4-6 迷宮

 島の沖合に現れた潜水艦に動きはない。

 あたしは派手な音を立て、ヘリコプターがクルト爺さんを運んで来るものとばかり思っていたので拍子抜けする。

 それでもDPとは愛し合うが、やはり気はそぞろで落ちつかない。

 だから、あたしはピソニアの林に迷い込んでしまったのかもしれない。

 そこで、幻想を見てしまったのかもしれない。

 あの夜、怪物の気配を感じたのは嘘ではない。

 そうでなければ、あたしが夜中にピソニア林の中に迷い込むことなどありえない。

 あの日、DPはホテルのレストランであたしと食事をし、すぐに海洋研究所内の宿泊施設に帰っている。

 彼も学究徒だから、毎日あたしと遊んでばかりはいられない。

 あたしもそれを知っているから、黙って彼を宿泊施設に帰す。

 軽いキスを求めただけで、DPをあたしから解放する。

 自身もバンガローに戻って眠りにつく。

 何故なら、他にすることがないからだ。

 しばらくは眠れなかったが、自分でも気づかないうちに寝入っている。

  それからどれだけ時が経ったのだろう?

 あたしがビクリと目を覚ます。

 不意に夢から追い遣られる。

 が、そのとき見ていたはずの夢の内容は憶えていない。

 けれども、不快な夢だったのは間違いない。

 びっしょりと寝汗をかいている。

 次には気配を感じている。

 怪物の気配が強くなる。

 ピソニアの林の中からだ。

 それで、あたしが決意する。

 勢い良くベッドから撥ね起き、頭を二、三度振り、気分をシャッキリと整える。

 この島に来てからDPに少しずつ誂えて貰った服を着始める。

 ジーンズを履き、シャツを身に着け、ジャケットを羽織り、靴を履く。

 それから手には――懐中電灯ではなく――スキューバダイビング用のハロゲントーチを持ち、バンガローのドアに向かう。

 躊躇うことなく宿泊場所を後にする。

 ピソニアの林はあたしが居候する――つまり借り手がいない――バンガローの真裏から始まる。

 地図上では、反対側の海に至るまで続いている。

 林は砂浜がない、切り立った先端部を見せて終わっている。

 あたしは、それをDPと一緒に外海から何度か眺める。

 もちろん、ボートの上からだ。

 通常見られるピソニアの木はせいぜい四、五メートル程度の高さだが、この島にはその幹の強度から得られる限界値=約二〇メートル以上の木も生えている。

 大中小さまざまなピソニア及びその共生植物がまるで捩れるように群生している。

 オクトパス・ブッシュやツリー・ヘリオトロープあるいはベルベット・ソルジャー・ブッシュの異名を持つムラサキ科キダチルリソウ属常緑低木/小高木に類されるモンパノキの林も密生具合によっては相当無秩序な絡まり方をするが、この島のピソニアの林はその上を行っている。

 林に一歩足を踏み入れる前から、ギギギギギ、クリクリクリッ、あるいはカッカッカッ、というブラックノディの鳴き声が聞こえている。

 時々、ポン、パン、パンという音が混入する。

 ある日DPに音の正体を知っているかと訊ねると、ブラックノディが嘴を合わせる音だろう、と答える。

 が、DPにも行為の意味は不明らしい。

 もちろん、下側の長い嘴を上側のやはり長い嘴に打ち付けたときに聞こえる音であることは本当だが……。

 ブラックノディ(和名ヒメクロアジサシ)の体長は約三十五から三十九センチメートル。

 だから、さほど大きくはない。

 比較でいえば日本全土でごく普通に見受けられるカワラバトとほぼ同じ。

 開長は六十六から七十二センチメートル。

 額とメジロのようなアイリング部だけ色が白く、その他の部分は全身黒褐色の羽毛に覆われている。

 同じ鳥種の近い仲間にブラウンノディ(クロアジサシ)がいるが、こちらは後頭部が灰褐色で、ブラックノディより一回り大きい。

 この島に暮らす誰かが以前通ったと思わせる痕跡、土が踏み拉かれたそんな場所から、あたしがピソニアの林に入る。

 腰を屈め、わずかも進まないうち、林が迷路に早代わりする。

 それでも道を選び、しばらく前進すると、すぐさま壁に行き当たる。

 もちろん正体はピソニアの木だ。

 トーチで上を照らすと十メートルほどの高さがある。

 頭頂部にブラックノディの巣がいくつも隠れているらしく、上から高い鳴き声が落ちてくる。

 声は聞こえど、その場所から先に道はない。

 壁の周囲で種々に捻じ曲がった枝々が信じられないほど複雑に交錯し、身長一六〇センチメートルのあたしの体躯では通行不能になっている。

 それで、数メートル前の分岐点まであたしが戻る。

 すると、怪物の気配が薄くなる。

 それで、もう一つ前の分岐点まで戻ると、怪物の気配がわずかに戻る。

 あたしは、その道を選び、先に進む。

 胸の高さほどの枝をくぐり、相対的に右方向に進む。

 そのときにはもう、あたしは入口を失っている。

 ピソニアの群生林に、あたしは見事に方向感覚を狂わせられる。

 そうとなれば、あたしの頼りは怪物の気配だけ。

 けれども無頓着に絡まるピソニアの木枝に邪魔され、その方向にまっすぐ進めないのでもどかしい。

 戻っては進み、進んでは戻る。

 ただ、それを繰り返す。

 あたしが徐々に疲れてくる。

 疲労が着実に蓄積される。

 が、体力が衰えた感じはまだしない。

 それで、あたしは先に進む。

 自分を鼓舞して前進する。

 下を向き、枝をくぐり、ゆっくりと顔を上げると、鳥の羽根があたしを叩く。

 小さな嘴があたしを突付き、ついで弱い力でキュッと引っ掻く。

 あたしは驚いて悲鳴を上げる。

 小さくキャッと叫んでしまう。

 すると顔の別の部分を再度鳥の足先で引っ掻かれる。

 右の眉毛の少し上辺りに痛みが走る。

 けれども、それは鋭くはない。

 血は流れたし、あたしの顔がまた僅かだけ歪さを増してしまったのは事実だが、元々びっくりするような美形じゃない。

 だから、気にすることはない。

 そんなこんなで怪物の気配だけを頼りにピソニアの林をあたしが進む。

 ノロノロと進み、突然広い空間を発見。

 ポンと放り出されるように、そこに出る。

 それまであたしは――必要以上に鳥を脅かしたくはないという理由から――持ってきたトーチを地面に向け、使っている。

 反射光を頼りに、ピソニアの林の中を進んでいる。

 地上で利用するには明る過ぎるトーチの光を、そのとき約九十度回転させ、あたしが抜け出た林の反対側を照らしてみる。

 左右に、斜めに、照らしてみる。

 あたしの前に突如立ち現れた空間の広さを確認するためだ。

 広いといっても、直径十メートルほどの空間か。

 上から見た形は円に近いはずだが、自然界にありがちなデコボコ模様が観察されない。

 それであたしは不思議な気に囚われる、

 が、広場が四角や五芒星の形をしているわけではないので、まあ不自然ではないだろう、と思い直す。

 怪物の気配が濃厚ではないのは、あたしがこの島に来たときから変わりない。

 けれども、この空間内ではそれが比較的濃く感じられる。

 あの世がこの世に繋がるほど、大きくはないが……。

 だから、怪物も出現しない。

 その事実に、あたしの気力が急速に萎える。

 怪物よ、出るなら出ろよ、と虚勢を張るが、黄泉の存在である怪物にあたしの気合いは届かない。

 ついでに言えば、あたしの天使だって光臨しない。

 あたしは独り。

 あたしは孤独。

 たった一人。

 ここにはDPだっていやしない。

 どうしよう?

 帰る気力が失われている。

 朝まで待てば、海から斜めに舞い昇る陽光が、あたしに力を降り注いでくれるだろう。

 けれども今は夜中で、辺りはじっとりと湿っている。

 もう一度、雨が降り出しそうな雰囲気だ。

 それで、あたしが途方に暮れる。

 携帯電話を持って来なかったことを後悔する。

 せっかくDPが出張で飛行場のある島まで出向いたときに購入し、あたしにプレゼントしてくれたというのに……。

 何かの気配がザワッとする。

 怪物のようだが大きくない。

 気配の方向を見遣ると、そこに何かが確実にいる。

 いや、ある、といった方が正しいか?

 何だろう?

 確認すると、正体は無線機。

 少なくとも、あたしのカテゴリー分類ではそうなる。

 まさか、あのとき彼が砂漠でジープに乗せたモノだろうか?

 もちろん最新型には程遠く、概観も中身も古色蒼然としたタイプ。

 けれども、いくら古惚けようとも、無線機は無線機だから、機械であることに変わりない。

 それなのに、わずかとはいえ怪物の気配が宿っているから混乱する。

 あたしの認識が混乱する。

 いずれ、この土地であたしを襲うことになるはずの怪物は、生物と機械の混成体なのだろうか?

 その異神が、あたしの天使を倒すための、次なる作戦の使者なのだろうか?

 もちろん、あたしにはわからない。

 それが、わかろうはずもない。

 だから、余計な詮索はしない。

 けれども、興味は湧いてくる。

 だから、あたしは無線機に近づく。

 こわごわと身構えながら、さらに一歩を近づける。

 すると――

 ザザーッというノイズが辺りの空間に響き渡る。

 それは、あたしが、あのとき海中で聞いたノイズ?

 いや、違うか?

 けれども、あたしの連想では、それ以外が何も浮かばない。

 そう思えば思うだけ、同じノイズに感じられる。

 二つの異音があたしの中で、あたしを無視して合致する。

 あたし自身が二つに裂ける異様な感覚に包まれる。

 その向こうから呼に声が聞こえ……。

 あたしを呼ぶ声も聞こえてくる。

 メイと呼ぶ声が聞こえてくる。

 いや、違う?

 それは、メイとは言っていない。

 ならば、レディー・メイと言っているのか?

 もしもそうなら――

「クルト爺さんか?」

 あたしが無線機に問いかける。

 古色蒼然とした無線機に問いかける。

 旧型無線機の操作法など、あたしにわかるはずがない。

 だから、それに問いかける。

 疑いもせず、問いかける。

 もしも、あたしに用があるなら応えるだろう。

 必ず……、

 そうでなければ単なる島の粗大ゴミ。

 昔この島に持ち込まれ、毀れ、忘れられてしまった存在だ。

 すると――

「ジジジジジ……」

 あたしの問いかけに応えるように無線機が思案気に鳴っている。

 考え事をするような音を放つ。

 ついで――

「ダメ、ダメ、ダメ……」

 聞こえてきたのは、えっ、まさか?

 あたしの声?

 それで、あたしが動転する。

 すぐさま、無線機のあった位置まで駆け出そうとし、足を取られる。

 ぐにゅっと生き物を踏んだ感触がある。

 確認すると、どうやらマトンバードの巣穴に、あたしは足を突っ込んだようだ。

 あたしに踏まれてきっと痛かったろうが、その雛は無事で――実は良く見えていないのかもしれないが――怒ったような目つきであたしを睨む。

 ついで、あたしの踝を嘴で突付く。

「いてっ!」

 あたしが叫び、巣穴から飛び退くと、そのときにはもう無線機が消えている。

 先ほどまで無線機があったはずの場所にはピソニアの枝が落ちている。

 あたしが急いで――もちろんマトンバードの巣穴には最大限の注意を払いつつ――その枝のあるところまで駆け寄っても、ピソニアの枝が無線機に化け返ることはない。

 それであたしはその場に仰向け、先ほど感じた湿り気の正体がブラックノディの小水や排泄物であることを不意に悟り、ぐったりする。

 もう一歩も動けない気がし、その場で眠ろうと努力する。

 その眠りがたとえ死を呼ぶものであろうとも、あたしは気を失ってしまおうと投げ遣り気分。

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