3-1 連続

 目覚めた部屋は昨日のままで、だからあたしは日々が連続するのを感じている。

 あたしが居るのはパン屋の二階。

 バイト先二階の角部屋に、あたしは住み込みで働いている。

 働き始めてから二週間経つ。

 あたしが部屋に入る前、角部屋は一ヶ月あまり空いていたそうだ。

 前の住人は故郷を離れ、都会に出たという。

 あたしと同じミヤザキベーカリーでバイトをしていた大学生。

 もちろん、それ以外のバイトで家庭教師もしていたらしい。

 大学生は男性で、中央の都市で就職が決まり町を出た、と店長の山内壮太さんがあたしに語り、あたしが「ふうん」と首肯き、くしゃみをする。

 ミヤザキベーカリーなのにオーナー店主の名前が山内なのは、前の店主の苗字が宮崎だったからだ。

 今では引退し、店より西、生まれ故郷の山村に引き払っている。

「それじゃあ、お店をそっくり譲られたんですね?」

 あたしが訊くと、

「土地と店舗はいずれ宮崎さんからそっくり買い取るつもりだけどね。今はせっせと賃貸料を払っているところ」

 店長が答える。

 店長の言葉に訛りはない。

『土地ど店舗はいんずれ宮崎はんで買い取らつもりんしたばって』

 と言いはしない。

 それは店長が都会の出身者だからで、そんな店長がどうしてこんな田舎町でパン屋を営んでいるのか、あたしはまだ店長から聞かされていない。

 たったひとつのことだけを除いては……。

「だけど、前の店長が示した毎月の支払い額が少なくってね。まったく、いつ店が手に入るかわからないよ」

 そう言って笑う。

 笑い顔は朗らかだ。

 だからその金額が満額に達しなくても、いずれミヤザキベーカリーが土地ごと前店長から現店長に譲られるのだろう、と察しがつく。

 さらに、いざそのときが来れば現店長が、それを頑なに拒むだろうということも頭に浮かぶ。

 今ここで起こっていることのように見えてしまう。

 だから、あたしは訊いてみる。

「前の店長って、そんなにいい人だったんですか?」。

 それに答えて店長が、

「仕事の点では厳しかったけど、うん、それ以外は優しい人だな。ただ、それを人前で見せられるような器用な人じゃないんだけどね」

 と説明する。

 それから前店長の人柄を偲ばせるエピソードをいくつか、店長があたしに聞かせる。

 それは何処にでもある話、また誰にでも体験がありそうな話だ。

 けれどもで現実には、優しい人たちの世界でなければ、ありえない類のエピソード。

 だから、あたしは感極まって泣いてしまう。

 美しいものを見て美しいと思うのは、その人の心が美しいからだといったのは、この県出身の右手を失った彫刻家だっただろうか? 

 学校の窓ガラスを誤って割ってしまった子供の代わりに前店長が小学校の校長先生に謝りに行ったという話を聞いて、あたしは泣く。

 殺伐とした世界では、どうでも良いようなエピソードに涙してしまう。

 不意に目の奥がウルウルし、鼻をグスッとしたら、堰が切れたように涙が溢れる。

 いつまでも溢れ流れて止まらない。

 そんなあたしを扱い兼ね、山内店長が困惑する。

 あたしの過去を知ってか知らずか貰い泣きさえし始める。

 だから、そのとき偶然店に入って来た赤ちゃんをベビーカーに乗せた若い母親に吃驚される。

 母親とほぼ同時に入店してきた女子高生にも驚かれる。

 あたしは店でまだたった二週間の新顔だが、赤ちゃん(女)も、若い母親も、女子高生も皆知っている。

 狭い町だから当然だ。

「いったい何があったんです?」

「ねえ、どうしたの?」

 若い母親と女子高生が、しきりにあたしを心配する。

『いって何があっだんじゃ』

 あるいは

『きゃえ、どしたんずや』

 とは言わずに、アクセント以外はほぼ標準語で、しきりにあたしを心配するが、

「いえ、何でもありません、わたしの昔話に彼女が、ちょっと大げさに反応してしまっただけで……」

 店長はまるで実の娘のように、あたしの頭をポンポンと叩き、

「さあ、無駄話はお仕舞いだ。仕事、仕事……」

 と、あたしのことを急き立てる。

 それで、あたしは気を取り直し、売り子の顔に変貌する。

 たった今、店長が垣間見せた優しさに、またも涙腺を緩めてしまいそうになるのを必死に堪えつつ……。

 あたしに出来る限りの極上の笑みを、赤ちゃんと若い母親と女子高生に向かって浮かべてみる。

 それはあたしがいつか誰かにもう一度見せたくて、けれども叶わなかった笑顔だろうか?

 それとも、そうではないのだろうか?

 けれどもはや、そんなことはどうでも良いか。

 こうやって今、目の前にいる人たちに、あたしは極上の笑顔を向けられるのだから……。

 こうやって今、この人たちを実感していられるのだから……。

 そう思うあたしが見せた決意の笑顔と競い合うかのように、女の赤ちゃんが『きゃあら、きゃあ』と本当に楽しそうな笑い声を上げる。

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