3-3 日常

 パン屋さんの朝は早い。

 もっともあたしが担当しているのは販売スタッフの仕事なので、製造スタッフである店長と同じ時刻に起きる必要はない。

 あたしの仕事は、焼きあがったパンの陳列やカウンターでレジを打つ業務。

 それと、店内の清掃や片付けなどだ。

 レジの仕事では、お客さんがレジまで運んできたパンの料金を清算する。

 ミヤザキベーカリーに限らず、生もののパンにはバーコードを貼りようがないので、まず商品の名前と値段を憶える必要がある。

 清掃作業は当然、店の開店前後に行うが、営業中でも必要ならば、レジ打ちの間に頃合いを見計らいながらする場合もある。

 さらに、お客さんが運んできたトレイを片付ける仕事がある。

 ミヤザキベーカリーに職を得、最初に大変だったのは、やはり商品の名前と値段を憶えることか?

 あたしは生まれ付き不器用だから、パンを袋詰めするときに形が壊れないように注意するのにも気を遣う。

『見た目も美味しくするように』が、山内店長の座右の銘。

 そう言う店長は昔、別の職業についていたらしい。

 でも、今では何処から見ても立派なパン屋のご主人だ。

 職業が人を変えたのか、あるいは逆に人が変わり、求める職業が変わったのか?

 あたしはそれを知らないが、今が幸せならば、それでいいのだと思っている。

 業務中は基本的に立ちっぱなしだが、これに関しては、まったく平気。

 並みの男性とは比べ物にならないかもしれないが、あたしにだって、それくらいの体力はある。

 それに比しても店長の仕事は大変だ。

 パンを生地から作る仕事だから、もちろん経験が必要で、仕事内容が専門的だから、簡単に誰かに任せられない。

 あたしも数回、頼んで現場を見せて貰ったが、見るに易く――それは店長が才能と経験をフルに発揮しているからだが――、行うに難しと痛感させられた見学となる。

 外せない用事があるときには、パン生地の生成を前日に行い、それを冷凍させ、翌日に使用することもないわけではないが、大抵は朝の二時前に仕込みを始める。

 冷凍生地を使用せず、販売店に隣接した工房で生地を一から製造するオールスクラッチ店の場合、珍しくもないこと。

 あるとき、あたしは、

「どうして店長はこんなに大変なパン屋さんを一生の職業に選んだんですか?」

 と訊いてみたことがある。

 それに対する店長の答えはちょっと変わっていて、

「パン屋をしていると、どうしたってパンやイースト菌の匂いが身体にこびりつくだろう。それが、いつか自分の身を守ってくれるという御伽噺を親しい人に聞かされたからかな?」

 と照れた顔つきで打ち明ける。

 その照れ顔の下に透けて見える表情が吃驚するくらい生真面目で、あたしは狐に抓まれた気分になる。

 日本にマイスター制度がないわけではないが、それがなくてもパンを作る技術と場所と資金さえあれば、パン屋を開業することができる。

 ただし、いくつもの資格が必要だ。

 まず、食品衛生責任者の資格。

 これは保健所で申込書を貰い、記入/郵送した後、講習を受ければ得ることができる。

 次が営業許可証。

 これを得るためには営業許可申請をすることと食品衛生法施行条例に定める施設基準に合致した施設を作ることが必要だ。

 営業許可申請は、営業所を管轄する保健所で行う。

 営業許可には期限があるので、満了後も引き続き営業を継続する場合、許可の更新手続を忘れずに行わなければならない。

 基本的にパン屋は菓子製造業という扱いなので、例えばサンドウィッチなどを作る場合は飲食店営業の扱いに変わる。

 ミヤザキベーカリーの場合――店舗内に小さな試食コーナーを設けているので――飲食店営業の許可も得ている。

 話は別だが、頼まれて大量のサンドウィッチを作ることもある。

 日々の仕事を続けながら、あたしはそんなことを学んでいる。

 知るとはなしに知った知識が溜まっていく。

 山内壮太店長は、物凄く多種のパンを焼き上げることができる偉大な人。

 フランスパンだったら、いわゆるパン、バゲットはもとより、ペティ、ブール 、ミシュ、フィセル、バタール、エピ、クーペ、リーヴル、カンパーニュ、セグル、パリジャン、ファンデュ、リュスティク、それからパン・オ・ヌワ(くるみパン)、ヴィエノワズリ(菓子パン)、クロワッサン、ベニェ、ショソン、ブリオッシュ、ガレット、サヴァラン、ババ、クイニーアマンなどとなり、

 ドイツパンだったら、ヴァイツェンブロート、キプフェル、ブレートヒェン/ゼメル、ゾンタークスブロート、ツォプフ、ブレーツェル、ロゲンブロード、プンパニケル、ホルン、シュトレン、ミシュブロート 、バウアーンブロートなどとなり、

 イタリアパンだったら、グリッシーニ、パネットーネ 、パニーニ、フォッカッチャ、ロゼッタ、ピザ、パーネ・カラザウ、パンドーロ、スフォリアテッレ、チャバッタなどとなり、

 イギリスパンだったら、スコーン、イングリッシュ・マフィン、ホットクロスバン、ウェルシュケーキ 、クランペットなどとなり、

 その他ヨーロッパ地域として、デニッシュ、クリングル(デンマーク)、セムラ(スウェーデン)、クリスプ(北ヨーロッパ)、ババ(ロシア、ウクライナ、ポーランド)、ピロシキ(ウクライナ、ベラルーシ、ロシア)、チェブレキ(クリミア)、ソーダブレッド(アイルランド)、ツレキ(ギリシャ・ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)、チョレキ(トルコのツレキに同じ)、クック・ド・ディナン(ベルギー/小麦粉と蜂蜜が原料の壁飾りにも使われる長期間保存用の硬いパン)、ピサラディエール(モナコ/薄いパンにペースト状に炒めたたまねぎを乗せて更にその上にアンチョビとブラックオリーブを乗せる)などとなり、

 北アメリカのパンならば、中・北欧、英国、イタリア起源の種類を除くと、コーンブレッド、トルティーヤ、フライブレッドなどとなり、

 南アメリカのパンだったら、ポン・デ・ケイジョ、エンパナーダ(ブラジル)、クニャペ(ボリビア)、サルテーニャ(ボリビア)、アレパ(コロンビア、ベネズエラ)などとなる。

 インド/中近東のナンやチャパティあるいはプーリーなどは作らない。

 同様に中国、香港、台湾、韓国、その他東南アジア地域の焼餅(シャオビン)、パイナップルパン(ポーローパーウ)、太陽餅(タイヤンピン)、ホットックなども作らない。

 もちろん、代わりに日本のパンは多種作れる。

 菓子パンとして、あんパン、ジャムパン、メロンパン、クリームパン、チョコレートパン、レーズンパン、味噌パン、蒸しパン、コロネ、かにぱん、甘食、ぼうしパン、ウグイスパン、さらにコッペパン、バターロール、食パン、乾パン、堅パン、揚げパン、カレーパンなどが、その広いレーパトリーを形作る。

 もっともそのすべてを店内に並べることがきないので、その中から数種を選び、店長は今日もまたパンを焼く。

 店で良く売れるパンの種類が決まっているから、定番のライ麦パンや大小フランスパンの他にメロンパン、チョココルネ、焼きカレーパン、くるみレーズンパン、それにピロシキなどを中心にレパートリーをずらしていく。

 上記した種類のパンはすべて写真とともに店内に展示してあり――ということは、最低一回は店長が作ったわけだ――、お客さんからリクエストがあれば、店長が応えるシステムとなっている。

 これは前店長時代後半からのシステム。

 現店長は前店長に命ぜられ、わざわざフランスを初めヨーロッパ各国にパン作りの修行に行かされたことを懐かしく語る。

「最初に宮崎さんにそう命じられたときは、正直、エッ? となったよ」

 朝の十時を過ぎるとしばらく店が暇になる。

 ここが都会ならばそんなことはないのだろうが、店が混雑するピークは、始業前、お昼前、おやつ前、夕食前とはっきりしている。

「前に勤めていた会社が地方で結構有名な商事会社だから、英語とドイツ語くらいは片言で喋れたけど――まあ、ジャングリッシュや日本式ドイツ語だったが――、そこをヘンなふうに見込まれたのかもしれないな」

「でもその間、お店で働ける人は前店長独りだけになったわけでしょう? てんてこ舞いだったんじゃないですか?」

「それは、まあ、そうだっただろうが、とにかく宮崎さんが、『行け、行け!』って煩いもんで、こっちもまだ若造だったから、『じゃあ、行きます!』って応えてさ。今思えば、むちゃくちゃだったな」

「でも、そのおかげでいい経験が出来たとか?」

「ああ、それは確かに……。だけど、かなりひどい目にもあったから。もう一度行きたいとは思わないよ。さすがに……。しかし、あのとき無理してまで外国に修行旅行に行かせてくれた前店長には足を向けて寝られない」

「あたしも店長には足を向けて寝られないです」

「本当にそうか?」

 そう言い、山内店長がふと考え込む。

 何かを思い出しているのか、

「ふうっ」

 と吐息を吐くと、こんなことを言う。

「茗と出会えたのもタイミングだったんだろうな。あるいは、きっかけ? 人間どこで誰に出会うか、また何を失うか知れたものじゃない」

 そう語りながら山内店長の顔が曇る。

 普段は普通に明るいけれど、山内店長には陰がある。

 近くにいれば、おそらく誰でも気がつくはずの暗い陰。

 もちろんあたしにそれを詮索する気はないし、誰かに秘密を教えてあげると持ちかけられても断るだろう。

 でも、店長には笑顔の多い日々を送ってもらいたいと願っている。

 あたしの存在が少しでもそれに寄与できれば良いな、と思っている。

 けれども、そのときあたしはまだ自分の気持ちに気づいていない。

 自分より、こんな年上の男に恋心を抱いていたなんて気づかない。

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