2-3 怪物
そのまま街を散策しながら午前中を過ごす。
神社に寄り、寺に寄り、小学校を眺め、病院を眺め、それから最初に歩いた路面電車の走る大通りに戻り、ゆるゆると北上。
その前に時刻が十時を過ぎたからと自分に言い訳し、地方都市の名が冠せられた大学構内をうろついてみる。
もちろん喫茶店の彼は見つからない。
さらにノンビリと北上し、H公園に至る。
一休み。
ベンチに腰掛けると嗅ぎ慣れた匂い(臭い)を鼻腔が捉える。
やれやれ、あたしは餌か?
思わず見まわした公園内に人影は疎ら。
だから、わずかにあたしが安心する。
けれども、そのとき別の勘が働く。
それで注意深く辺りを観察すると日本警察の特殊部隊(SAT)がいる。
あるいは、それに類する警視庁SITか大阪府警察MAATなどの武装した特殊犯捜査係が……。
彼らは公園の各方面境界付近でソロソロと、しかしテキパキと一般市民を避難させている。
その数を全部合わせれば五十名くらいになるだろうか。
気がつくと怪物が発する黄泉からの匂いが先ほどより濃厚。
それで、主催者があたしを自由にしておいた理由がわかる。
やっぱり餌じゃないか!
怪物を誘き寄せるための……。
が、これまでの経験と違い、この世界であたしを知る誰かさんは、怪物の存在が感知できるらしい。
すなわち、いくらこのあたしを怪物用の餌に設定したところで、独自の怪物センサがなければ、事前の避難は実施できない。
それを恙無く行っているのだから、少なくとも、この世界であたしを知る誰かさんは市民の敵ではないようだ。
もちろん、この世界の市民ではないあたしに知ったこっちゃないが……。
微かに地面が震えている。
あるいは、そんな感じ……。
匂いはわずかに薄くなるが、感覚的には近寄っている。
気づくと、公園内の民間人はあたし独り。
他は遠巻きに、AR‐15やH&KG36Cなどの短銃身ではなく、StG44かAK‐47らしきアサルトライフルを装備したSAT部隊が公園周域を取り囲む。
さらに頭上から、クレッシェンドする戦闘用ヘリコプターのバラバラ音。
近くのビル屋上に、レミントンM700かM24だと推定されるボルトアクションタイプの狙撃用長距離ライフル銃身が複数鈍く光る。
その照準は、もしかしたら世間の噂か事前のブリーフィングで聞かされただけで、未だ彼らが姿を見たこともない怪物に合わせられているのか?
それとも、あたしを狙っているのか?
現時点では判断できない。
だから、孤独感がふらっと身体を駆け上る。
彼らに撃たれて死ねたらいいのに……。
ついでクラッと眩暈がし、周囲の空間の質が変わっているのが体感される。
眩暈で揺れた頭を元に戻すと、仕掛けられたような携帯電話に気づく。
数メートル先のベンチの上に、誰が置き忘れたのか、ポツンと捨て置かれている。
あたしの仲間?
怪物が現れるまで、まだ数分の余裕があると、経験に裏打ちされたあたしの理性が告げる。
だから携帯電話が置かれたベンチまで、ゆっくりとあたしは移動し、携帯電話を取り上げるとベンチに坐って会話する。
「アロー、この世界のことを教えてくれないかな?」
しばらくノイズ。
盗聴されているのかしら、と訝しむ。
すると――
「ねーしゃん、ほんとに帰ってきたけん。たまがったちゃ!」
携帯電話が喚く。
意味が取れないわけじゃないが、できれば標準語にしてくれよ、と願う。
すると――
「まい、そん方のよかならそーしゅるばってん(まあ、その方がいいならそうするけどね)」
願いが伝わったようだ。
「状況は?」
「おそらく最悪!」
「この世界に、怪物は何度も現れてんの?」
「口伝や、文献に載っているような伝承以外じゃ、初めてじゃないかなぁ? 詳しいことは、わからないけどさ。ねーちゃん用のプロテクトを掛けられた仲間たちも大勢いてね」
ふうん、なるほど。
緘口令、じゃなくて口封じか?
その辺りのことも知ってるわけね。
話題を変える。
「ところでさ、さっきあたしが帰ってきたっていったけど、それってどういう?」
「ねーしゃんには記憶のなかんか?」
「うん、ぜんぜん憶えがない」
「や、別人かもしれんけんな」
「でも、あんたたちは認識したんだろ?」
「だけん、接触はでけんかったちゃ。やけんノイズげなかもしれんけん」
どうも、その辺りがよくわからない?
そこでタイムリミット!
円形の噴水がある池の水面が小刻みにキリキリキリと揺れ始め、ついでその中から鈍い咆哮とともに濃い茶緑の腕器が一本ぬっと飛び出してくる。
椀器はいくつもの節に分かれており、それぞれに、さらに縦溝が走る。
表面は、スチールの強度くらいはありそうに思われる剛毛に覆われ、それが池の境界となるコンクリートに摺れ、キュリキュリキュリと歯が浮くような音を立てる。
まわりの空気が泡立ってくる。
得体の知れない、理解できない、ナニモノかを初めて目の当たりにしたヒトの波動があたしに伝わり、ついで二本目の椀器が、噴水の脇、地下に流れ落ちる水の中から現れる。
ついで、もう一器。
さらに一器。
やがて気怠く物憂げな感じで、怪物の本体=腹器が迫り上ってくる。
椀器というのか、脚器というのか、そのどちらなのか判断しかねる器官がさらに四器、既に地下の空洞にすべての水が流れ落ちてしまった水枯れ池から現れ、ぷるんと震える。
低い咆哮を放つ口器がある顔器は腹器と直接繋がっている。
斜めにこちらを向いたときわかるが、カニの甲羅のような背部に、桜の花びら状の口器。
つまり何かを喰うときには、獲物を椀器で口器の真上まで持って行き、落とすのだろう。
考えただけでも、おぞましい。
怪物が獲物の骨を砕く音が耳に聞こえるようだ。
数分かけ、ようやくH公園内に全貌を現した怪物は、腹器の前後左右に付いているドングリ眼を愛らしくキョロキョロと動かし、辺りを探る。
怪物としては、特に大きいとも思えず、長径六、七メートルといったところ。
近くにあたし以外に人がいないことに当惑したのか、訝しげに全身を左右に揺らす。
しばらくその動作を繰り返すが、やがて自身の当惑にも飽きたようで、椀器が届く範囲の空間内にそれを突き刺し、ジョッリ・ジョッリと、誰の目にも見えない空間表皮を剥ぎ取り、ゆっくりと口器に運びはじめる。
そのとき風がヒュウゥと鳴り、空間の悲鳴が公園内を突き抜ける。
SATにもヘリコプターにも、まだ目立った動きはない。
怪物は摂食行為を続けている。
ついで、いつものように口器の奥からストロー状の筒を迫り出し、長く延ばし、 表皮を剥ぎ取った空間の内奥部分に深く穿つ。
延ばしたストローの先端がそのまま空間の中に消えてゆき、あたしにも、おそらく他の誰にも形が見えない、この世界、この場所、この空間そのものに突き刺さる。
ついで――
ズルッ、ズルルルッ……
怪物が空間内のジューシーな柔らかい部分を啜る幻想の音があたしの耳に聞こえてくる。
ズルッ、ズルルルッ…… ズルッ、ズルルルッ……
胃の中を菜箸で掻きまわされたような不快感に襲われる。
怪物による喰餌行為で、辺りの空間の質が一気に変えられた結果だ。
後にも先にもそんな訓練を受けたことがないSAT隊員の数名が遠くで、堪えきれずにえずいている。
数分間、怪物の緩慢な摂食行為が連綿と続く。
が、やがて満足したらしく、空間内に突き刺したストローを口器内に回収し始める。
さて、次はどうするのだろう?
そのまま消えれば天使は来ない。
が、あたしにちょっかいを出すか、あるいはSATが挑発し、最終的にあたしに危害が及びそうな状態になれば、天使が降りる。
だから、とりあえず挨拶する。
ベンチから立ち上がり、怪物の目の前まで近づき、
「気付いてるんだろ、怪物さん!」
声を荒(あら)らげることなく、そう告げる。
すると、あたしが放ったその言葉に、物憂げに怪物が反応する。
……といっても、初めてあたしに気づいたように、愛くるしい瞳をであたしを一瞥しただけだが……。
だから――
「あたしを泳がせといていいのか! それとも一気に決着をつけようか?」
煽ってみるが反応はない。
さすがに考える頭脳があるのか、ないのか不明な怪物のこと、これといった反応を見せる気配がない。
……と思った矢先、怪物の椀器一つがあたしに向かう。
それがあたしに到達する直前、SATの銃が一斉に火を噴き、伸ばした怪物の椀器先端(鉤爪部分)をわずかに削る。
流れ弾の風圧であたしの頬に蚯蚓腫れができる。
それが辺りの寒さにヒリリと疼く。
さぁて、やっちまったな。
知らないよ!
心で思うと、
「してしもうたな、知らんばい!」
あたしの掌中で、携帯電話が同意する。
邪魔になっては申し訳ないので、あたしが怪物から遠ざかる。
園内を記念像の方に移動する。
するとSATが怪物迎撃とあたし保護の二手に分かれ、それぞれのミッションを遂行するため、分隊する。
当然あたしに宛がわれた人数の方が少なく、わずか三名。
残り全員が怪物迎撃に向け、隊形を散らす。
さすがにランチャー付きロケット弾車輌は現れないが、バズーカ砲というのか、携行可能なM72LAWまで担ぎ出されてきたので吃驚する。
……ということは、警察組織で対応できなければ、次には自衛隊が動員される?
頭上で旋回するのは、陸上自衛隊所有のヘリコプターAH‐1コブラ。
が、それで事態が改善するとも思えない。
怪物の目玉がクルクルと回り、現れたSATたちを観察する。
間合いを取っているという感じ。
怪物の動きに応じるようにSATも出方を伺っている。
そして――
「お名前は存じ上げませんが、あなたを保護しろという命令を受けています」
あたしに宛がわれたSAT隊員の分隊長らしいオジサンがあたしに言う。
厳つい顔付きだ。
「ご同行願えますね」
礼儀正しいが、有無は言わさぬ感じ。
だから――
「今のところ逃げる気はないけどね」
あたしが答える。
「そん気になりよったら勝手に逃げるけん」
そう続けた時点でSATと怪物のバトルが始まったようだ。
轟音が数回連続して響き、耳に届く。
先ほどのノンビリとした摂食行為を観察する限り、怪物はまったく愚鈍な存在にしか感じられない。
けれども一度、事を起こせば、恐るべき機動力を発揮する。
あたしの鼻腔はすでにヒト血液由来のヘモグロビン臭を感じている。
振り返って彼らの闘風景を確認したいが、SATのオジサンに阻まれ、見ることができない。
だから――
「邪魔すると、あんたも簡単に死ぬよ!」
そう脅すが、さしたる効果は現れない。
見上げたオジサンの顔付きからSATの劣勢は明らかだ。
放って置けば、喰われることもなかったろうに、食後のスイーツとして数名が骨まで砕かれたようだ。
ボリボリ・ガリッガリッという音が、あたしの耳許まで届いてしまう。
「ぜんたい、なんの起きよった!」
SATのオジサンが呟いている。
オジサンの左右にいる二名のSAT隊員も顔面蒼白だ。
「何モノなんだ、あいつは? きみはアレを知っているのか?」
思わず口をついた質問か?
だから、とりあえず、
「それを知るのがあんたたちの任務じゃないだろ」
と答えておく。
ついでオジサンの腕を押し退け、怪物とSATの既に終わってしまったバトルをあたしが見る。
怪物は去るところだ。
一方、SAT隊員は約一割が喰われ、半数が死に、残り全員が怪我の激痛に呻いている。
「あたしだって知らないんだよ」
あたしがオジサンに続けて言う。
「怪物ということ以外はね」
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