4-8 終結
血は額の表面からしか出ていない。
鉛の弾丸の通過でグシャグシャに潰れたはずの脳梁も頭蓋の外には飛び出さない。
その代わり、電子機械の焦げる厭な臭いが鼻を突く。
それであたしは、さすがのクルト爺さん率いる結社の科学力でも、生体脳への情報伝達はできなかったんだな、と理解する。
けれども、他の部分は生身のようだ。
それで、あたしは吐かなくても良いはずの溜息を吐く。
両足を地面についと立て、メイド服を風に靡かせる。
ついで、もう用のなくなったモーゼル・ミリタリーC96の弾を抜き、海に投げ入れる。
実際のところ、怪物や天使がこの島に現れたのは、もしかしたらあたしが島の沖合に停泊する原子力潜水艦から島まで逃げて来てしまったせいかもしれない。
それにしても人知を超えた科学力だ、とあたしは醒めた心で感心する。
絶え間なくあたしを襲う胸悪いえずきに必死に堪えながら……。
そんなことまで、あの深江浦文書(ふかえうら・もんじょ)に記載があったというのか?
が、電子の頭脳を持ったニセモノのあたしの追悼に気を割いている時間はない。
怪物と紫羽異日月を倒す方法はある。
が、それを怪物と紫羽異日月に同時に行うのは困難だ。
だから、先に怪物を倒してしまう必要がある。
「もう間違うなよ、マイ・エンジェル……」
とりあえず紫羽異日月の攻撃を交わし、あたしの許に戻ってきた、あたしの天使にあたしが言う。
紫羽異日月はその隙に、あろうことか、あたしのニセモノと合体している。
つまり、あの世の天使のこの世との融合は死体でも良いということか?
それとも、まだニセモノのあたしの身体に息があったのか?
が、それ以上考える余裕もなく、カチリと音がし、途端にあたしの身体がバラバラになる。
そこに別の電磁気作用で、やはりバラバラに分解された天使の要素が近寄ってくる。
質の違う、二要素集合体が複雑に絡み合い、結合する。
この世界の領域、いずことも知れぬ仮想時空の裏または表で……。
この世のものと、あの世のものとの婚姻だ!
外から見守るものが、もしいるならば、それはただ光の爆発と映るだろう。
これまで以上に大きな閃光と耳を聾する大轟音が辺りに響く。
宇宙は深く、天使は精薄。
当然その意識は、あたしに支配されることになる。
さて、怪物をどう捌こう?
あたしが瞬時、思い悩むと、原子力潜水艦から煌く光線が怪物に向けて放たれる。
光線が怪物の周りに壁を造りつつ周囲を巡り、怪物の動きを封じ込める。
問うまでもなく、それは怪物と同様の攻撃法。
発現のさせ方には違いがあるが……。
「空恐ろしいな、クルト爺さん……」
あたしが思う間もなく、怪物がビー球の中で内破する。
怪物自身が制御できる以上の、おそらく非対称な時空間――例えば時間が2で空間も2とか、時間が3分の1でそれ以外が空間とか、そういった四次元かまたはそれ以上の――に怪物本体が耐えられなかったのだ。
異なる界面の接触面では、必ずポテンシャルが発生する。
それを有効利用できなければ、身に受けるしかなくなってしまう。
あたしの耳には、ケルヒャーァァァ! と聞こえる断末魔の叫びを上げ、巨大なビー球の中から海中に没した怪物の塊がズブズブと泡を立て、燃えながら空間の中に消えてゆく。
すると――
「後は任せましたよ」
島のホテルの緊急警報用スピーカーから声が聞こえる。
残念なことにあたしが聞きなれたクルト爺さんの嗄れ声。
あたしを捕え、意識を混濁させ、電極に繋ぎ、あたしの脳内から種々の恥ずかしい記憶までも引っ張り出したゲルマン人の爺さんに、あたしは改めて腹を立てる。
が、手間を省いてくれたのは事実。
口にはしないが、ご協力には感謝しますよ、と礼を言う。
とにかく、怪物を破壊してくれたのだから……。
もっとも、あたしには、その破壊行為がどこに繋がるのか、まるで見当が付かないが……。
後は任せましたよ、の言葉通り、原子力潜水艦が沈黙を守る。
海から現れた不可能形態の怪物を一瞬のうちに倒した攻撃を連続して紫羽異日月に浴びせかければ多少でもダメージを、と考えるが、まあ、無駄だろう。
表と裏を、もう一回ひっくり返されて核爆発だな、と素直に思う。
島の周囲数十キロメートルが放射能汚染ゾーンに変わるのだ。
だから、攻撃はしないだろう。
頭のいい爺さんだ、とあたしが呆れる。
もちろん、天使と異時空婚をしたあたしがノンビリとそんなことを考えていたわけではない。
身体の方は動いている。
紫羽異日月を誘うため、一旦上空に飛び上がり、海の色の変わり目まで移動すると素早く海中に飛び込み、進む。
その時点ですでにあたしの息は、ゼイゼイ、ハアハア、と上がっている。
が、天使の身には呼吸が必要ないのか、身体移動が悠然自適で腹立たしい。
……とはいえ、水圧は間違いなく感じているようだ。
だから空間の質を変え、海水を鋼にすれば、一時的に紫羽異日月を押さえ込めるだろう。
けれども、それと同じことは紫羽異日月も考える。
あたしの動きも抑えられる。
が、鋼の強度を持つ海水に身体の動きを拘束されても光を放つことはできるのだ。
バカだな、紫羽異日月、どうせ海水の質を変えるなら、鏡にしてしまえば良かったものを……。
あたしの放った閃光が紫羽異日月に達した瞬間、あたしは空間の質……というより時空の種類を無限に変える。
ついで、光を拡散させる。
紫羽異日月の体内で……。
あたしが変えた時空の殆どすべてが紫羽異日月に影響を与えなくとも、たった一つくらいなら原初宇宙を作れるはずだ。
天使が天使のままならば、あるいはその攻撃法も不可能かもしれない。
けれども、この世の存在と天使が接触したからには、どこかに隙が生じるはず。
あたしは、そう信じ、実行する。
忽ち答がやってくる。
紫羽異日月の身体が内側から異常に膨れて破裂する。
もちろんその破裂は用心のため――紫羽異日月が膨れ上がった瞬間に――、あたしが放った完全等価時空内で生じたのだが……。
紫羽異日月の身に生じたのは宇宙のインフレーション。
紫羽異日月の体内に生じた一つかあるいは幾つかの泡宇宙が瞬時に指数関数的に増大し、先の結果が導かれる。
標準の宇宙インフレーションモデルでは宇宙が始まり十のマイナス三十六秒後に宇宙の大きさが、それまでの大きさの十の二十六乗倍に膨れ上がる。
如何に天使といえども、自身の体内でそんな急激な変化が起これば、対処の仕様がないのだ。
結果的に、十の二十六乗倍にまでは膨れ上がらなかったとしても、天使の体構造はすでに修復不能だろう。
「さて、今回こそ回収は不可能だろうな」
海中で力なくあたしが呟き、天使が持てる能力を駆使し、等価時空に方向を与える。
互いに背反する二つの空間と二つの時間に進化(退化)させる。
後は放っておけば互いに方向を消し合い、元の時空に戻るだろう。
そのとき、そこに飲み込まれた紫の天使が、その紫の天使に飲み込まれたあたしのニセモノがどうなるか、あたしには皆目見当もつかない。
が、時として奇蹟は起こるようだ。
紫羽異日月が完全消滅したその場所にあたしのニセモノが漂っている。
あたしはそれを天使の手で回収し、海面まで上がる。
砂浜に立って気づいたときには、あたしと天使は分離している。
天使は天に還り、あたしがこの世に残る。
まだ島にいて、砂浜に立っている。
つまり縮潰(collapse)が起こらなかった、ということ。
あたしを無数の多世界に飛ばす、あの摩訶不思議な現象は……。
すると、あたしの着ていたメイド服の中に震えが走る。
人工衛星経由の携帯電話が呼んでいる。
エプロンに設けられたポケットから、よっこらしょ、と携帯電話を引っ張り出し、送受器を耳に当てると、
「大層なご活躍でしたな」
ゲルマン人、クルト・ワイル爺さんの声が聞こえる。
「果たしてどんな方法を用いられたのか、わたしには想像もつきませんが、お見事でした」
クルト爺さんはそう問うが、もちろんあたしは応えない。
「我らがメイか、あるいはあなたのどちらが勝者になるのか不明でした。けれども最終的にこうなることは『ヤップ・ドキュメント(The Yap document)』の記載からわかっておりましたよ。あなたには言うまでもありませんが、『ヤップ・ドキュメント』は『深江浦文書』以外の神代文書(かみよ・もんじょ)です」
なるほど、それがあの人知を超えた科学力の正体か!
黄泉の科学を用い、あたしの脳からクルト爺さんたちがあたしのニセモノに送信した情報は、一方的にあたしのニセモノに流れたわけではない。
クルト爺さんたちの目論見ではそうなるはずだったのだろうが……。
情報はあのとき原子力潜水艦内の医療施設でベッドに拘束されていたあたしの脳にも逆流したのだ。
だから泡宇宙。
直径一ミリメートルほどの小さな気泡が海中を上昇していくイメージが、あたしの脳裡にも過ったのだ。
海中を上昇するに連れ、徐々に大きくなっていくイメージが……。
ありがとう、助けてくれて、とあたしのニセモノにあたしが言う。
足許の砂浜に横たえられた死体を見遣り、声を出さずにそっと……。
すると――
「メイ!」
背後からDPの声がする。
いや、あたしにとっては、単なるデイヴィッド・プリングスだ。
「メイ、生きていたのか?」
デイヴィッド・プリングスの目があたしの全体に注がれる。
つまり彼には、死体と果てた元恋人が見えないのだろう。
「悪いんだけど、あたしはあなたのメイじゃないわ。まあこの先、強く生きてね」
あたしがデイヴィッド・プリングスに言い放つ。
宙を仰ぐとヘリコプターが近づいて来る。
あたしが特殊能力で、この島に呼んだあたしの迎え。
今頃、原子力潜水艦内は大騒ぎだろう。
原子炉の制御系統以外の全電気及び電子機器が、持ち主に大反乱を巻き起こしている最中だから……。
やがて無人のヒューズOH‐6(別名フライングエッグ)が嵐のような砂煙を巻き上げながら島のへリポートに到着する。
警笛を鳴らし、あたしを呼ぶと自動的に扉を開ける。
当然あたしがOH‐6に向かう。
が、ゆっくりと足取るあたしの背後から声が迫る。
「メイ、メイ、メイ……」
啜り泣きの混じった声だ。
もちろん、あたしは振り向かない。
手にナイフが握られていることには気づいたが、彼にあたしを殺すことは不可能だ。
デイヴィッド・プリングスが、あと一歩でもあたしに近づけば、OH‐6が威嚇射撃をするだろう。
それ以上近づけば、威嚇は射撃に変わるはず。
あたしは独り。
あたしは孤独。
早く行方を晦まし、酔いどれたい。
できればあたし好みのイケメンと一緒に……。
あたしがOH‐6に乗り込み、島の上空を通過するとき、山頂部に避難していた体格の良いアメリカ人の女が大きく手を振っていることにあたしが気づく。
もしかしたら彼女だけは、あたしの事情を理解したのかもしれないな、と遠退く意識の中で思ってみる。(第四章/第一部 終了)
【参考作品】
高樹のぶ子「ブラックノディが棲む樹」(文學界一九八八年七月号)、文春文庫「ブラックノディが棲む樹」文藝春秋(一九九四年十二月)所収。
【背景音楽】
ディープパープル「紫の聖戦」(The Battle Rages On)
CD「紫の聖戦」ソニーミュージック(一九九三年八月三日)所収
天使聖戦 - the battle rages on - り(PN) @ritsune_hayasuki
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