集会
午前8時まであと一時間半になるとき、ビルが用事があると言って出掛けてしまった。つばきにカウンターを任せて。ビルはただ突っ立っていればいいと言ったが、カウンターは高く、普通に立つと外からつばきは死角になってしまう。つばきは仕方なく、裸足で椅子の上に立つことにした。
カウンターの中には椅子が二脚、壁際にある机には大量の書類が積んである。後方にある壁に付属されたガラス張りの棚の中には、ワイングラスがずらりと並んでいる。肝心のワインは見あたらない。
つばきは誰も来ませんように、と外に目を走らせる。透明な自動ドア越しに、大通りが見え、その向こうには交易所がある。人通りは少なかった。
外側からは見えなかったが、カウンターにはたくさんの引き出しがあった。少し凹んだ取っ手部分の下に、黒い文字で数字が書かれている。上の二つの左側に一、右側に二、といった風に、下の段まで続いている。数字は三十で終わっている。つばきはそれが何の数字か、わからなかった。
あーでもない、こーでもない、とつばきは考え続けた。中身を確認したい衝動を、常識の理性で押さえ、唸っている間に、ビルが帰ってきた。
彼は両手に重そうな袋を抱えている。ドアがつかの間開き、少し冷えた外気がカウンターまで届いた。
「今日の集会で配布する食べ物を買ってきたんだ。お前、ここに来てから何か食べたか」
ビルは袋をカウンターの上に置き、つばきが小さく首を振るのを見ると、大きく溜息をついた。
「アレックスはそう言うところに気が回らねえから」
つばきはそれほど空腹を感じていなかった。ここに来る前に何かを食べていたような満腹感があったのだ。
袋の中身は、焼きそばやたこ焼きといったものから、フィッシュアンドチップス、フィラデルフィアチーズステーキといったものまで、色々な料理が入っていた。
つばきは、元の世界で言うところの異国料理に瞳を輝かせた。見たこともないような食べ物ばかりだった。
ビルはつばきを満足げに見た。
「うまそうだろ。俺たちの故郷、地球料理だ。つばきは日本人だったか。なら、お好み焼きは知っているだろう? ここでは人気商品の一つだ」
薄紙やラップのようなもので包まれているものや、懐かしさを感じるプラスチック容器に入っているものまである。
「これは? 一見ホットケーキのようだけど」
つばきが指し示すと、ビルは説明した。
「これはホットクと言って、新朝――今でいう朝鮮――の菓子パンだ。中には黒砂糖とシナモンが入ってて、出来立てはそれが蜜状に溶けてて、たまらなくおいしいぞ。だが、少し熱いのが難点だ」
思わずつばきは唾を飲み込んだ。
「これらを食べながら集会での話を聞くというのが、恒例になっているんだ」
袋をビルがお預けとばかりにつばきから遠ざける。
「留守番ご苦労だった。そろそろ集会が始まる時間だ」
ビルがそう言って、カウンターの中に入ったとき、階上から誰かが降りてきた。つばきはビルに場所を譲って、カウンターから出る。降りてきたのは背の高い、二十代の女性だった。黒髪に黒の瞳、アジア系の顔立ちを見る限り、日本人のようだった。
ビルが親しげに手を振った。女性は軽く会釈をする。
「こいつは香坂
香坂がにこりともせず、つばきに会釈する。つばきは、少し気持ちが後ろ向きだった。怖いと思ったのだ。
「川野つばきです」
香坂は小さく頷いた。彼女がカウンターまで歩くと、ヒールがカツカツと音を立てた。
「これ」
短く言って、香坂は分厚い手帳のようなものをビルに渡した。カウンターの上にそれを置くので、つばきには見えなかった。
「一晩で読みました」
香坂の声は少し掠れていて、朝まで起きていたのだろう、間近で見ると目が赤くなっていることがわかる。
つばきは彼女から少し距離を置いた。香坂を見ると、何かを思い出しそうになるのだ。遠い記憶。それがなんなのか、つばきには見当もつかなかった。
ビルは難しい顔をして、それをめくる。
「やっぱりだ、読めねえ。これは、日本語だな。向こうから持ってきたせいか、翻訳が機能してないみたいだ」
「そうみたいです。けれど、私が書く文字は、翻訳されています」
香坂は暗い顔で言った。彼女の持っている手帳か何かは、向こう、つまりは地球から持ってきたもの、というわけだ。つばきはそれが、ロゼットとヴァイオラであったように、地球からここへ来る人たちは何かしら物を持ってやってくる。
「つばきさん、日本人よね。これ、読める?」
上から見下ろされ、つばきは萎縮する。怖々と彼女の手からそれを受け取った。一ページめくり、読み上げる。
「友人のための日記。2351年4月に六歳の男児行方不明。その後行方不明者が続出。年齢、性別、職業、人種関係なく、世界各国から数百、数千もの人間が姿を消した」
壮絶な内容に、つばきは息を飲んだ。驚くつばきをよそに、ビルと香坂は頷き合った。
「地球から持ってきた物は翻訳対象ではないようですね」
「俺も、その日記には興味があるんでな。しかも、この世界に関わりがあるとみた。後で内容を聞かせてくれ」
日記を香坂に返すと、つばきは重荷がおりた気がした。さきほどから、変に心が乱れるのは、過去の失った記憶がそうさせているのか。つばきは空白の日々に思いを馳せた。
鐘が鳴った。ゴーンと低く響く鐘が、午前8時を告げる。ビルの懐中時計をつばきは確認する。きっかり8時だった。
すぐに人が集まった。つばきと、香坂はもちろん、白人の少年と初老の男が加わり、それが昨日ここにやってきた新人全てであった。アレックスが来る前に自己紹介をしようということになり、順々に挨拶をしていく。白人の少し太った少年はアンソニーで、愛称はトニー。初老の男は柳
「私は川野つばきです」
つばきが言うと、トニーと柳が驚いたように彼女を見た。
「あの、何でしょうか」
視線に絶えきれなくなって、つばきが聞くと、二人とも複雑な笑みを浮かべた。香坂は至って冷静に言う。
「つばきさんは知らないようだけれど、私たちは案内人にあなたについて同じようなことを言われているの。もう耳には入っているのでしょう?」
なんと言って良いかわからず、つばきは口ごもる。ここに来てから感じていた、自分の存在が知れ渡っていることへの不快感が喉元まで出かかっていた。
「つばきさん自身、見に覚えがないようだし、議論したって無駄だと思うわ。今はそういう不特定なことにはあまり触れない方がいいかもしれない」
「そうだね」
トニーが明るく言った。つばきは胸に燻ぶる嫌な感覚が、少し薄れるのを感じた。けれど、昨日の老紳士を思い出して、また不安に駆られるのだった。
ビルがわざとらしく咳払いをする。そして、顎で出入り口の方を示した。いつの間にかアレックスが来ていた。
アレックスは昨日と全く同じ、ゆるめの長ズボンにシンプルな長袖といった格好をしている。日本で言うところの、ジャージーのようなものだ。
アレックスは鼻を少し赤くして、寒そうに身を震わせる。外は相当冷え込んでいるようだ。つばきは、マントのおかげで暖かかったが。
アレックスが全員に座るよう促した。昨日は商人が占領していたそこに、つばきたちは思い思いの場所に座った。アレックスの隣にビル、その横に柳、そして向かいにつばき、香坂、トニーの順で落ち着くと、一つ、ビルが頷いた。
彼は袋の中の食べ物を机に置いて、好きに食べるように指示した。つばきは迷った挙句、ホットクを手に取った。すっかり冷めていて、蜜も固まってしまっているが美味だった。
全員が食べ始めると、アレックスはズボンのポケットからじゃらじゃらと金属音をたてながら、懐中時計を取り出した。ビルがつばきにあげたものと全く同じだ。
「これはここでの時間の基準となる、時計だ。これを君たちに配布する」
アレックスの口調は昨日と打って変わって厳しいものだった。少年らしい砕けた口調ではなく、皆をとりまとめるリーダーのような感じだ。
彼が懐中時計を机に並べ、好きなものを取るように促した。選ぶ、といってもどれもデザインは同じだ。ただ、汚れ具合が違う。擦ったような傷や、少し凹んだ蓋、錆びたボウ――鎖をかける環状の部位――など、使い古されたようなものから、今さっき作りました、というような新品同然のものまで揃っている。再利用されているのだと一目瞭然だった。つばきがビルから譲り受けたそれは、特に目立つ損傷もなく、綺麗だった。
「つばきは取らないの?」
アレックスが、なかなか手を出さないつばきに机上の時計を指し示した。つばきはこくりと頷いて、ビルにもらった懐中時計を首もとから引っ張り出して見せた。見るなり、アレックスは顔色を変えて怒鳴った。
「おい、ビル! 使わないなら時計塔に返却しに来いって言っただろう! 時計を配布するのは僕の仕事だぞ」
彼の大声にトニーが肩を震わせる。
「アレックス、そうカリカリするな。俺がつばきに時計をあげたからって、お前が犯罪者になるわけじゃねえ。何か事件が起こるわけでもねえだろ? もう少し肩の力を抜いたらどうだ、え?」
彼の言葉に、アレックスは黙り込んだ。アレックスはまだ幼い。故に、多くの責任に敏感になっているのだ。
「それもそうだ。ごめん、ビル。怒鳴ることではなかったよ」
「俺もまあ悪いけどな。お前等は時計を新しく買ったりしたら、ちゃあんと配布されたものを返しに行くんだぞ」
ビルの言葉に、新人たちは頷く。
仕切り直して、アレックスは余った時計をポケットにしまった。
「時計の説明をする。この世界に太陽がないことは皆もうわかっていると思う。ここでの光源は、夜は見たとおり水源だが、昼間は違う。空全体が光っているんだ。その効果は太陽と同じだ。夕方になると、だんだんと放出される光が弱まる。そして、消灯される。過ごしていくうちに、どのタイミングでそうなるかわかるだろう。次に、この国の季節について。ここは地球で言うところの夏と冬が一年交代でやってくる。僕の母国は夏でも涼しいが、この世界では平均三十五度前後。ものすごく暑い。冬は昼夜の差が激しく、昼間は八度くらいだが、夜はマイナス五度くらいは普通に下がる」
皆一様に聞き入っている。知れば知るほど不思議な世界だった。冬と夏がどう切り替わるのか、つばきは興味を持った。
「それから、この世界の略図。見て」
彼は、懐中時計が入っていた反対の方のポケットから、小さく折り畳まれた紙を取り出して、それを綺麗に広げた。そこに中央に穴が空いたひし形が書かれている。ひし形の頂点の部分にも、小さくひし形があり、その中にも穴が空いている。
(大きなひし形の頂点に国があって、その中に町がある)
「この外側のひし形は世界、内側のひし形は国だ。僕たちの国はここ、東。そして、ここが町」
アレックスが一つ一つ丁寧に教える。香坂はじっとその地図を見つめた。そして、はっとしたように懐中時計を見た。
「この模様は、略地図だったのね」
アレックスはそれを聞いて、感心した。
「よくわかったね。その通り」
誉められても彼女はにこりともせずに、首を振った。
「最初にもらったときには気にも留めなかった。こういう小さいことに反応していかなければ、この世界の謎はいつまで経っても解けないままだわ」
本気でそう思っているのだ。悔しそうに下唇を噛んでいる。
アレックスは一変、馬鹿にしたように肩をすくめた。
「謎だって? 昨日今日この世界に来たばかりの君に、この世界のどんな謎が見えてるって?」
彼の言うとおりである。彼女はまだ謎にさえ遭遇できていない。ただ、地球という世界の謎は見えているかもしれない。
「ま、いいや。これから君たちは、ここの学校に入学してもらうんだ。そこで謎なりなんなり探すと良い」
学校、と聞いてトニーが身を縮めた。彼は不思議に思った。体が勝手に反応していたのだ。
「学校があるの?」
香坂が、私はもう二十歳過ぎているわ、と言う。
「学校は新人のためでもある。中等部では、この世界の常識や仕組みなどを学ぶ。新人は年齢を問わずそこに入るのがルールだ」
「中等部には何年通えばいいのですか?」
ずっと黙っていたつばきが、不安げに言った。
「四年間。そして、高等部では専門分野を学ぶ。そこでは年数が決まっていない。早く身につければすぐにでも卒業できる」
新人たちの間に、微妙な空気が漂った。柳は難しい顔で唸る。彼はもう、新しいことを学ぶには老いすぎている。
「僕がこの世界のことを学ぼうとしても、全てを知る前に死んでしまうやもしれません。まして専門的なことをやるほど、体力に自信がないのです」
彼は暗に、学校には入れない、と言っている。その気持ちは分からなくもない。アレックスはしばし考えた。そして、不服だがそれしかないと思い至る。
「では、商人の一座に入るというのはどうかな。あそこは高齢者も多いし、ほかの町にも行くことができる」
つばきは首を傾げた。昨夜、彼は商人を毛嫌いしている節があった。そんな彼がむざむざ人員を与えてやるだなんて、意外だったのだ。それは、個人としてではなく、新人を請け負う責任からくる判断かもしれない。
「そうしてくださると助かります」
柳は微笑んだ。
「私たちは商人にならないと、他町他国には行けないの?」
香坂が挑むような視線をアレックスに向けた。彼女の瞳は、この世界を見据えている。いや、見据えたいのだ。
「基本はそうだ。でも、国の役人になれば話は別だ。北町だけは国家員の中でも最高位でないと行くことができないけどね。あ、ほかにも祭りの時は他町との交流があったりする。武道大会とかね」
酷く閉鎖的だ。つばきは顔を曇らせた。他町他国に行くことは、その制度がある限り難しそうだった。一生、ここで暮らすことになるのだろうか。
「ビル、柳さんを商人のところへ。ほかの人たちは入学手続きと、制服を渡すからついてきて」
アレックスは立ち上がって、指示を出した。
香坂が顔をしかめて、小さく呟く。
「セーラー服じゃないでしょうね」
つばきは思わず吹き出した。セーラー服、というのは最後に日本で使用されていたのが千年も前という代物だ。そんな古い着物がこの世界にあるとは到底思えなかった。
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