3-6 奇跡

 午後八時に店を閉め、パン棚やトレイの片づけと拭き掃除などをしていると、レジの集計を終えた山内店長が清掃の仲間に加わりながら、あたしの方に近づいて来る。

 ミヤザキベーカリーにはガラス張りの壁面を隈なく覆うようなシャッターが設けられていないので、明かりの少ない夜の町が窓の外に寂しく透けて見える。

 昼間のことがあったので、いよいよ何か訊かれるのかと思ったが、店長は無言で掃除を続け、態度を変えようとしない。

 やがて――

「もういいだろう。今日は終わりだ」

 と宣言し、その日の仕事をお開きにする。

 あたしが掃除用具を仕舞い、店の奥に入り、ほとんどメイド服に見えるユニフォーム――何故か店長があたしのために調達してくれた。何故?――を脱いでロッカーに入れ、代わりに私服に着替え、ジャケットを羽織り、店長に頭を下げながら、

「では、これで失礼します」

 と挨拶すると、店長が珍しいことを口にする。

「これから一杯、付き合わない?」

「どういう風の吹きまわしですか?」

「もしかしたら茗は忘れてるかもしれないけど、明日は店がお休みだよ。休日」

「ああ、確かに忘れていました。では、店長も一週間ぶりにノンビリしてください」

「相手がわたしじゃ、ダメか?」

「いえ、そんなことは……」

「じゃ、決まりだ」

「わかりました」

「とりあえず、敦さんの店でいいかな?」

「はい」

「じゃ、着替えてくるから、待ってて」

「お店の方から出ますか、それとも家の玄関からにしますか?」

「家の玄関からにしよう」

「はい。では、そこで待っています」

 わざわざ外に出かけるドアを確認したのは、店の入口から外に出る方が敦さんの料理屋には僅かとはいえ近かったからだ(本当かな?)。

 服を選んでいたのか五分ほど待つと、山内店長がラフなスラックスにセーター姿で現れる。

「じゃ、行こう」

「はい」

 明かりの乏しい暗い夜の町を山内店長と二人連れ立ち、ささやかな商店街をゆっくりと歩く。

 けれども、どんなにゆっくりと歩こうとも、三分足らずで敦さんのお店に着いてしまう。

 残念だ。

 あたしが敦さんのお店を店長と一緒に訪れるのは二回目。

 最初に訪れたのは、あたしが店長に拾われた日の翌日で、あたしと店長の間にはまだピリピリとした緊張感が漂い、互いにそれをどう処理して良いかわからないといった状態。

 そのピリピリ感はお店のご主人である敦さん、切り盛りしている奥さんの真央さんたちにも伝わり、しばらく皆が所在を無くす。

 そんな感情の混乱の中で、あたしの気持ちを和らげたのは敦さんの手料理だ。

 おそらくいつものように自然な気持ちで拵えたはずの『めばるの中国風レンジ蒸し』。

 奇跡のようだが、本当のこと。

 後にあたしが独りでお店に出向き、敦さんに直接聞いたレシピは以下になる。

 材料は、めばる(小二尾)、塩(少々)、ねぎ(二分の一本)しょうが(一かけ)、酒(大さじ一)、ごま油(大さじ一)、オイスターソース(小さじ二)、豆板醤(少々)、香菜(少々)。

 まず、めばるはウロコとワタを除き、水洗いしてから水気を抜き、斜めに二、三本切れ目を入れ、耐熱皿に並べて塩を振る。

 ねぎとしょうがを千切りにし、その上にのせる。

 酒とごま油、オイスターソース、豆板醤を合わせ、まわしながらかけ、ラップをし、五〇〇Wの電子レンジならば六~七分加熱。

 途中で一度取り出し、皿に流れたタレをかけなおす。

 最後に加熱されためばるを器に盛り、香菜を加えて出来上がり。

 なんていうか、まあ、それはとにかく優しいお味の料理で、あたしの心を和ませる。

 あのとき、あたしに取り憑いた緊張を脇へ追いやる役目を果たす。

 もしかしたら、あたし自身に似つかわしいかもしれない、純朴で小さな奇跡を発生させる。

 他の器に盛られた『新玉ねぎと豚肉の炒めもの』や『牛肉と菜の花/たけのこの炒めもの』、さらに別種の一品料理も、あたしの心を――少しずつだが――爽やかに蕩けさすのに十分な効果を発揮する。

 あのとき、あたしは人に拾われた単なる小動物から、もしかしたら一人のヒトに戻ったのかもしれない。

 孤独で知り合いの誰一人いない独りぼっちのあたしが、まるで家族のように店長や敦さんや真央さんたちから迎え入れられた瞬間だ。

 そんな、まだ思い出にもならないお店にあたしと店長が二人で肩を並べてつつ一歩を踏み入れると、

「おや、二人で来たか? いらっしゃい」

 と敦さんが早速言う。

 暖簾を潜るか、くぐらないかのタイミングだ。

「お任せしますから、お奨めをお願いします」

 店長が頼むと、

「壮太さんのところから貰ったパン粉で揚げたカキフライとか、どう?」

 厨房から顔を出し、真央さんが口を挟み、

「ああ、いいですね」

 店長が応え、あたしが思わずにっこりする。

 そのときばかりは、すべて世は事もなし、と流れていく。

 お店自体は――まだ夜も浅いのに――常連さんたちで八割ほどの込みようだ。

 そんなに広い店でもないので、言葉の交錯が凄まじい。

 でも、それも酔いが程よく身を癒すまでのことだとわかっている。

「壮太さん。どう、雪の松島、行くかい?」

「手に入ったんですか?」

 そう答える店長の笑顔が眩しく、あたしは自分のことのように嬉しくなる。

「壮太さん、アレ、大好きだったよね?」

「良く、ご存知で……。お願いします」

「真央、頼むよ」

「ハイ、これ!」

「おお、旨そうだ」

「じゃ、茗ちゃんにも一杯」

「ありがとうございます。いただきます」

 そう応え、あたしがお猪口に冷で注がれた日本酒に口をつける。

 黄金色に膨らんだ馥郁とした香りを愉しみつつ……。

 その刹那、何故だか急に脳裡に浮かんだワイル爺さんに向かい、『悪いけど、このお店の料理に合わせるのだったら、やっぱりビールやエールじゃなくて日本酒だよね』と同意を求める。

 けれども、次の瞬間に予感が走る。

 何かが近づいてくる気配がする。

 けれども、それは怪物じゃない。

 あれら怪物たちが漂わせる黄泉の国の臭いじゃない。

 あの世に存在する怪物ではなく、それはどこか身近な、それゆえにあたしを苦しませる人間的で切ない臭いのようだ。

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