1-9 凄惨

 地獄絵図とはこのような光景をいうのだろうか?

 拘置所での光景も確かに酷いものだったが、怪物は彼らと彼女らにとって正しい食事作法に則り摂食していたので、食べ残しはない。

 けれども、ここに広がる警官たちは単に慰めに殺されたようにしか見えないのだ。

 よしんば食事だったとしても、まったくの食い散らかし!

 そして――

 当然いるはずと思われる怪物の姿を、あたしはそこに発見できない。

 気配はある。

 濃厚に……。

 けれども形がない。、

 何処にも……。

 今回の怪物は空間そのものか、あるいは空間を保護色にしている、としか思えない。

 そんな、見えない怪物と同一空間に一瞬たりとも同時にいたいとは思えない。

 けれども――

 グルルルーッという怪物の立てる低い咆哮が二十メートルとは離れていないあたしの目の前の空間から聞こえてくる。

 ホテルの内側からも、さらに外側からも、パニックの風圧が高まってくる。

 緊張と畏れとアドレナリンの入り混じった独特の異様な雰囲気に誘われたのか、ホテルの外側からエントランスに向かい、大勢の人々がホテル内を覗き込んでいるのが見て取れる。

 化粧ガラスの豪奢なホテル外壁を透かし、さらにその先に連なる数百もの人々の姿が見える。

 振り返れば、あたしの後ろには仰天した顔つきの何十人ものホテル従業員及び宿泊客たちの姿がある。

 中にはあまりの惨劇に気を動転させられ、同僚にきつく抱きかかえられている者もいる。

 やがて――

 ヌルッという感じでホテル前面右側の化粧ガラスと吹き抜けの二階へと通じる螺旋階段を含む一廓が、ずれる。

 目や気の迷いかと惑う瞬間のうち、それが元に戻る。

 そしてまたヌルッとずれ、瞬く間に修繕され、そしてまたずれ、修繕される。

 緩慢な繰り返しだ。

 ズレの全体像から怪物の体長が七~八メートルはあり、またその姿は背中にも足の生えた巨大なカニのようなものではないかと推測できる。

 見えないのだから無論、表情がわかるはずもないが、これまで出遭った怪物たちと同様、この透明新種も、どこか憎めない愛嬌のある相貌をしているのかと思うと絶望的な気分。

 やがて――

 第二の静かな惨劇が始まる。

 フワっという感じで浮かぶようにエントランスに侵入していた何人かの人々を見えないハサミで次々に捕らえると、瞬時に己の口器に運び、ガリッ・ボキッと聞こえる、いつ聞いても耳慣れない空気の振動を撒き散らしつつ、怪物がゆるゆると犠牲者を貪る。

 ときにはジェルッ・ジェリッという啜り音を立て、体液を啜り込む。

 聞くうちに吐き気がしてくるが、あたしにはまだ経験がある。

 初めてこの惨劇を体験した者は、すでに吐瀉物を辺りかまわず巻き散らかしている。

 血の通った人間の吐くエグイ臭いが鼻腔を刺す。

 ついで、それらを遠くから目撃していた人々にパニックが発生。

 空気がわーんと膨らみ、揺れ、さんざめいてから、ぱあんと破裂する。

 独特の衝撃波が辺りを襲う。

 そんな中、遠くから響いてくる警察隊のパトカーのサイレン音。

 冗談みたいにくっきりと、あたしの耳に聞こえる。

 怪物は食事を続けている。

 辺りに憚るつもりはないようだ。

 恐怖で意識を失い動けなくなった犠牲者はいくらもいる。

 この状況下では上手く逃げおおせた人間は褒め称えられよう。

 形振り構わず逃げていった者ものが勝者。

 勇気の質なんて関係ない。

 そうできなかった者たちの未来の姿は見返りのないただの生贅なのだから……。

 生贅?

 その言葉が胸を突き、思わずあたしは考えてみる。

 血の臭いと叫喚が充満する地方ホテルのエントランス近傍で……。

 罪のない犠牲者たちを助けることに興味はない。

 それはあたしの問題ではない。

 申し訳ないが、それは彼ら自身の問題だ。

 しかし生贅ならば、あたし以上に相応しい存在はないだろう。

 心が叫ぶ!

 もう、うんざりだ。

 止めよう。

 状況が許してくれないならば、こちらから状況を毀すしかない。

 そういうことだ。

 彼らを救うのではなく、あたし自身を解放するために……。

 そう思い、あたしが怪物と対峙する。

 怪物はいつもあたしを無視するが、あたしに気がついていないわけではない。

 きつく睨めば、それなりの反応を返す。

 あたしが怪物をねめつける。

 さあ、もう理由なんて要らない。

 あたしを喰え!

 あたしの周りをウロチョロするな!

 空間でも、時空でも、あるいは何かの、価でも、荷でもいい、欲しいのならばくれてやる!

 すると――

 透明怪物がこちらを向いた……ように感じられる。

 もちろん姿は見えない。

 けれども、フフフッ……と人間でいえば嘲笑に似た笑みを浮かべ、あたしを凝視。

 ……したような動きを垣間見せる。

 本当のところはわからない。

 わかりようがない。

 怪物の思いなど、わかるはずがない!

 しかし怪物は動きを止める。

 飽食後の食事のようなけだるい摂食を止め、空間をヌルッ、ヌルッと瞬間ずらしつつ、あたしの方に近づいてくる。

 その口からは人間の血の臭いが漂ってくる。

 それを除けば獣のような生臭さは怪物にはない……と思うのだが、この透明怪物はどこかこれまでのヤツらとは異なっている。

 これまでの怪物は、言葉の正しい意味で、この世のモノとはかけ離れた存在だ。

 しかし、この怪物は?

 もしかしたら、この世界あるいはこの時空に対応した新タイプなのか?

 怪物の背中の、先端部にハサミがついた腕器がしゅーんと低い音を立て、不意にあたしに迫ってくる。

 そんなふうに空間がずれる。

 あっという間もなく、あたしを挟む。

 フワリと……。

 あたしの身体が空に浮かぶ。

 次の瞬間――

 辺りの時空が閃光で真っ白に変わり、轟音とともに、あたしの天使が光臨する。

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