1-6 誕生

 生まれたときの記憶を持っているヒトはいない。

 まず、いないと思う。

 よって、あたしが憶えているのは何か間違った記憶の断片もしくは実際の記憶だと信じている模造記憶なのだろうが、その映像はいつでも鮮明に脳裡に浮かぶ。

 霊安室。

 さして広くもない。

 死体を安置する冷蔵庫を除き、畳で十畳、団地サイズなら、十二帖といったところ。

 常備灯は消されていたが、非常灯が眩く輝いている。

 脚は黒いが表面が白の細長テーブルがあり、その上に死体が無造作に仰向けに置かれている。

 女の死体。

 結論からいえば、それがあたしの母ということになる。

 そんな情景を、まるで誰かの視線をなぞっているかのように見ているあたしがいる。

 そんな映像。

 もっとも視点が思ったより高かったから、誰かの視線ではなく、監視カメラの映像かもしれない。

 死体の腹は最初まったく膨れていない。

 それが、あるときを境に急に膨らみ始める。

 時間経過は一様ではなかった気がする。

 もっとも時計を見た記憶がないので、単に感覚的な話だが……。

 特にきっかけはない。

 けれども、あるとき急に女の腹が膨らみ始める。

 今思えば何処かの空間と、そのとき不意に繋がったのかもしれなかい。

 が、そうだとすれば、その死体は本来の意味ではあたしの母ではなく、単なる通路に過ぎなかったということになる。

 けれども、その点は置いておく。

 死体は、若くも美しくもなかったが、老醜をさらしても、必要以上に崩れてもいない。

 その顔が――記憶によれば覗き込むように凝視したのだが――誰かに似ていたかどうか良くわからない。

 死体特有の青白さが、生きている間はヒト族全員が身にまとっている人間らしさを綺麗に剥ぎ取り、死体一般の集合領域に融け込ませていたせいかもしれない。

 つるりとした眉間の皺の形が、それを増長させる。

 やがて――

 ヌチャッという音がし、産声が上がる。

 視点はその先、赤ん坊と重なる。

 よって最初は何も見えない。

 けれども何かを感じてはいる。

 鼻がまだ殆ど機能していなかったことが幸いか。

 とにかくヌチャヌチャの中に、あたしがいる。

 ついで濃厚な体液とともにズルッと滑り、テーブルから床に落ちる。

 記憶はないが、そのときの落下が、あたしの後頭部絶壁を造り出した要因だろう(笑)。

 あたしは泣いている、泣いている、泣いている。

 声はそれほど大きくないが、普通の赤ん坊のように泣き続ける。

 それが良かったのだろうか?

 赤ん坊の感覚で飽きるくらいの時が経過した頃、霊安室の扉が開き、外から手が伸び、電灯が点けられる。

 部屋の中が瞬時にぱあっと明るくなる。

 あたしは一瞬、泣き止んだようだ。

 が、すぐさま、また泣きはじめる。

 そこに手が伸び、あたしを抱きかかえる。

 その手は(たぶん)暖かい。

「なんてことが……」

 あたしを抱きかかえた男の声が聞こえる……というより感じられる。

 あたしをぎゅっと抱き締め、頭を撫ぜて、

「おー、よしよし」

 と優しくあやす。

 恐怖がその後、男を襲う。

 男があたしを胸にかかえ、霊安室を去ろうとしたときだ。

『そんなものはない!』

 不意に死体が口を利く。

 ついで――

『存在する多くの知性体は『私』として認識される自分自身やあるいは己の魂というものが存在すると思っているようだが、実際に存在するのは、その入れ物である身体や、外界認識器官より入力される各種感覚や、それらを形付けた表象や、感情等を伴う意思作用や、認識/思考といったそれぞれの構成要素の集合体であって、そしてそのどれもが私ではなく、私に属するものでもない』

 女が生き返ったわけではない。

 死体が死体のままメッセージを伝えている。

 少なくとも、あたしにはそう思える。

 あたしを抱いた男もそう感じたようだ。

 ぴくんと全身を震わせ、身体中の温度が降下。

 その冷たさが、すぐあたしにまで伝播する。

 ついで男は金縛りにあったように動けなくなる。

『けれどもまたそれらの要素以外に私があるはずもなく、そういった分析を続けていけば、結局のところ、この世の中のどこにも私などというものは存在しないと判断せねばならない』

 さらに――

『本来すべてのこの世が内容物の限られたあるいは無から生じた差し引きゼロの増えも減りもしない世界であり、その移ろいのみが世界のすべてであったはずなのだが……』

 一字一句正確ではないが、凡そそれだけを告げ、女が普通の死体に戻る。

 その先の説明はない。

 男は神に祈ったりする仕草を一切見せず、霊安室を静かに去る。

 あたしの記憶はそこで途切れる。

 男がその後しばらくの間、あたしの育ての父となったのか、そうではなかったかの記憶はない。

 一連の出来事の最中、あたしが泣き続けていたのか、息を潜めていたのかどうかの記憶もない。

 ただそういう出来事があったという記憶だけが、十代後半の頃からだと思うが、あたしの中に徐々に形成されていったのだ。

 幼少時の記憶はきれいさっぱりと閉ざされている。

 十代後半になるまで、その記憶はあたしの中で封印されていたらしい。

 少なくとも似たような体験を思い出したことはない。

 おそらく、その封印が解かれて以降のことだ。

 夢で見る存在だけのはずだった怪物と天使が、実際に、この世の中に存在するようになったのは……。

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