2-1 無人
目覚めた部屋には鉄格子が嵌っていない。
だから何回目かの始まりのときと違い、拘置所にはいないと知れる。
それでは何処にいるのかというと、どうやらホテルのようだ。
それも安っぽくてケバケバしいラブホテルではなく、かなり高級感溢れるシティーホテル。
もしかすると一泊数十万を超える部屋かもしれない。
ふかふかのダブルベッド斜交いの壁に掛けてある――中身はきっと水晶発信式デジタル仕様の――アナログ時計を見ると午前六時。
まだ、全然朝とわかる。
その時計の掛かる壁に直交するのは、だだっ広い嵌め殺しの窓。
覗くと、外には海が拡がり、その手前には橋、さらに手前には港湾ビルと数台のクレーンが見える。
それらすべて、あたしがこれまで見たことがない景色だ。
少なくとも、憶えている記憶の海を探る限り……。
加えて、腑に落ちない違和感が感じられる。
が、記憶は蘇ってこない。
あたしは今度、何処にいるのだろう?
世界から見放された空間孤児の、このあたしは?
まったく薄穢さのないVIPルームにいても、心に不安が湧き上がってくる。
それは場末の路地裏で寒さに凍えながら、わずかな人の温もりを求めるときとまったく同じ。
せめて野良犬でもいてくれれば、心gaいくらか温まる。
一疋の青猫だって『さびしさ』の象徴にはならないはずだ。
近くに誰も――何も――いないのが、いちばんキツイ!
そう感じて再び眼下を望mi、違和感の正体にあたしは気づく。
見渡す限り、景色があっても、船があっても、クレーン車があっても、コンテナがあっても、それらがまるで昆虫のように規則正しくちょこまかと動いていても、本来あるべきはずのものがない。
単刀直入にいえば人がいない。
光景からの人の欠如。
ホテルの部屋の高さから計れば、蠢くアリのように見えるはずの人の姿が、眺める光景からまったく欠けている。
けれども、まだ記憶は蘇ってこない。
が、頭の中では非常ベルが鳴っている。
チューブラベルの音色でわおんわおんと色を光に引き裂くように、嘘を真実で塗り固めるように、あたしの脳膜を破り、破裂しそうな勢いで鳴り響く。
けれども、そこに怪物の匂いが感じられない。
芳しくはないが、獣臭でもない、あの独特の、少なくともあたし自身に、この世のものではないと確信させる黄泉の匂いがない。
あたしの頭の警鐘はヒトの悪意に反応しているようだ。
怪物や天使が本来持っている天真爛漫ともいえる、それゆえに把握不能で怖しい無邪気さの色は微塵もない。
あるのは悪意。
それも誰あろう、このあたしに向けられた悪意だ。
あるいは苛立ちかもしれない。
あたしが常にあたし自身に感じている得体の知れない焦りにも戸惑いにも似た苛立ちとは別種の、あたしではない、この世界の人間があたしに抱く苛立ち。
その苛立ちが、あたしを行動に走らせようと、あたしの背中を一押する。
が、その前に……。
冷静に、冷静に、冷静に……。
焦って、事に当たり、ロクな結果に至った試しがない。
もっともあたしの場合、考え自体が浅はかなので、冷静になったところで大差ない。
それがが悔しいといえば、悔しいが……。
言ってしまえば、頭と身体の奥の奥のずっと奥の芯の付け根が、これまでの体験から得た諦念と諦観でヘリウム温度くらい冷たく醒めているはずなのに、それでも自分を諦めきれず、瞬時発火する傾向があたしにはある。
だから、ここは気を落ち着けて、冷静に、冷静に……。
バスルームに向かい、巨大な鏡に全身を晒す。
ほとんど見慣れたいつもの姿。
黒いタイトジーンズに、黒いTシャツ、黒いジャケットに、肩まで垂れた黒髪が映る。
メタル系を思わせる細いプラチナ製の髑髏の首飾りが似合っている。
頭と顔は小さくて浅黒く、背は百六十センチに満たないが八頭身あり、脚が長くてスタイルが良い。
少なくとも、自分では良いと信じたい。
右手の人差指で右目のまぶたの下をグイと下に引っ張ると、鏡の中の黒い誰かがあたし自身にアカンベーを返す。
頬を歪め、微笑めば、微笑を返し、秋波を送れば秋波を返す。
にっこりと笑えば可愛くないこともない顔だと自分で思う。
が、すぐに無表情に戻ってしまいそうで、ちょっと怖い。
そんな感じ、そんな感覚……。
最後に舌を出し、用を足し、バスルームを出る。
どこにも病気の色はないようだ。
それらを行っただけだが、不安感レッドゾーン気分が程良い程度に解れている。
なので、一応尋ねてみる。
「あーっ、あーっ、あーっ、本日は晴天なり。本日は晴天なり。It's fine today. マイクテスト、チッチッチッ、チェック、チェック、ハー、ハー、one、two、three、four、ハロー、ハロー、ヘイ、ヘイ、ロウ、ロウ。……聞こえてますか、あたしをこの部屋に運んだ人。いるんでしょ? ねっ、いるんでしょ? 聞いてるんでしょ? このカス野郎!」
当然のように返事はない。
だから応接室を横切り、ドアに向かう。
ドアノブをまわすと普通にまわる。
鍵は掛かっていない。
「ふうん」
感心しながら廊下に出る。
絨毯が立派で奥の壁には画が掛けてある。
それが何故かバルテュス=本名・Balthasar Klossowski de Rolaの暖炉前の獨掛けソファに横たわり手鏡を見ている少女の画なので、すごく傲慢な悪意を感じる。
いや、バルテュス自身に悪意はない。
それは当然。
けれども、ここにタンギーの楽しげな抽象立体の乱舞を配置しなかったから悪意になる。
そんな感じ。
そんな解釈……。
これがレオノール・フィニの丸っこくて大きな猫たちと一緒に棚に詰まった少女たちの画だったら、すべては冗談になってしまうのだろうか?
エレベーター室に向かうまで押し黙り、いくつかの部屋を覗いてみる。
みんな鍵が掛かっていない。
どの部屋にも人影がない。
エレベーター・ボタンを押すと、ほどなくエレベーターが到着する。
箱に乗り込み、扉の上の意匠数字を見上げ、階を確認。
七階を通過するとき厭な記憶が蘇るが、何かが起こるような気配はない。
それから重力が軽くなる感覚があり、やがて一階に辿り着く。
エレベーターを降り、エントランスに立つが、依然、人の気配は微塵もない。
そういう意味では悪意も薄れてきたようだ。
だから、もしかしたらそんな世界に跳んだのかもしれないと思ってみる。
世界に限りはなく、悪意にも限りがない。
ただ、それら悪意はすべて人間から生まれたものだ。
あるいは範囲を拡げて、宇宙の偏った頭脳構造を持つ知的生命体からと言い換えても良いが……。
ホテルの外に一歩出ても、それまでと雰囲気が変わらない。
典型的な港町と思える光景が広がるばかり。
意気消沈しても詮無いと思い、目の先に見える銀行らしき建物に向かう。
異変が起こったのはそのときだ!
まだ全然建物に到達してもいないのに、ゴツッ、とあたしが何かに打つかる。
感触は壁。
つるつるした表面を持つ写真が滑らかに切れ目なく貼られた天まで続く巨大な壁。
まったく悪い冗談としかいいようがない。
それで引き返し、大理石のホテルの角を曲がり、向かいの通りに出ると静止画がある。
何百人ものヒトやモノやクルマが溢れ、それらすべてが停止している。
雰囲気が良いカフェテリアの店外テーブルに顔のない書割りの貴婦人たちが穏やかに坐り、本物のニルギルとアールグレイが香っている。
ニューススタンドに並んだ雑誌は全部ハリボテで、もちろんページは開かず、本来あるはずの裏ページは存在しない。
別建物のエントランス前の石階段に近づけば、その手前でやはり紙製の歩道に脚を取られ、それでつんのめり、コンビニが見える方向によろければ、それが巨大な幕に写された詳細写真で、遥か上空から建物上階とその上の空ともども、音を立て、あたしの上に落ちてくる。
幕と一緒に大量に振ってきた埃に噎せ返りながら、何とかその落下物から逃れると、幕の向こうを凝視する。
あろうことか、そこには砂漠が拡がっている。
広大無辺な大地があり、熱い太陽が深海魚まで焼き尽くすように照りつけている。
が、そこに暑さは感じられない。
だから、逆反射的に、あたしはブルッと身震いする。
ついで金属光沢を放つ蛇腹塀に辿り着き、悪態とともにそれを蹴り上げると痛い。
それで、その金属塀が本物だとわかる。
腹を立て、その先に並んだ建物の窓ガラスをバンバンと手で叩きながら進むと、やがてある位置でバランスを崩し、頭からその一枚に突っ込む。
しかし幸いなことに、それがズボッと破れ、頭が向こう側にスポッと抜ける。
そのまま左右を見まわすと丁寧な職人仕事の木組みが見え、それもまたどこかの大道具係が作った書き割りと知れる。
なんともはや、ご苦労なことだ。
その先には、湾岸都市巨大倉庫の壁が広がっている。
その下にポツンと小さな出入口が見える。
あたしは書割りの木組みから全身を引き抜き、倉庫の床にすっくと立つ。
掠り傷以上の怪我はないが、服は汚れて真っ白だ。
もちろん本来はカラスの濡れ羽色のあたしの髪の毛も……。
ついで諦めたように全身にまとわりついた埃を払うと、あたしは倉庫の出入口に向かって歩きはじめる。
そのときふと気がづき、巨大書割りの裏を眺めると、あたしに宛てた殴り書きのメッセージ。
ようこそ、わたしたちの世界へ! 歓迎の趣向は気に入ってもらえましたかな?
フン、何を考えてやがるのか。
大層な金をかけて……。
あたしが悪態をつく。
記憶に残っている限り、自分が跳んだ世界から、こんな歓迎を受けたことは嘗てない。
さらにいえば、歓迎を受けたことさえ初めてだ。
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