川の中に
宿を出たつばきたちは、アレックスの後ろをゆったりと歩きながら談笑していた。
「わお! 美空って二十六歳なんだ。そうは見えないな」
香坂は苦笑して、首を振る。
「案内人が言ってたことを信用するなら、ね。自分でも疑わしいわ」
宿の前の交易所では、商人たちが物を売っていた。アレックスはそこを避けるように水源に沿って歩く。商人たちを視界に入れないようにか、若干右を向いている。
水源の川は横幅十メートル程あり、要所に吊り橋が架かっている。その向こうには果樹園が広がっていて、果物の甘い香りが川向こうから漂ってきていた。
「あれはリンゴね」
香坂が嬉しそうに言った。大きな赤い球体が光を浴びて光っている。さっき食べたばかりだというのに、トニーの目は果物に釘付けだった。
アレックスが吊り橋を渡り始める。トニーが橋の下を見て、首を傾げた。
「この川、流れがないよ」
見た目は、川と言うより池を細長くした感じだ。水面が波打つ様子は無く、そこに浮かぶ葉っぱなどは風に揺れる程度に動くだけだった。
「その水源の川では泳がない方が良いよ。水源は水にもなるし、それ以外の危険な物にも変わる。飛び込んで泳いだりしたら自殺行為だからね」
トニーはアレックスを恐ろしげに見た。彼は飛び込もうかどうか悩んでいる最中だったのだ。
彼はこの世界に来てからというもの、お風呂には入りたくてたまらなかった。なにせ、湿度が高すぎる。フランスの冬とは大きく違っていた。
吊り橋を渡りきると、病院らしき建物の後ろに牧場が見えてきた。草は一本も生えていない。牛たちは放牧され、思い思いの場所に座っていたり、桶に溜められた水を飲むなどしている。
牧場の隅に備えられた牛小屋から、アレックスたちに手を振る大きな影が見える。彼の知り合いだろう。アレックスも手を伸ばして挨拶する。
「彼は牧場主のアラン」
遠目でもアランが、がっしりとした体躯をしているのがわかる。
牧場を通り過ぎて店が立ち並ぶ通りに出た。門付近にある飲食店とは違って、日用品などを売る店が多く見られた。衣服やシャンプー、家具や家電まで色々揃っている。
その通りの脇には巨大な建造物がある。三人はその大きさに圧倒され、思わず声を漏らした。その建物は全高二百メートルくらいあると思われた。
「見て!」
建物の奥には、それよりも一回り、二回りもサイズの違うものがあった。香坂はそれを指さして、顔を引き攣らせた。
「ちょっと大き過ぎよね」
彼女の言うとおり、その頭は空近くまで延びており、遠くに見える塔より少し低いかな、という程度である。
「でも階数は寮と同じだよ」
「寮って?」
トニーが、これ? と手前のそれを見た。アレックスは頷いて、その後ろは学校だよと言った。
「これが、学校ですって?」
学校ではなくビルの間違いでは? と彼女の瞳は語っていた。
つばきはそれらに隣接する道場のような出で立ちの小屋が気になっていた。小屋のような見た目ではあるが、規模は寮と同等か、それ以上だ。
「つばき、あれが気になるの?」
アレックスが彼女の視線の先にある木造のそれを見た。
「はい。あれは?」
「剣道場だよ。この町では剣術が習えるんだ。興味があるなら後で行ってみるといい」
「剣って、竹刀?」
「それもあるけど、真剣もあるよ」
香坂が感嘆の声を漏らした。
つばきが道場に近づこうとしたそのとき、学校の方から五人、生徒らしき人影が飛び出してきた。靴も履かずに彼らは迷わず牧場めがけて走っていく。通り過ぎた彼らの形相はひどく切迫していた。
「あれは?」
「治安部事件調査局見習いの生徒だよ。彼らが出向くって事は、たぶんまた誰かが殺されたんだ」
彼の声音に怯えが混じる。
「人が? この世界でもそういうことはあるのね」
「人間が共存する場所に人殺しがいないわけないだろう」
ブルブルとトニーが震えて、香坂の影に隠れた。彼女はそれを嫌々受け入れる。
「こんな朝に大胆な犯行ね」
「それが一番怖い。今まで起こったそういう事件の犯人は誰一人として捕まっていないんだ。カメラが正常に機能しなかったり、明らかに他殺の現場を捉えていても肝心の犯人が見えなかったりする。透明人間の仕業だって……言う奴もいる」
彼は生徒たちが走り去った方向を暗い瞳で見つめて言った。事件の被害者への哀れみという感じではなく、まるで当事者かのような話しぶりだった。次に狙われるのが自分であっても可笑しくないと臭わせる言い方だった。
つばきは、牧草地の横に流れる水源の川と、それをのぞき込む生徒たちの姿を捉えた。五百メートル先のその光景をじっと見つめる。彼らの表情は、何かを認識すると青ざめた。尻餅をついて泣きべそをかくやつもいる。彼女には彼らの恐怖する声がよく聞こえていた。
学校で使用される制服、というのは厳密にいうと服ではなかった。東町の学校では学年ごとに色違いのバッジをつけるのだ。初等部は黄色、中等部は青、高等部は赤だ。その色には意味があるのだが、諸説あるためどれが真実か定かではない。
つばき、香坂、トニーは青のバッジをもらって、各々右胸に付けた。
「学校は朝九時から。教室は九階の廊下に書いてある。えーっと、寮は十一階から十九階までで空いてるところならどこ使っても良いって。何号室にしたかは一階の一番大きい家に住んでる人に伝えておくこと。つばき、一号室に君のペットがいるから後で向かえに来て」
アレックスが早口で捲くし立てるので、トニーは混乱してしまった。
「そんなに一気に覚えられないよ!」
「大丈夫よ。メモしたから」
香坂の機転に、彼はほっと息をつく。
「あの、ロゼットとヴァイオラは……今向かえに行ってもいいですか?」
「いいよ。じゃあついでに寮の説明するからトニー、美空ついてきて」
目前の寮に目を移し、アレックスは気持ちを切り替えた。
「そういえば、さっき一階の一番大きい家って言わなかった?」
「言ったよ。まあ、違和感があるだろうけど見ればわかる」
彼は空を鬱陶しそうに見上げて、大きく溜息をついた。また一つ命が消えた、憂鬱な朝だった。
寮の自動ドアを通り、中へ入った途端に香坂が信じられない! と叫んだ。
寮の中はいわば集合住宅だった。一つの大きなフロアに、屋根付きの小さな家が数えて十ある。規則的に並んではいるものの、その外観は物によって大きく違い、派手な赤ペンキの家から、コンクリートで出来た無機質な家まで様々だ。中央にある家が特別大きい。
寮の中には窓が一つとして無い。周囲をコンクリートで固められていて、天井に小さく灯る水源の光だけが頼りだった。しかしその水源も念じなければ淡く光る程度なので、普段寮内はほぼ暗闇の中なのだろう。
つばきは意識を天井へと向けて、明かりを強くした。数十個ある水源の電球がいきなり強く発光したので、香坂は驚いて天井を見上げる。
いくつもの家がはっきりと認識できるようになると、その奇妙な光景に呆然とするしかなかった。
「なんで家があるのよ」
「僕に聞いても答えは返ってこないよ。この建物はもうずっと昔に作られたものだから。この世界の枠が出来て建物が生まれ、水源と資源の泉が湧いて、門が町を守るように現れた。そして人がやってきた。歴史書の冒頭にはこう書かれている」
「意味が分からないわ」
その妙竹林な建物を人間が造ろうと思えば、どれくらいの歳月が必要か見当もつかない。一階ごとに十軒個性的な家があり、それが三十階まで続いているのだ。大型の機械一つ無い世界では、仕上げるのは至難の業である。
アレックスはそんなことには興味がない、というように香坂の言葉を真剣に捉えようとしなかった。誰も知り得ないことをどうやって調べるのか、無駄なことは止せ。彼はそう思っているのだ。
「一号室は僕の部屋だ」
手前の一番左にある青いシンプルな家がそれだった。長方形の箱のような外観で、コンクリート壁をいい加減に塗りたくった代物だった。牢獄のようにも見えるそれについている重たげな引き戸を、アレックスは引いた。ドアのスペースを取らないように工夫された結果なのだろう。それが不自然に見えないのは全ての部屋、いや、家が引き戸であるからか。とにかく、引き戸の金属取っ手はそこにあるべき物のように思えた。
戸が音もなくスライドし、中からロゼットとヴァイオラが出てきた。二匹はつばきを見るなり駆け寄って、全身を彼女の足に擦りつけた。
「ロゼット、ヴァイオラ」
つばきは、まるで自分の半身が帰ってきたかのように思った。
ドアを再度閉め、アレックスは二匹を嫌そうに見る。足元をうろつく小さな物体を過剰に避けて、彼はほっと息をついた。
「君たちはエレベーターに乗って十一階から二十階までを見てくるといいよ。空き部屋には名札がついてないから、決めたときには名札を何でも良いから入れておいて。僕はここで待ってるから」
アレックスはそう言うと自室に引っ込んだ。残された三人は部屋を探しにエレベーターへと乗り込む。
寮には階段とエレベーターがあり、初等部の生徒はエレベーターを多用する。彼らの寮部屋が二十一階から三十階にあるからだ。とても階段だけではきつい。高等部の生徒は一階から十階なのでエレベーターの使用は禁止されているらしい。十階といっても楽な距離ではないのだけれど、一年間ごとに決まった電力しか与えられないので仕方がない。
十七階に空き部屋が三つ隣接しているのを見つけて、三人はそこに名前を書いた用紙を貼った。つばきは自室にロゼットとヴァイオラを引き入れて、そこで待つように指示した。
「あとは、一階の中央にあった大きい家に報告すればいいのよね」
一番大きいといってもバカみたいにでかいわけではない。他よりも一回り敷地が広いだけだ。
戸の取っ手には、ハンドベルが適当に巻き付けられていた。
「これがチャイムってことかな?」
トニーが面白そうにベルを勢いよく左右に振った。それは、柔らかく美しい音をフロア中に響かせた。
(風鈴みたい)
つばきはその音に耳を傾けた。
ベルの反響が収まると、引き戸がすーっと開いた。中から中年の女性が顔を出す。ぼさぼさの髪とよれよれの服から異臭が漂ってきた。
香坂は顔をしかめ、トニーは鼻を摘んだ。
「誰?」
二人の様子に気分を害したようで、彼女の声音は不機嫌だ。
「私は香坂美空と言います。部屋番号を伝えにきました」
「ああ、新人ね」
仏頂面のまま奥に引っ込んで、それから用紙を三枚持って出てきた。
「さっきのあんた、美空は何号室?」
「十七の三です」
女性はさっさと何かを記入していく。
「そこの太った坊や、トニーは?」
「……十七の四」
トニーは外見のことを言われるのを嫌っている。誰しもそうなのだろうが、彼は人一倍だ。中年女性の言葉に顔を赤くしている。
「そっちのつばきは?」
「十七の二です」
彼女は三枚の紙を乱雑に折り畳んだ。それから、玄関先の棚にそれをぽいっと投げてしまった。
「あたしは寮長のエルガー。寮でのことは基本あたしに聞きな」
「エルガー?」
香坂は首を傾げた。
エルガーはふんっと鼻を鳴らす。
「地球人には珍しいのかね。あたしはこの町出身だからね」
今度はつばきが首を傾げる。
「ここで産まれた子供は北町か南町に移されるって聞きました」
アレックスが言っていたことだ。
「あんた新人のくせによく知ってるね。確かに病院で産まれた赤ん坊は全員親から引き剥がされる。ただし、病院に限るのさ。あたしのことを両親は必死で北町の国家員から隠した。出産の時も近くの看護師に頼んで自宅でやった。そうして産まれれば役人に気づかれないし、そんなあたしを東町の人たちは喜んで迎えてくれた。身分を新人として、ね」
彼女は嬉しげに、しかし憎々しげにそれを語った。
「北町の国家員……」
香坂はなにやら考え込んでいる。
「エルガー先輩、これからよろしくお願いします」
つばきが丁寧にお辞儀すると、エルガーはむず痒そうに苦笑した。
「止めな。あたしは寮長。あんたの先輩になるつもりはないよ」
扉を叩くとアレックスはすぐに出てきた。
「次は学校への入学手続きだよ。学校の九階にある張り紙を見ればわかると思うけど、わからなかったら十階ごとに設置されている職員室に行って聞いてみること。僕の仕事はここまでだから」
彼はよくよく見ると、疲れ切っていた。目元は腫れているし、声も弱々しい。もう寝かせてくれ、と言わんばかりだ。
「オッケーよ。お疲れさま」
「じゃあ」
彼がぴしゃっと扉を閉めた。
「もちろん学校にもエレベーターってあるわよね?」
彼女の微笑に答える者はいなかった。
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