4-4 頭痛

 この島に来て二週間があっという間に過ぎ去っている。

 それで知り合いも増えてくる。

 最初がメアリで次がDPと三人の研究員たち。

 ついで研究所その他の人とホテルの従業員にヘリポートで働く少年少女。

 それから、この島の観光客でイギリス人の資産家夫妻だ。

 夫妻は不動産業を営んでいる。

 仕事先はアメリカで、ロサンジェルス郊外にリゾート地を開発しているようだ。

 ニュージーランドのオークランドやオーストラリアのキャンベラにも関連支店があるらしい、

 直接采配が必要なときには出向くという。

 が、ここ一ヶ月は休養中。

 本国イギリスではジェーン・オースティンの『高慢と偏見』に出てくるような本物のお屋敷に住んでいるらしい。

 あたしと始めて会話したとき、七十過ぎの旦那さん=クリス・アキワンデさんが流暢なクィーンズイングリッシュであたしに言う。

「一度遊びに来ませんか?」

 と、お屋敷に誘う。

 あたしは、

「機会があれば……」

 と応えただけだ。

 けれども、そのときクリスさんのお屋敷の中で本物のメイド服を着て独楽鼠のように忙しく働いている自分の姿を想像し、不思議と優しい気分になる。

 そんな労働もいいな、と思えてくる。

 ついで奥さんのハリエットさんから、

「本当に機会があれば是非……」

 と本気で勧められたが、あたしはただ笑い返しただけ。

 その日の午後はDPと一緒に海に潜る予定を組む。

 スキューバダイビングを愉しむには、もちろん資格が必要だが、あたしにそれがあろうはずもない。

 だから、名目上はインストラクターの資格を持つDPによるレッスンだ。

 けれども、あたしは過去に経験がある。

「メイは何でもやってるんだな。で、そのお相手はきっといい男だったんだろう?」

 DPが満面の笑顔であたしに問い、

「何よ、焼いてるの?」

 あたしが応える。

 メアリと一緒だったら、しない/できない、会話。

 しばらく船に揺られ、あたしたち二人は一部洞穴になっている珊瑚の密集地帯に辿り着く。

 珊瑚の産卵時期には海が一斉に濁るというが、今はその時期ではなく、単に青白い神秘を漂わせる。

 それがあたしを驚かせる。

「大きいわね、すごいわね!」

「そりゃ、そうだろう、この島全体が珊瑚で出来ているようなものだからな」

 架空の会話があたしとDPとの間に交わされる。

 実際にその会話をしたのは、いったい何時のことだったろう?

 あのとき確かにDPは『島全体が珊瑚で出来ているようなもの』と言ったが、正確にはこの島の土――というか砂というか――が珊瑚の砕片で出来ている。

 だから、風が吹くと結構壮大な眺めとなる。

 まるで灰のように土が空へと舞い上がるからだ。

 特に船着場に程近いヘリポートは圧巻で、ヘリコプターが着くまたは立つとき、その周囲すべてが嵐となる。

 目を開けていると潰れてしまいそうなくらい、荒れ狂う。

 が、人間の背の高さよりいくらか高い位置まで吹き上げられた、この島及び周辺島特有の土または砂は一分もすれば大地に戻る。

 いつまでも空中を漂いはしない。

 それで、島の土または砂の成分が珊瑚由来だと知れてしまう。

 すなわち、普通の土または砂よりも重いのだ。

 珊瑚の他には貝類も混じっているらしいが、嵐後の結果はまったく同じ。

 珊瑚の次にウツボを見るため、器材の積まれた専用の中型ボートで移動する。

 比較的大きな海底の根や、それらが小山のように重なった隠れ根などをダイビング用語でボミーというが、そこには魚が密集する。

 島周辺にはボミーがいくつもあるが、その中にウツボの生息地がある。

 あたしには珍しいのか、そうでないのかわからないが、ヒトに懐いたウツボがいる。

 もちろん、ネコやイヌと一緒でただでは懐かない。

 秘密は餌。

 ウツボがいるボミーはダイビングスポットにもなっており、昔そこに潜ったダイバーの誰かが最初に餌を与えたのだろう。

 それが習慣となり、ウツボはベーコンやチキンを待ち侘びる。

 ハムや自分と近い種の調理された姿を待ち侘びる。

「共食いすると狂牛病にみたいな病気に罹るわよ」

 あたしがウツボに語りかけるが、通じない。

 海の中だから当然だ。

 けれども、愛の言葉ならば簡単に通じる。

 メイ、愛している!

 あたしもよ、DP!

 そのとき、不意に悪寒が走る。

 慌てて辺りを見まわすが、怪物が現れる気配はない。

 どちらかといえば自分の不調で頭が痛い。

 割れるようではなく鈍痛がある。

 影のような、霞のような、あるいは靄のような不定形のモノが頭全体に拡がっていく。

 ノイズ、ノイズ、ノイズ!

 それがあたしの感じた第一印象。

 頭の中にハエがいるのか、セミがいるのか、響きは遠いが、徐々にその声が大きく迫ってくる感じがする。

「メイ、大丈夫か?」

 そんなあたしの状態変化にたちまち気づき、DPがあたしの真正面まで泳いで来る。

 マスク越しにあたしの両目を心配そうに覗き込む。

 ついで自分のレギュレーターと背中のタンクを右手と左手で順に指し示し、自分で確認しろ、とゼスチャーする。

 あたしもすぐにハッとし、DPに云われた通り、確認する。

 ……といっても海中なので、あたしに出来ることはさほどない。

 空気に異常はないか、残圧は十分にあるか、ホースに傷はないか、そんなことを探るくらい。

 結果、レギュレーターに異常はない。

 1stステージも2ndステージにも異常はない(1stステージはタンク内のガスを8~11気圧及びダイバーが居る水深の水圧にまで減圧する部分、2stステージは1stステージで減圧されたガスを呼吸に適した圧力まで減圧する部分)。

 タンクについても同様だ。

 次にウエットスーツの傷を確認したが、大きな損傷は何処にもない。

 もっとも小さな引っかき傷なら無数にあるが……。

 他も全部異常なし。

 オール・グリーン。

 オール・ライト。

 が、こういう状態で長居は無用。

 あたしの頭のノイズは消えない。

 消えないどころか大きくなる。

 若干とはいえブンブン/ミンミンと騒ぎ続ける。

 それにつれ、視界までわずかに歪んでくる。

 だからBC(浮力補償装置)を調整する。

 あたしの真正面に再度泳ぎまわったDPのジェスチャーを一々確認しながら調製する。

 ついで、ウエイトを確かめる。

 今のあたしの状態は――当然、絶好調とはいえないが――最悪でもなく、クイックリリース(緊急時にただちに浮上するために身体からワンタッチで錘を取り外すこと)は必要ない。

 それで気持ちを落ち着かせる。

 地上だったら深呼吸をするところだが、スキューバダイビングにおける呼吸はすべて深呼吸に相当する。

 だから、そうもいかないのだ。

 とにかく気持ちを落ち着かせ、慎重に行動する以外に打つ手はない。

 あたしのスキューバダイビングのコーチでもあり、バディ(一緒に潜るパートナーのこと。スキューバダイビングでは二人一組を原則とし、グループで潜ってもそれぞれ二組ずつに分けられる)でもあるDPに、あたしは浮上のサインを示す。

 ついでインフレーター(BCに空気を入れるための蛇腹状のホースのこと)を左手に持つ。

 インフレーターを持つのは浮上に際しBC内の空気が膨張したとき、すぐに排気ができるように……。

 ついで、浮上を開始する。

 DPと向き合い、一緒に浮かぶ。

 誰でも知っているように、すべてのダイビングで浮上は、ゆっくり、が原則だ。

 何故なら水中では地上では考えられないほどの高圧力に身体を曝すことになり、その影響で、通常は体内に吸入されない窒素などの気体が体内に吸入されてしまうからだ。

 思考の継続を妨害する窒素酔い。

 が、浮上が十分ゆっくりならば、これらの気体も十分ゆっくりと体外に放出されるので問題ない。

 問題なのは急浮上で、気体の体外への放出が時間的に間に合わなくなり、それらが身体中に気泡となって残ってしまう。

 その気泡が血管内に生じ、血の循環を妨げるのが減圧症。

 気泡で血管が閉鎖されれば当然命に関わってくる。

 ……というほど重要な浮上スピードがどれくらいかというと、小泡の浮上スピードと同程度。

 直径一ミリメートルほどの小さな泡が海中を上昇するスピード、と言った方がわかりやすいか?

 経験すれば一目瞭然(?)だが、体感的にノンビリし、とにかく鈍い。

 が、焦りは絶対禁物。

 右手を上にし。左手にインフレーターを持ち、排気の準備に身構える。

 フィン(ダイビング用の足鰭のこと)のキックも慎重にする。

 水面を見上げ、気泡に合わせ、一秒に三〇センチメートルほどのスピードで浮上する。

 このとき呼吸は絶対に止めない。

 排気しながら浮上する。

 BCの排気バルブを操作し、余分な空気を排出する。

 そうすることで、浮上速度を維持するのだ。

 水面に近づくにつれ、BC内の空気膨張及びドライスーツの浮力回復が生じる。

 だから、浮上速度に十分な注意が必要となる。

 呼吸は止めない。

 絶対に止めない。

 ダイバーは海中で、そのときの深度に合わせた圧力の空気を呼吸しているが、水面に近づくにつれ、空気が肺の中で膨張する。

 呼吸により膨張した空気を逃すので、浮上中には絶対に呼吸を止めてはならないのだ。

 あたしが最初にそれを習ったのはいつだろう?

 そして、誰からだろう?

 記憶を探るがサルベージされない。

 けれども身体は覚えている。

 それでも記憶の界面には上らず、識閾下という水面下に潜んでいる。

 DPも同じ速度で上昇する。

 徐々に水面が近づいてくる。

 三六〇度回転し、頭上をしっかりと確認する。

 どこにも妨害物はないようだ。

 水面下三メートルくらいでしばらく止まり、やがて界面を突き抜る。

 ザバーッ!

 ようやく海上に躍り出る。

 海面では最初に浮力の確保が必要となる。

 それでBCに空気を入れ、確保する。

 空気残量が少ない場合は口から息を吹き込むが、今回残量は十分だ。

 BCを確認後、辺りの様子を確認する。

 視界の中にボートが見えるが、かなり遠方。

 波間に漂い揺れている。

 五、六〇メートルは離れているか?

 浮上した海の深さから逆算し、アンカー(錨)を下ろしたときのロープの最大張りが――ボート距離に換算し――十五メートル前後として、その四倍。

 波のリズムに乗り、サーフゾーンを通過前に一旦動きを停止。

 波の動きをチェックする。

 波頭が崩れ、白く泡立った部分をダイビング用語でサーフゾーンという。

 そこでは規則正しく進んできた波が崩れ、乱流発生。

 だから、エグジットまたはエントリー(それぞれ水から出る/入るの意)を行う際に身体を持っていかれないように注意する。

 また、この状態の海水中には多量の空気が含まれるので水の比重が軽くなり、相対的に身体の浮力が減ってしまう。

 だから、気をつけないと再沈する。

 溺れなくても、遠くまで流されれば命に関わる。

 今回のエキジットポイントは中型ボート。

 そこまで波に乗る必要がある。

 DPを見遣ると、あたしの状態を落ち着いた様子で観察。

 大丈夫そうだと判断し、ジェスチャーする。

 頭、胸、肺、腕、腿、脚先などを順に指差し、ボートまで辿り着けるかどうか訊いてくる。

 それで、あたしは自分の頭からノイズが消えていることにようやく気付く。

 すっかり消え、気分も既に晴れやかだ。

 それで、DPにOKのサインを出す。

 両腕で頭の上にOの字を作り、それを示す。

 するとDPが承認を示すように首肯く。

 けれどもすぐに、自分が先にボートまで泳ぎ、ついで戻って来ようか、とジェスチャーする。

 だからあたしは、先に行って構わないわよ、あたしも泳いで付いて行くけど、と――上手く伝わったのかどうかわからないが――下手なジェスチャーでDPに伝える。

 それで、DPが泳ぎ始める。

 その後を追い、あたしもゆっくりと泳ぎ始める。

 身体の自由を確認しながら……。

 心の自由を満喫しながら……。

 エキジット場所が砂浜だったら、まず泳げる所まで泳ぎ、バディと協力し、身体を支え合いながら立ち上がる。

 波が穏やかならばフィンを脱いだ方が楽になる。

 逆に波が荒いときは這って出る。

 砂浜の足場が軟らかな場合もあるので、バディと手を繋いでエキジットする。

 エキジット場所が磯場だったら、とりあえず引き波に注意する。

 海が浅くなってきたら岩などを掴んで身体を支える。

 波の動きに気を付けつつ、押し波毎に岩を掴むという動作を繰り返し、浅瀬に向かう。

 泳げなくなるまで海が浅くなったら立ち上がり、そこから一気にエキジットする。

 エキジット場所がボートだったら、各自順番にエキジットする。

 他のダイバーがエキジット中なら、カレントライン(流れのある場所で安全サポートのために船から出されるロープのこと)を持って待つ。

 そこでシュノーケルに交換する。

 やがて順番が来たらボートのエキジット箇所に接近する。

 小型及び中型ボートの場合は片腕を梯子にかけ、ウエイトベルトを外し、ウエイトが落ちないようにストラップ側を船内にいる人間に渡す。

 スキューバセット及びフィンを脱ぎ、ついで船上に引き上げてもらい、自身は梯子で船内に上がる。

 今回の場合はこれに当たるが、あたしはその他の場合も考えている。

 エキジット場所が大型ボートだったら簡単だ。

 水中まで梯子が伸びているので、フィンを外すだけでエキジット可能。

 DPを見遣ると、すでに中型ボートまで達している。

 あたしは思考の調子を確認しながらノンビリと泳いでいるので、半分の距離にも達していない。

 やがてDPが独りで梯子を上り、ボート内に移動し、アンカーを引き上げてからエンジンをかける。

 そのときあたしは泳ぐのを止め、黙ってそれを見守っている。

 ボートがゆっくりと動き出す。

 だんだんとあたしの方に近づいてくる。

 ……とそのとき、あたしは厭な気配を感じる。

 怪物ではないが、何モノかが近づいてくる気配がある。

 それが何かはわからない。

 が、あたしに災厄をもたらすであろうことだけは確実だ。

 あたしの勘に狂いはない。

 気配の元が怪物でないとしたら、論理的に解が求まるか。

 つまり、あの爺さんがやって来たのだ。

 こんなに遠いところまで……。

 いやいやDPによると、その昔この島一帯はドイツ人に支配されていたという。

 だから歴史的に、それほど遠くないかもしれない。

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