え終わると、つばきは顔と歯を丁寧に洗った。

 時刻は六時。まだまだ登校の時間ではないが、日用品を買いに行くには今がチャンスであろう。この世界の相場を見ておくのも大切だ。

 家を出て、鍵を閉める。

 寮内は真っ暗だった。微弱な水源の光が淡く天井付近を照らしている。それらを明るくすると、一気に昼間のようになった。

 エレベーターで階下へ下りる。一階はドアから差し込む偽物の太陽光が漏れてきていて、多少明るかった。

 静まりかえっている寮を後に、賑わう通りへ出た。靴屋や飲食店などが立ち並んでいる。

 見る限りそこにいるほとんどの人が右胸にバッジをつけている。学生が多いようだった。

 つばきはその通りを、川を左手に奥へ奥へと進んでいく。歩きながら見つけた食器店ではお皿を数枚、三分の二枚で購入し、他に、長袖を三分の一枚で追加した。そこでわかったのは、耐久消費財は高く値が付くということだった。反対に食べ物などは安上がりである。

 両手に袋を抱え、学校に隣接している店の前でつばきは立ち止まった。道は時計塔と店の二手に分かれて延びている。彼女は迷わず店の方へと体を向けた。

 ガラス張りの向こうには大小様々の剣が並んでいる。壁に掛けられているもの、台に置かれているもの、傘のように立てられているもの。短剣から長剣、片手剣、両手剣、刀のようなものまで、よりどりみどりである。

 カウンターには店の主人だろう、若い青年が一人立っている。白い肌に栄える光沢のある黒髪に、燃えるような赤い瞳が印象的だ。顔立ちは何とも言えず、どこの出身かは皆目見当がつかない。色々な血が混ざっている、という一言では表しきれないほど人間離れした容姿である。絵に描いたように整った目鼻立ち、さらさらの黒髪、すらりとした体型にバランスのとれた頭身。容姿端麗といって間違いない。

 つばきは、しばし彼を見つめた。伏せられた瞳が心なしか寂しげである。店内に一人佇む青年の姿は強い喪失感をつばきに与えた。

 突然青年と目が合った。数メートルの距離で互いに見つめ合う。青年の表情は一切変わることなく、しばらくすると興味を失ったかのようにまた瞼を伏せた。つばきはそこで我に返って、踵を返した。来た道を足早に辿り、寮付近までわき目もふらなかった。

 寮内に入ってもまだ、動悸は収まらなかった。赤い瞳が脳裏にありありと蘇り、そのたびに頭を振ってかき消した。彼の瞳は針のように冷たく、マグマのように燃えていた。それがつばきの心を乱し、不安を掻き立てる。

 彼女はエレベーターのボタンを何度も押した。早く彼の瞳を忘れてしまいたかった。


 九時を少し過ぎた頃、遅れてテオが教室に入ってきた。生徒たちに驚きの表情が広がる。テオの後ろから教室に入ってきたのは黒服の二人だった。黒いサングラスにスーツ、白いマスクという一風変わった出で立ちの男たちは躊躇い無くテオの両サイドに腰を落ち着けた。テオはぶすっと下を向く。戸惑う生徒たちにミランダが説明する。

「今日からテオの護衛を勤める北町のボディーガード専門の方です」

 彼女は、にこやかに彼らに頭を下げた。

「何のための護衛ですか」

 生徒の一人が興味津々に訊ねた。

「それは秘密。他の皆も深い詮索は慎んでね」

 つばきは座高の高い二人のせいで電子パネルが見えなかった。廊下側に寄れるだけ寄って、やっと視界が開ける。

「授業を始めるよ。今日は町民証の役割を最初に話してから、今日から十一月いっぱいまでのどこかの日に北町見学を入れる予定だからそのことについて話すね。じゃあ、パネルを見て」

 生徒の大半はそわそわと落ち着きがない。頻りに後ろを振り返っては、黒服の二人を観察している。小さな教室に彼らは酷く馴染めていなかった。

「町民証っていうのは身分証みたいなものよ。この町の住人ですって証ね。これがないと結構不便なの。まず関所から町を出る場合、これが必要よ」

 パネルには青で長方形のカードが映されている。それは全くの無地で、模様一つ名前一つとして書かれていない。

「これは指紋で持ち主がわかるカードなの。本人が触ると赤く変色するわ」

 ミランダはスーツの懐から、爪で摘むように町民証を取り出した。そして、親指と人差し指でカードを挟み込む。彼女の触れた部分からインクが滲むように青が赤に変わっていく。

「すげえ」

 誰かが声を漏らした。

「どこかに落としたりしても、盗まれる可能性は無いって事よ」

「無くしたら再発行って出来るんですか」

 女生徒が挙手して言った。

「出来るわ。ただし、自分の身分を証明できる町役人を時計塔へ一緒に連れて行かなければならないの。そこで町民として認められれば発行してもらえるわ。落とし物は時計塔に届けられることもあるのよ。そこを確認して見つかればラッキーね。まあ落とさないのが一番よ」

 町民証をしまって、ミランダが教室を見渡す。

「町民証を持たない人は不法者と呼ばれ、それだけで犯罪者扱いをされるの。ここで確認しておきたいのが、いつどこでこのカードが必要になるのかってことね。さっき言った関所はオッケーね」

 パネルには時計塔が映される。天辺が空に刺さりそうである。

「まずは、ここ。時計塔で買い物をする場合、何かの手続きを行う場合」

 次に学校前の病院と、時計塔付近の病院が表示される。

「あとは病院。診察を受けるときに窓口で必要になるわ。怪我とか病気の場合は学校前の病院に行くことね。時計塔のところは主に妊婦の方が通うところになってるの」

 香坂が手早くメモ帳に書き込んでいく。

「最後に、住居の登録をする時ね。寮と商人専用の宿は除外されているけど」

 ミランダはパネルを停止させた。生徒たちの理解が追いついているとわかると、ちらっとスーツの男たちを見る。北町の人間が東町の授業を受けているだなんて、生徒たちが新人でなければ成り立たないことである。常識がまだ定着していないからこそ、ちょっと気にする程度で済んでいるのだ。ミランダからしてみればこの事態は由々しきものである。

「北町見学について。まずはじめに言っておくと、通常他町には、ある程度の身分がない限り行くことは出来ないの。ましてや、国家員しか今まで行けなかった北との道が一般に解放されるというのは他に事例がないことよ。だからどんなことが起こるか見当がつかない。勝手な行動はしないと約束してくれるわね」

 テオは居心地悪そうに身じろぎする。

「今日話しておきたいことは、東国での町間関係についてよ。東西南北にある四つの町。それぞれ思想や文化が大きく異なるわ。まずはここ。東町は中立の町って呼ばれているわ。なぜか。答えは簡単、どの組織にも入っていないからね。組織といっても実体はないの。それこそ思想レベルの話よ。神を信仰するか否か。東町には信仰する人もいれば、信じてさえいない人もいる。だから中立なの。北はもちろん信仰している。西と南はしていない。大きく分けるとこんな感じね。はい、ここまでで質問」

 メモを必死に取っていた香坂の手が挙がる。

「信仰しているかしていないかなんて曖昧なもの、どうやって判断しているのですか」

 つばきもそこは疑問だった。

「んー難しい質問ね。まあ、その町の空気で大体はわかるよ。ここに住んでいれば中立だなあって思うことがあるわ。きっと北に行けば信仰心が熱い人ばかりで嫌になってしまうと思うの」

 ミランダの発言に黒服の男たちが肩をこわばらせる。しかし何も言わない。

「空気? そんなもので町間の亀裂が生じているのですか」

 ミランダがきょとんと首を傾げる。

「亀裂があるだなんて言ってないわ。確かに、個人間での問題はあるけどね」

 香坂は不満げに押し黙った。

「質問は以上ね? じゃあ次にさっき美空の言った個人間での不満や偏見について。直球に言ってしまうと、東町に暮らす人たちのほぼ全員が北町をよく思っていないわ。理由はいくつか挙げられるけど、代表的なのが子供の問題なの。ここで産まれた子供たちは東町と北町の国家員によって北南に送られる。それに反感を覚えている町民は少なくないの。そして、北町の人間。これは噂の範疇に過ぎないけど、神を信仰しない人間を蛮人と呼び見下している、と」

 ミランダの視線が男たちに向けられた。彼らの表情はサングラスとマスクの下に隠されていて読みとることが出来ない。しばし沈黙があった。そして、テオの右側に座る男が深い溜息をついて、重たく口を開いた。男の声は嗄れている。

「そういう人もいる」

 左の男はおい、と右の男を小突く。

 ミランダの瞳は怒りを帯びていた。

「このように、町同士は友好的であってもそこに暮らす住人同士には溝があるってことよ。でも、これはお互い様ね」

 彼女の口調には皮肉な響き一つとしてなかった。

「次は常識について。北の人間と東の人間には格差があるのね。さっき他町に行くときには色々手続きが必要だと言ったけど、そこには例外があるの。北の国家員ならば自由に町を行き来できるっていうね。東の国家員だと精々子供を届けるときに北か南に行くくらいで、その他の用事では基本外出は許されていないわ。でも、北町の国家員なら旅行に行く、という言葉一つで他町に行けるの」

 確認するように男へミランダが目を向ける。二人とも小さく頷いた。

「まあそんな感じで色々面倒なのよ。だから見学だーってはしゃいだりしないこと。あくまで北町を見極めるつもりで行くこと。いいわね?」

 数人が頷く。

「じゃあ休憩を挟んだ後、十分後に町民証を作りに行くから、ここで待機しておくこと!」

 ミランダがチャイムとともに教室から出ていった後も、そこはシンと静まりかえっていた。膨大な量の常識が頭の中で渦を巻いて、整理には皆一様に時間がかかりそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神々の支配する世界 黒井 鳩 @sprinkleryou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ