3-8 避難

 普段は気の良い町の駐在さんを勤めていたはずの山口巡査にあたしが言い、ついで自分のことを考える。

 あたしの頭が混乱する。

 燃え、沸騰し、グシャグシャになる。

 あたしが今いるこの世界は、これまであたしが通り過ぎた世界と違った反応を見せている。

 異形の怪物がいなければ、天使もいない。

 あたしの特殊能力も発動されない。

 もっとも、あたしの偽者の不気味な女が現れ、怪物と特殊能力発動の気配がやって来る。

 が、世界の均衡はまだ保たれている。

 すぐに崩壊する様子はない。

 さらに詳しく分析すれば、この世界が呼んだあたし自身の出現場所は、あたしに関する人の情が交錯する場所だったようだ。

 この町に跳ばされた多世界トラヴェラーのあたしを最初に拾った山内壮太も、今あたしの目前にいる山口修も、あたしのことが記述された古文書=深江浦文書に関係する。

 これを単なる偶然と看做すのは、いくら能天気なあたしにだって難しい。

 もちろん、すべては答のない謎の世界の出来事で、あたしはその中で弄ばれる単なる駒なのかもしれないが……。

 駒だとすれば、自由意志などあろうはずもない。

 それとも、そうではないのだろうか?

「そうだ。一つだけ先に聞かせて……」

 山口巡査の顔つきから、あたしの申し立てを無視する可能性が大きいと悟る。

 あたしは山口巡査に対する最後の回避を試みる。

「まだ、奥さんのことを愛してる?」

 あたしの問いに、山口巡査が大きく溜息。

「さあ、自分にはもうわからない。今にして思えば、妻が消え去ってからの十五年はあっという間に過ぎたが、最近の五年は忘れていたときの方が多かったよ。街に出たときは別に気にせず女を買う。もっとも職業が警官だから迂闊なことは出来ないが……」

「そう。でも、もしあなたが死んでしまったら、もしかしたら、この世のどこかに生きているかもしれない奥さんと二度と会うことは出来ないのよ。それでもいい? あたしのことを知ったって、得になることなんかまったくない。あたしは答を知らないから、あなたに答を与えられない。……あら、でも、既に遅かったようね。逃げて!」

 ズウウンという直下型地震のような真下からの突き上げがあり、あたしと山口巡査の身体が宙に浮く。

 駐在所地下に設えられた留置所のコンクリート、その上の、あたしたちがいる畳の両方を突き破り、非対称に疣の付く怪物の椀器が現れる。

 素早い身のこなしで拳銃の照準を触手に合わせる山口巡査。

 身体反応!

 それ以上の考えはないらしい。

 だから――

「無駄よ、無駄、無駄! とにかく逃げて……」

 精一杯に、あたしが叫ぶ。

 山口巡査の耳に声の届くことだけを願い、あたしが大声で叫んでいる。

 幸いなことに、怪物に襲われた衝撃で駐在所の全窓ガラスが割れ、あたしたちが外に出ることが可能となる。

 あたしは武器が欲しかったが、そんなものは何処にもない。

 この町にSATはいない。

 あるいは警視庁SITも大阪府警察MAATなどの武装特殊犯捜査係もいない。

 もっとも、たとえ彼らがいたところで、大した役には立たないだろう。

 が、山口巡査一人を逃げさせることくらい出来るはずだ。

 SATの一個師団絶滅と引き換えに……。

「早く逃げて、早く早く、早く逃げて……。やつらの獲物は、このあたしなんだから……。余計なちょっかいを出さなければ、あなたを襲うことはないのだから……」

 あたしが狂ったように絶唱する。

 が、だけどだけど、あたしの死体写真が写されたあの砂漠の地で怪物に襲われたのは、あたしとは何の関係もない住民だったと記憶が告げる。

 あたしを殺し、亡き者にすることが、怪物たち=異なる時空物理学の尖兵たちの最終目的かもしれないが、黄泉からこの世に姿を移した怪物は、あたしと関係なく食事をする。

 怪物なりの礼儀作法に則り、それが為されるといっても、餌になるのは生きた人間。

 あたしとは縁もゆかりもない人間たち。

 あああ……。

 土の中から鈍い咆哮が聞こえてくる。

 その声とともに駐在所から数メートル離れた場所から濃い茶緑の腕器が一本ぬっと飛び出してくる。

 そのとき見えた椀器の先端はすうっと延びた直線だが、見る間に縦に亀裂が走り、ヒト指のような形に変わる。

 十一本の非対称な指器をピンと伸ばす、ぎゅっと縮める、を異形の怪物は繰り返す。

 指器の集まりからなる手器で獲物を器用に捕らえ、まだ見えぬ本体のどこかにポッカリと空いた口器に誘導するのだろう。

 地面の下で怪物がいつまでも動くので、あたしたちが立つ駐在所近くの地面は大地震か、その余震のように止まることなくいつまでも震える。

 それでバランスが保てず、思わず倒れそうになるが、そうなったら一巻の終わり。

 文字通り、手器に浚われ、一直線に口器に向かうことになる。

 願い下げ!

 いつだって、何処にいたって、あたしは願い下げだ。

 やがて椀器がもう一器、土の下から生えてくる。

 さらに一器、もう一器と生え続け、キュリキュリキュリと歯の浮くような音が辺りを充たす。

 その頃にはもう、まわりの空気が泡立っている。

 得体の知れない、まるで理解できない黄泉の気配を内在する異形の怪物が醸し出す奇妙な波動が、この世界の真っ当な物理学と対決し、存在自体を泡立たせるのだ。

 やがて複数の椀器が土の上に出揃うと、最初は物憂げに、やがて信じられないくらい敏捷な動きで、怪物の全貌が明らかになる。

 全体の大きさは、椀器を最大限に伸ばしても、十メートルまでないだろう。

 今回この世に現れた怪物は、例えるならば、逆さまにしたクラゲ+逆さまにしないクモ+ドラ焼きの三笠山か、あるいは甘食を思わせる丸い胴器の周辺部にびっしりと大小の眼器を生やした異形。

 一見し、口器が何処に隠れているか想像できない。

 それを知るもっとも簡便な方法は怪物に喰われることだが、それが願い下げなのは言うまでもない。

 さらに観察すると三笠山の山肌に当たる部分にはささくれ立った細かな棘が無数に生え、その上を滑れば人間大根おろしになること請け合いだ。

「おい、矢倉茗。アイツはいったい何なんだ?」

 初期の仰天状態から回復したらしい山口巡査が、しかし冷静とは言いかねる口調であたしに問いかける。

「だから言ったじゃない。あたしの刺客の一つだよ」

「もしかしてSATを葬ったのも、こいつなのか?」

「そう。もっとも種類は違うけどね」

 そう叫ぶあたしの真上を怪物の椀器が音を立てて通過する。

「ひょう。あっぶねっぇー!」

「お前、ひょっとして、この状況を楽しんでないか?」

「まさかね! ただ、ちょっとだけ懐かしい気がするのは本当だけど……」

 それから不意に怪物の動きが緩慢になる。

 近くにいた人間の数の少なさに初めて気が付いたせいかもしれない。

 ついで、いつもの食の儀式を始める気になったようだ。

 じっくりと観察すると思ったよりも可愛らしい無数の眼器が当惑の色を浮かべている。

 あたしの姿を捉えているのか、いないのか、皆目見当がつきかねる。

 椀器の先端の手器部分を尖らせ、近くの空間内にそれを突き刺し、ジョッリ・ジョッリと、誰の目にも見えない空間の表皮を剥ぎ取る。

 それをそのまま――ただし他の手器を使って器用に細かく千切った後で――喰い始める。

 つまり今回の怪物の口器は手器を構成する十一の指器の中央にあるわけで、おそらくその部分から、いつものストローが出て来るのだろう。

 そのとき風がヒュウゥと鳴り、空間の悲鳴が辺りの闇を突き抜ける。

 予想通り、手器の中央に位置する口器の奥からストロー状の筒が迫り出し、表皮を剥ぎ取った空間の内奥部分を深く穿つ。

 食事には五本の手器が用いられる。

 残り六本の手器――つまり手器も指器同様十一あるのだ――は護身用に残されている。

 おそらく誰にもその形が見えない、この世界、この場所、この空間そのものに五本のストローが突き刺さる。

 ズルッ、ズルルルッ……、ズルッという怪物が空間内のジューシーで柔らかい部分を啜る幻想の音があたしの耳に聞こえてくる。

 ズルッ、ズルルルッ…… ズルッ、ズルルルッ……

 それが五重奏で奏でられる。

 胃の中を五本の菜箸で掻きまわされたような不快感。

 それは、怪物による喰餌行為で、この世界の通常空間の質が変えられたことによる。

 ところで、どうしているだろうかと山口巡査に目を遣ると、彼はえずいたりせず、空間変質感に堪えている。

 だからちょっとだけ、あたしは山口巡査を見直している。

 それで、こんな言葉をかけてみる。

「縁が会ったら、一回くらいあなたと寝ても良かったかもね」

「悪いが、こっちから願い下げだ」

 まあ、それが正しい選択だろうな。

 あたしは少し落ち込むが、相手にその気がないのなら仕方がない。

 いつから、あたしはこんなにモテなくなったのだろう?

 ……と、現状とはまったく関係ないことを考え、あたしが皮肉に笑う。

 その後、穏やかな数分が過ぎ、怪物は緩慢な摂食行為に満足する。

 空間内に突き刺したストローを一本ずつ抜き、口器内に回収し始める。

 さて、この先どうなるか?

 現れたときこそ勢いがあったが、すでに怪物はあたしから興味を失っている。

 怪物がこのまま地の底――実は異世界?――に還れば、天使はやって来ないだろう。

 が、再び怪物が、あたしにちょっかいを出そうとすれば天使が降りる。

 あたしはどちらを望むのだろう?

 怪物はどちらを望むのか?

 その直後、予期せぬ事態が発生する。

 頭上から、バリバリバリという音が聞こえてくる。

 その音に驚き、あたしが上空を見上げると、そこで旋回していたのは――懲りないやつだな!――陸上自衛隊所有のヘリコプターAH‐1コブラ。

 それが複数機、舞っている。

 更にその上空を、おそらくマクドネル・ダグラスF‐15J/DJと三菱F‐2A/B数機が遠巻きに旋回。

 それらジェット戦闘機から狙いを定め、ミサイルを打ち込めば、怪物の一匹くらいは退治できるかもしれない。

 が、同時に、この町もなくなってしまうだろう。

 木っ端微塵に……。

 ついでに、あたしも天国――地獄?――行きか?

 そう思い、町の中心部に目を遣ると、どうやらSATが住民の避難行動を展開している。

 まともに怪物と遣り合っても勝てないことは、おそらく、この世界でも経験済みなのだろう。

 怪物相手の無茶な戦闘を望まず、あくまで後方支援に徹するらしい。

 もっとも、そうはいっても、誰かがあたしに接触して来るはず。

 そう思い、待つとはなく待つと、案の定、軽装甲機動車(ライトアーマー)LAVでこちらに近づいてくる人間がいる。

 怪物の方はまだ大人しいが、そろそろ苛々の波動が出始める頃合だ。

 だから、あたしはこの場から動かない方が良いかもしれない。

 それで――

「高橋茗さんで間違いありませんね。あなたをここから避難させる命を受けて参上しました」

 あたしに言葉をかける二等陸尉の言葉に従わない。

 ここに至り、残念ながら黒木隊長との運命の再会は叶わなかったが、彼にとってはその方が命拾いを出来て幸いだろう。

 それに、あたしが知っている黒木隊長が、この世に存在するかどうかもわからない。

 この世は、この世なりに独立した存在だ。

 秩序を守り、現存する。

 あたしと怪物、それに天使が、まったく正しい異端者なのだ。

「ご配慮には感謝しますが、今あたしが去ると、怪物の危険性が却って増大します。悪いことは申しませんから、そこにいる山口巡査だけを連れて帰ってください」

「自分はここを動きませんよ。あなたがここに留まるなら、自分もここに留まり、あなたの命をお守りします」

 いつのまにか、おまえがあなたに代わっている。

「それなら言うけど、アンタたちに、あたしを守ることなんか出来ないんだよ。足手纏いだから早く消え去ってくれ!」

「しかしそう申されましても、自分も命令に逆らうことは出来ません」

 二等陸尉も譲らない。

 だから――

「……ったく仕方がないわね。じゃ、わかったから、とにかく二人とも一旦、車に乗ってくれない。そしたら、あたしも乗るからさ」

 そう言い、二等陸尉と山口巡査に見張られながら、あたしが素直に軽装甲機動車の後部座席に乗り込む。

 ついで車の前部座席に陣取った彼らに向かい、あたしは少しだけ腕試しをする。

 つまり、魔法の言葉をかけたわけだ。

「ではLAVちゃん、お願いね」

 すると返事は聞こえなかったが、LAVが急発進ついで急停止をし、名前を憶える間がなかった二等陸尉と山口巡査がフロントグラスに強か頭を打つけ、一瞬怯む。

 その僅かの隙に、すでに開放されいたLAVの天井から、あたしが外に転がり降りる。

「じゃ、行って!」

 一刻も早く、LAVを安全な区域に立ち去らせる。

 これで二人の日本国公務員の命は助かるだろう。

 けれども、あたしが命じたそれら一連の動きに怪物の苛々オーラが強くなる。

 遂に、巨大三笠山型非対称蜘蛛付き怪物が、あたしに狙いを定めてくる。

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