4-7 絶命
次に目が覚めたとき、バンガローのベッドの中にいたのだから、あたしは夢を見たのだろう。
それで少しは安心する。
けれども、あたしがこれまで経験したことのない異様な不気味さが粘り付く。
いつまでも身体の表面を離れず、あたしの精神を侵し始める。
脳を毀し、腐らせる。
幻想の腐臭を鼻に届ける。
次には吐き気を催させる。
あたしはDPが恋しくなる。
それからハッと己自身を省みる。
つまり――
あたし、いつからこんなに弱くなったのか?
すると、バンガローのドアがノックされる。
まるで、あたしの願いが叶うかのようだ。
だから、あたしはいそいそとドアに向かう。
けれども、誰何することは忘れない。
「どなた?」
「オレだよ。DP」
DPが自身の海洋研究所での通り名で返答。
それに安心してあたしがドアを開けるとDPの他に一人いる。
「えっ、所長さん? どうしてここへ……」
DPと一緒にドアの外に立っていたのは海洋研究所長、その人だ。
あたしがDPと知り合い、二、三日経った頃、ホテルのレストランで食事をしたときに会っている。
名前は確か、ジェローム・ロングフェローとかいったはず。
ミドルネームは記憶にない。
あのときロングフェロー所長は、
『ああ、きみがマーメイドか』
身体つきのわりに甲高い声でそう言い、あたしの全身を隈なく眺めまわす。
それから――
『確かに綺麗だな』
お世辞を聞かせ、あたしの気持ちを和ませる。
島ではベテランの研究者。
髭の形が紳士な初老の男。
「悪い。うっかり潜水艦のことで口を滑らせた」
本当に済まなさそうな口調でDPが陳謝するから、
「ああ、それで……。でも、あたしは何も知りませんから……」
後半はDPではなくロングフェロー所長にあたしが応える。
「立ち話もなんですから、上がってください」
そう続け、バンガロー内に二人を招く。
DPとロングフェロー所長がそれに従おうと一歩を踏み出した、そのとき遂に……。
「ダメ、ダメ、ダメ、ダメーッ……逃げて!」
ズウウンという直下型地震のような揺れが――地面からではなく――海の方から寄せて来る。
激しい揺れに、あたしとDPとロングフェロー所長の身体が宙に浮く。
ついでザッバーンと海の中から浮かび上がってきたのが存在不可能形態。
すでに崩壊してしまったバンガローから這う這うの体で逃げ出しつつ、三人が垣間見る。
今回、海中から登場した怪物は完全対象形でありながら、同時に歪な上下左右どの方向にも対称軸を持たない多面体。
まるで海をそのまま閉じ込めたかのような青い色の球形だ。
ウニ……ではないか、ミノカサゴのような鋭い刃の突き出た鰭を無数に生やす。
その身体全体がチカチカと瞬いているように見えるのは、おそらく怪物が二つか、またはそれ以上の異なる時空間に同時に存在しているためだろう。
あたしの足りない頭では想像不可能だが、ここでもなく、またDPでもない別の世界のイケメン科学者から、あたしは解釈を聞いた気がする。
だが――
「早く、早く、早く、早く、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて……」
今のあたしが口にできるのは、それ以外に許されない言葉だけ。
「怪物の目的はあたしなんだから、早くあたしから遠ざかって!」
あたしが必死に叫んでいる。
そのとき何処から飛んできたのか、数本の槍が、怪物に向かって突き進む。
間違いなく、怪物をターゲットとして放たれる。
島の住民たちの機転だが、悲しいかな、効果の程は期待できない。
いずれも海中用の弓矢や銃から放たれた、種類の違う槍群が、怪物の表皮に触れるや否や――まったく体内を通過せず――別の表面から飛び出して来る。
まるで、何事もなかったかのように……。
まるで、この世の存在を無視するかのように……。
あたかもメビウスの帯のごとく怪物の裏と表が入れ替わる。
それで、槍が素通りする。
だから、何人も怪物にダメージを与えられない。
傷一つさえ付け得ない。
さらに正反対に槍が反射された場合は、射手自身に危害が及ぶ。
「いいから、いいから、みんな怪物には構わないで、山の方に逃げて……」
あたしが声を嗄らし、島の住民たちに大声で叫ぶ。
怪物自身は槍による攻撃には無頓着。
落ち着いた仕種――という形容が正しければだが――で身体の一部をぱっくりと減り込ませ、非対称に疣の付いた太い椀器を導き出す。
ついで別の場所をぱっくりと減り込ませ、今度はヒトの口の形にも似た口器の中から舌のようなモノを伸ばしてくる。
そして、あの音。
キュリキュリキュリという歯の浮くような音が聞こえてくる。
その時にはもう、辺りの混乱が際立っている。
周囲の空気が泡立っている。
得体が知れす理解不能な黄泉の怪物が醸し出す奇妙な波動がこの世界の真っ当な物理学と対決し、その存在を泡立たせているのだ。
一部はまだ海中に没していたが、怪物の大きさは十五メートルはあろうか?
あたしが見た中では、かなり大きい。
怪物がこの世の時空の中にゆっくりと伸ばした舌器の先端部分から何本かの突起が生えてくる。
それが、近くの空間内に突き刺さる。
ジョッリ・ジョッリと誰の目にも見えない空間の表皮を剥ぎ取り、喰い始める。
そのとき風がヒュウと鳴り、空間の悲鳴が吹き抜ける。
そこいら中をランダムに舞う。
予想通り、突起の中央に位置する部分それぞれから、さらに細いストロー状の筒が迫り出し、表皮を剥ぎ取った空間の内奥部分に穿たれる。
おそらく誰にも形が見えない、この世界のその場所そのものに、数本のストローが突き刺さる。
ズルッ、ズルルルッ……、ズルッという、怪物が空間内のジューシーな部分を啜る幻想の音があたしの耳に聞こえてくる。
まるで胃の中を数本の菜箸で掻きまわされたような不快感に、その場に居合わせた全員が一斉にえずく。
不快感は怪物の喰餌行為で、この世界の通常空間の質が変えられたことに由来する。
違う物理世界の、この世界への極めて緩やかな侵入だ。
慌ててDPを振り返ると、やはり彼もえずいている。
身体も精神も徹底的に鍛えられた軍人ではないのだから、当然だ。
やがて怪物は緩慢な摂食行為に満足し、空間内に突き刺したストローを一本ずつ抜いては舌器内に回収し始める。
ついで舌器も口器内に仕舞ってゆく。
だから、まだ身体の外に出ているのは一本の腕器だけ。
さて、この先どうなる?
現れたときから、すでに怪物はあたしに興味を失っているようだ。
だから怪物がこのまま海の底――実は異世界?――に消えれば、天使はやって来ない。
けれども、再び怪物があたしにちょっかいを出そうとすれば天使が降りる。
あたしはどちらを望むのか?
怪物はどちらを望むのか?
その直後、予期せぬ事態が発生する。
ここは日本ではないのだから、よもや、と頭上を見ると二機のヘリコプターが舞っている。
バリバリバリという凄まじい音を立て、舞っている。
それはあたしの目にはEC665ティーガーに見えたが、当てにはならない。
仮にそれがEC665ティーガーか、それに類する機種だとすれば、かなりの攻撃力を持っているはずだ。
AM-30781型30mm機関砲と12・7及び20mm機関砲ポッド以外に対戦車ミサイル、空対空ミサイル、更にはロケット弾まで装備されている。
それらで怪物を狙おうというのか?
それとも、あたしを仕留めたいのか?
さすがに今回はジェット戦闘機による戦闘支援はないようだ。
が、島の沖合に不動に浮かぶ原子力潜水艦が、攻撃ヘリコプター以外に何を持って来ているか見当がつかない。
二機のEC665ティーガーの出現に、やにわに怪物が闘志を燃やす。
それが、あたしに伝播する。
怪物の気持ちまでははわからないが、おそらく、一暴れでは済まないだろう。
だから――
「まだ、あたしの近くにいたのかよ!」
間近のDPに向かい、あたしが叫ぶ。
すると――
「オレが守ってやると言ったじゃないか!」
負けず劣らず大きな声で、DPがあたしに叫び返す。
あたしが覗いた目の中に、いつぞやの不安は見当たらない。
恐れの陰など微塵もない。
だから――
「アンタもバカね。絶対死ぬわよ!」
あたしも力強く言い返す。
DP以外の人間は、機転を利かせたロングフェロー所長と、いつの間に現れたのか傘下の研究員たちの誘導で、島の奥、山の方へ向かっている。
人々の列の中には、小さい姿のメアリも見える。
ホテル従業員たちも見える。
ヘリポートで働く少年少女、資産家のアキワンデ夫妻の姿も見える。
あたしは退避する人々の長い列を見、この島には有事用の緊急避難マニュアルでもあるのかしら、とノンビリ考える。
そんなあたしの態度や考えとは関係なく、上空で怪物と二機のEC665ティーガーが火花を散らす。
ここまで怪物があたしに興味を示さないのは、何かの――どちらかの?――策略なのかと、あたしがこれもまたノンビリと訝ると、急に事態が展開する。
怪物が自身の体内から放った己のミニチュア球体――棘付きで歪な多面体――が一機のEC665ティーガーに達し、忽ちその内部に攻撃ヘリコプターを取り込んだのだ。
攻撃ヘリコプターは瞬時に内爆させる。
最新鋭の攻撃ヘリコプターが、巨大なビー玉の内部に描かれた浪打模様に変わり、やがて外に吐き出される。
エメラルドグリーンの海中に落ちて再爆する。
「強いな……」
思わずあたしが口にする。
あと一機を残すとはいえ、怪物と最新型攻撃ヘリコプターとの攻防のあっけない幕切れに、思わずポカンと口にする。
ついで――
「いよいよヤバイかも……」
あたしがそう思ったのとほぼ同時に怪物があたしに迫ってくる。
あたしに敵意を見せ始める。
だから、天使が光臨する。
辺りがまるで雷が落ちたかのような閃光で白く染まり、ついで轟音とともに空の一部を割り、一位の天使が光臨する。
身の丈三メートル強のあたしの天使だ。
天使降臨の際に割れ、辺りに砕け散った空の破片が地面と海面を広く焼き、やがてズブズブと燃え尽きるように崩れていく。
天使はDPなどまるで無視し、すっくと怪物とあたしとの間に降り立つ。
気合を込めるかのように低く呟く。
まっすぐ伸ばした右腕の先端から、怪物に向け、電撃を放とうと身構える。
いつもだったら、おそらくそうなったはずだ。
けれども、この世界での展開は、あたしの予想と異なってしまう。
天使が、一瞬考え込む。
それは、あたしがこれまで目にしたことがない天使の姿。
が、それは瞬時のこと。
再び怪物に向き直った天使が電撃を放つ。
瞬く間に怪物の表面まで達した天使の電撃が――ヒトの放った槍とは違い――怪物内部に減り込み始める。
実に緩慢な動きだが、着実に怪物の体内目がけ、進んでいる。
すると――
「光が止まるのをオレは初めて見たよ」
放心したようにDPが言うので、
「電撃の先端部分の時空もまた激しく変化しているんだよ。怪物の防御以上に……」
DPの顔を見ずにあたしが応える。
もっとも天使が持つその能力を、怪物の操り主が知らぬはずがない。
ジリジリとした攻防の末、天使の電撃が怪物表面内に入り込み、爆発。
衝撃波でDPが後方に吹き飛ばされる。
あたしはそのとき襲いかかるはずの爆風の威力が予想できたので、瞬時に地に身を伏せて遣り過ごす。
DPの方は、一溜まりもなかったはずだ。
幸運なことに、十数メートル後ろのピソニアの林――他の樹類と比較し、少しは柔らかい枝の絡まりの上――に落下したが……。
それを見届け、怪我はしただろうが、まあ死ぬことはないな、とあたしが胸を撫で下ろす。
そのとき一陣の真紫な風が吹き、一位の真紫な天使が現れる。
あたしの遥か上空、どこまでも広い空に一際大きな閃光が走り、空が割れ、紫の天使が光臨する。
あたしの天使とまったく同じ顔と無表情を持つ、全身すべて真紫な天使――おそらく紫羽異日月(むらさきはねことなりのひつき) ――が、あたしの上に現れる。
現れた途端、紫羽異日月は、自身の近くを飛行していた最後のEC665ティーガーを餌食にする。
両腕から発した、あたしの天使と同じ電撃で、瞬く間もなく破壊する。
それ以前にEC665ティーガーから紫羽異日月に向け発射された空対空ミサイル=ミストラル/AIM‐92スティンガーとロケット弾=ハイドラ70ロケット弾の数弾が制御を失い、島周りの海に振ってくる。
海の中に落ち、爆発し、辺りに物凄い飛沫が上がる。
幸いなことに落下場所が海だったから――珊瑚リーフは破壊されたが――、街中での落下のように辺りが濛々たる火の海に変わることはない。
だから紫羽異日月が、紅蓮の炎の中に光臨することもない。
紫羽異日月は、まるであたしの存在を無視するかのようにあたしの天使に襲いかかる。
あたしの天使の電撃攻撃を受けたとはいえ、まだまだ余裕の多面体/球形怪物も天使を襲う。
二位の天使と一匹の怪物の動きが絡み合う。
ピソニアの木の枝のように絡み合う。
紫羽異日月が、あたしの天使と両腕で組み合い、動きを阻み、怪物が瞬時にあたしの前までやってくる。
すると、天使が戻ろうとする。
紫羽異日月に、その動きを阻まれる。
怪物は、先ほど一機のEC665ティーガーを破壊したときと同じ攻撃のミニチュア版を、あたしに向け、放ってくる。
あたしはひょいひょいと巧みに避けるが、いつまで避けきれるかわからない。
そのとき、あたしの天使が背中の羽根を一本抜き、あたしに向かって投げつける。
それが宙を移動しつつ白光を放つ剣と代わり、あたしに届く。
天使から受け取った剣で、あたしが怪物の放った球体を割る。
剣先が掠めると、球体は驚いたようにブルンと震え、爆散する。
海の匂いを強く当たりに撒き散らし、轟音を上げ……。
「パーフェクト・タイミング!」
あたしが天使に感謝する。
直後、シュンという音が空間を裂き、あたしに向かう。
音に気づいたあたしが身を仰け反り、避ける前に銃弾があたしを貫通する。
あたしの額を貫通する!
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