第21話 地中に響く断末魔

 『こ、これは──』カルネギの紅息の中は視界が悪く、広く見渡す事は出来なかったが、そこかしこに全身から血を流した者たちが倒れている。思っていた以上の惨状にその中には子供をかばう様に自らの衣服で覆い隠したにも関わらず、結果的に母子共に全身から血を流し倒れている姿も見られる。幸いまだほとんどの者は息がある様だ。早速、ナーゼたちは倒れている者たちを荷車に乗せて、カルネギの紅息の範囲の外へと運び出し始める。


 『不可視障壁ヴァントクラルーテ


 シュヴェールの祈祷術で一瞬、目の前の空間が歪んだかの様に見えたが何も現れ無い。いったい何をしたのか。不思議に思い後ろを振り向くと、『気にするな。進め』とシュヴェールから指示が出る。オレには教えてもくれないのか。その直後にミュルが声を上げた。


 『来るぞ!』ミュルがそう言うのと同時に弓を構える。オレは大楯を持つ手に力を込めて衝撃に備える。紅色の濃霧の中から、一瞬、艶のある赤黒い肌をした巨大な芋虫が姿を現すと、勢い良く噴出した紅色の濃霧と共に砂埃が舞い上がる。しかし、透明な壁の様な物が現れてオレたちへの直撃を防いでくれる。先程、シュヴェールがしていたのはこれだったのか。少し前までは何をしたのか教えてくれなかった事に腹を立てていたが、今はその名前に『様』を付けて呼びたい気分だ。


 一瞬、何かが風を切ってオレの横を通り過ぎた気がした。その刹那、『ギュアァァー!』とおぞましい叫び声が上がる。さっきのはミュルの放った矢か。大楯に身を潜めるオレは、覗き穴から状況を確認しようとするが、視界が悪く何が起こっているのかまったく解らない。ミュルはすぐに次の矢を構え、オレの後ろではシュヴェールが祈祷術を唱えている。頼む。何でもいいから早く倒してくれ。


 『ドガッ!』すぐ近くに強い衝撃を感じる。カルネギの攻撃だ。しかし、それはオレの持つ大楯へのものでは無い。シュヴェールの祈祷術で出現した透明な壁への衝撃だ。オレの持つ大楯だけでこんな攻撃を防ぐのは、命がいくつあっても足りない。彼女は最初からそう感じていたのだろう。


 『ギョァァー!』またミュルが矢を放った直後にカルネギの悲鳴が辺りに響く。当たった。しかし、視界が悪くどの程度の傷を負わせる事が出来ているのかは確認できない。間を置かずにシュヴェールが両掌を前へ突き出すと『伏せろ』とオレに命じる。その直後にボーリング球くらいの大きさの燃え盛る火球が放たれる。紅色の濃霧の中に火柱が一つ上がる。命中したのだろうか。いける。やはりコイツらは本当に強い。オレがそう確信した矢先の事だった。


 紅色の濃霧がゆっくりと動き出すのを感じる。街の入り口の方へ向けてゆっくりと流れて行く。


 「シャルヴェールさん、これって──」

 「この先に何かおるぞ」


 オレの問い掛けに珍しく困惑した表情を浮かべながら、シュヴェールが呟く様に答える。その声に反応する様にミュルが弓を構える。まさか、一匹だけじゃないのか。オレの緊張は既に最高潮へと達していた。





 『姫様、オーゲルから連絡がありました。ヤツらがカルネギの紅息付近に姿を現わした様です──』スキアーズの報告を受けるシャルヴェールは、街外れの酒場の裏で高等祈祷術の儀式を行う。


 寄せ集めで作られた祭壇には、酒と生肉と捧げられている。そして、その儀式も既に最終段階を迎えていた。簡易的に作られた祭壇の上には一枚の呪札が祀られる。それは通常の白色の呪札では無く、青黒く不気味な輝きを放つ呪札だ。


 「そ、それは? 姫様、いったい何をする気なんですか!?」


 怪しい微笑みを浮かべるシャルヴェールの瞳が紅色に輝く。


 『お前らはついてるぞ。滅多に見れない物を見せてやる』そう言うと、シャルヴェールは不気味な青黒い輝きを放つ呪札を手に取り、呪札に魔力を注ぎこみ儀式の仕上げを行う。呪札は放られると同時に真っ黒な炎を燃え上がらせ、辺りを煙が包み込む。やがて、空間が歪み赤黒く仰々しい大きな扉が姿を現した。そして、扉は音も無くゆっくりと開く。中から眩い光と共に大量の蒼白い霧が溢れ出し、それと同時に辺りには言い様の無い奇妙な気配が漂い始める。


 スキアーズはその見た事の無い異様な扉に、言い様の無い不快感を覚える。それが異界の門である事を知らない彼にも、目の前にあるその扉が只ならぬ存在であり、シャルヴェールがこれから何か大変な事を仕出かそうとしているのを直感的に感じ取れた。


 「さあ、見せてみろその力を。死者の国へと繋げ!」


 『死者の国!?』スキアーズはその言葉で目の前に現れた扉が、噂に聞く異界の門である事を確信する。こいつは本当に不味い事になりそうだ。賃金が良く、祈祷王の息女だからここまで付いて来たが、これ以上は危険過ぎる。彼の直感がそう囁く。スキアーズは迷うことなく、密かに祈祷術で自分の影の中に真っ黒な魔物を潜ませた。


 「異界の門よ。兄上をここへ!」


 その言葉に反応するかの様に扉の中から光が溢れ出し、空間に大きな歪が生まれると、やがてそこに青白い顔色をした見覚えのある人物が姿を現した。




 

 目の前に広がる紅色の濃霧を悠然と眺めるブッハの後ろに、隠れる様にその光景を覗き見るフルークが恐る恐る進言した。


「ブ、ブッハ殿、愚問は承知ではありますが、カルネギの紅息を吸えばタダでは済まないのはご存じなので!?」 


 ブッハはその言葉に反応する様に、一度だけ振り返りフルークを一瞥するが、そのままカルネギの紅息へと向かって歩み出した。その時、紅色の濃霧の中に強い衝撃音が響く。


 「カ、カルネギが暴れているのか!?」


 いったい何が。困惑するフルークを余所に、ブッハは更に歩を進めると、無造作に左手を突き出すと同時にいきなり呪文を詠唱する。


 『無限暗黒球ドゥンケリアス

 「ブ、ブッハ殿!? いったい何を──」


 その言葉と同時にブッハの掌の前に、拳よりもひと回り大きな漆黒の球体出現した。やがて、フルークは辺りを漂うカルネギの紅息が、自分たちの方へ向かって来る様な異様な圧力を感じる。何が起こっているのだ。シュタルテン皇国では賢者と称えられる彼も、魔法省第十席の高位に着くブッハを目の前にするとその輝きを失う。やがてフルークは気付く。違う。カルネギの紅息は近寄って来ているのでは無く、ブッハの左掌の前に出現した漆黒の球体に吸い込まれているのだ。


 目の前の紅色の濃霧が無くなっていくのと同時に、地面に倒れる多くの者たちの姿が現れる。やはりカルネギは侮れない。その直後にカルネギの紅息の中に火柱が上がる。自然の炎では無い。ブッハは瞬時にカルネギ以外の何者かがこの紅色の濃霧の中にいる事を悟る。何者かも確認する前に高位の攻撃呪文を行使するのは問題の種となり得る。ブッハは『武具召喚アルマヴァッフェ』の呪文を唱え、手元に出現した稲妻を纏った漆黒の長剣を手に取る。




 一様に『魔法使い』と呼ばれてはいるが、じつは祈祷師などを含めその種類は多種多少だ。あえて大別するとすれば、三つに分けられる。まず最初に戦闘に特化した能力を有するタイプ。次に国を治める能力に特化するタイプだ。これらの中でも特に能力に優れた者が、魔法省をはじめとする国家機関に身を置く事を許される。そして、三つ目が生活全般に特化するタイプだ。シュタルテン皇国の国民の大半がこれに属する。魔法の根付いた生活と言うのは実に便利なものだ。例えば、衣服ひとつにしても、魔法で軽量化や強度補正が施され、人気のある店には必ずと言って良いほど腕利きの魔法使いがいる。食事に関してもシュタルテン皇国のそれは、ベスティアとは比べ物にならない高度なレベルを維持していた。


 戦闘に特化する魔法使いを更に分別すると、魔法力に頼った戦闘を得意とする者と、物理的な攻撃に魔法による付与効果を使って戦闘するのを得意とする者がいる。フルークはどちらかと言えば内政に特化する魔法使いであり、今までもその能力を生かして出世して来た。しかし、ブッハの場合は少し特殊だ。彼の黄金色の瞳と漆黒の肌は悪神の血を色濃く引いている現れだ。本来であれば魔法省でも第五席以内の更に特別な地位に着くだけの実力を有していながら、未だに第十席に甘んじているのは、シュタルテン皇国国内においても魔神に対する畏怖と偏見を持つ者が少なくないためだ。そんな彼が大人しく執事長の座に着いているのは、シュタルテン皇国魔法省第一席、最高責任者であるブラン直々の推薦によるものだ。


 ブッハの黄金色の瞳にはある特殊な能力が秘められている。見ただけでその魔法の特徴や魔力の大きさが瞬時に理解できる。つまり相手が魔法使いであれば、だいたいの強さが見て取れるのだ。これは魔神であれば当然の能力で一つだが、魔法省の一員としてはとても便利な能力であった。だが、そのブッハを持ってしてもブランの能力はまったく理解の及ばない存在であった。この者には永遠に敵わない。その思いがブランに対する中世の証となり、また、彼の実力を認め自らの執事長へと推薦してくれた事への恩義を感じていた。そんな彼にとって執事長として彼女に仕える事にこの上ない喜びであった。


 沈着冷静で完璧な執事長。だが、その本性は魔神の血を引く者だ。目の前に葬り去るべき対象が現れれば、躊躇なくそれを実行し、その対象が自分の実力をぶつけるに値する相手であれば喜びすら感じる。純粋な魔法力だけに限らず、その腕力すら軍事省の上級士官を上回る。『さて、行くか──』黄金色の瞳を微かに血走らせるブッハは、初めて狩りに出掛ける少年の如く胸を躍らせる。久しぶりに籠から放たれた鳥の様に、今まさに自由に羽ばたこうとしていた。




 ブッハは自らとフルークに『呪詛無効化インエフェクティーファ』の呪文を唱えると意気揚々と紅色の濃霧の中へと進んで行く。


 「ブ、ブッハ殿、お待ちください!」


 フルークは慌てて自らを対象に『防御壁呪文デェフューヴァント』の呪文を展開し、ブッハの後を追い恐る恐るカルネギの紅息の中へと入って行った。



 


 『で、出た!』紅色の濃霧の切れ目に赤黒い肌をヌラヌラと光らせるカルネギが姿を現す。オレが思わず声を上げるとほぼ同時に、前方に強い衝撃を受けるが透明な壁のお蔭で何とか持ちこたえる。その直後にミュルの構える矢が放たれるが、今回は悲鳴が聞こえなかった。しかし、ミュルは少しも集中を乱すこと無く、すぐに次の矢を構える。早く魔鏡で封じて、一気に攻めて一気に倒して、終わりにして欲しい。しかし、オレの内心とは逆に、何故かシュヴェールは先程の火球以降は、まるで目の前のカルネギ以外の何かを気にするかの様に周囲を警戒し呪文を唱える様子が無い。やはりもう一匹いるのか。それにしても今は目の前の一匹に集中してもらわなければ。


 「シュヴェールさん、どうしたんですか!?」

 「紅色の濃霧の奥から、強い魔力を持った何者かが近付いてくる──」

 「もう一匹のカルネギですか?」


 オレの問い掛けにシュヴェールが面倒そうに『違う』とだけ答えると、カルネギの紅息の奥をじっと見つめる。『いやいや。今は目の前の怪物に集中しろよ!』オレは心の中でシュヴェールに激しいツッコミを入れながらも、とりあえず頷き納得した素振りを見せる。オレたちのいる場所より後方は、カルネギの紅息はだいぶ薄くなっており視界も良いため、少し離れた場所でナーゼたちが、倒れた者たちを荷車に乗せて運んでいるのが見える。しかし、まだ路上に倒れている者たちの姿がちらほらと見える。


 地面を蠢く巨大な気配が離れて行くのを感じる。何故かカルネギはオレたちから離れてい行く様だ。いったい何があったのだ。しばらくすると、紅色の濃霧の奥で何かが光る。その直後にカルネギの悲鳴が響き渡る。いったい何が。『近いぞ気を抜くな──』シュヴェールが険しい表情で指示をすると、ミュルはすぐに悲鳴のあった方角に弓を構える。紅色の濃霧の切れ目から天を突く閃光が覗く。その直後に、再びカルネギの大きな悲鳴が響き渡る。


 オレたちは楯を構えながら少しずつ紅色の濃霧の中を前進する。やがてカルネギの赤黒い巨体が見えて来ると、その向こうには稲妻を纏った漆黒の長剣を手にした、剣と同じ様な漆黒の肌の謎の大男が姿を現す。しかも、よく見ると少し離れた場所にタキシードを着た蛙の様なヤツまでいる。コイツらいったい何者だ。




 『アイツら何者だ!?』フルークは突然カルネギの紅息の中から現れた奇妙な三人組を警戒する様に杖を構える。ブッハもその三人組には明らかに気付いているはずだが、気にも留めない様子で目の前のカルネギに斬りかかる。ブッハの振るう漆黒の長剣が稲妻を纏いながらカルネギの身を切り裂く。本来、その素因が強大な呪であるカルネギへの武器による攻撃は効果が薄い。だが、ブッハはそんな事などお構い無しに鬼気迫る様子で長剣を振い続ける。実体化したカルネギの赤黒い肌に着けられた斬撃の痕を、一拍遅れて雷が追撃すると、焼け焦げた臭いが辺りを包む。しかし、怒り狂うい奇声を上げながら向かって来るカルネギの傷跡は、驚異的な早さで回復を続け、見る見る元通りになっていく。


 シュヴェールがミュルの構える矢に手を添えて、祈祷術を施すと矢尻が青白く輝く。『放て!』その指示にミュルが即座に反応する。背中に矢を受けて悲鳴を上げながらカルネギが振り返る。『今だ魔鏡を!』ミュルが懐から取り出した魔鏡を掲げると、青白い輝きを放つ魔境に映る姿が、一瞬、歪んだかと思うとカルネギの全身が白い膜で覆われ始める。そして、カルネギは苦しそうに悲鳴を上げながら、何かに抗う様にのた打ち回るが、やがて真っ白に固まり動かなくなった。


 『長くは持たん。始末する気が無いのなら、このまま妾が封印するが?』ほの暗い笑みを浮かべながら問い掛けるシュヴェールに、ブッハは白い牙を見せ、張り裂けんばかりの邪悪な笑みで応える。そして、右手を振り上げて呪文を詠唱した。


 『無限暗黒葬ロヴィティムナータ!』


 その刹那、カルネギの頭上に巨大な筒状の闇が現れる。筒の表面に白く輝く文様が浮かび上がると、ゆっくりと回転を始める。そして、ブッハがその右手を下ろす動きに合わせる様に、巨大な筒状の闇が身動きの出来ないカルネギを覆い尽くす。尚もブッハが右手を下げ続けると、巨大な筒状の闇はカルネギ諸共、まるで水の中へと沈む様に地中へと消えて行く。地中から微かにカルネギの断末魔が聞こえた気がする。そして、辺りには静寂が訪れ、気が付くとカルネギの紅息は跡形も無く消え去っていた。


 魔法というものをよく知らないオレにも、目の前にいる漆黒の肌の大男の強さが別格だと言うのが容易に理解できた。こうして、永遠に続くかのように思われたカルネギ討伐は、オレの活躍がまったく無いままに、予想外の終幕を迎えた。

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