第19話 回復薬 < 高位回復薬

 辺りは既に薄暗い。サトウたちの眼前に広がる紅色の濃霧は、先程までよりも更にその範囲を広げていた。紅色の濃霧の中には、地面に倒れる者たちの姿が薄らと見え隠れしている。


 「間違いない。カルネギの紅息じゃ。あの紅色の濃霧を吸ってはいかん!」


 荷車の上のメルゲンが声を上げ遠回りする様に指示する。


 「オジサン! がんばれ!」


 リーテンが大声で声援を送る。『オレは馬車馬か!』と心の中でツッコミを入れながらも、こういう役はまんざらでも無い。サトウはカルネギの紅息を警戒して遠回りしながらひたすら荷車を引いて走り続ける。今はグルトンのために一刻も早く回復薬を届けなければ。毎朝ジョギングしていたサラリーマン時代よりも、この世界に来てからタイムが縮んだ気がする。もっとも時計を持っていないので正確な時間など解り様もないのだが。




 ミュルとナーゼから視線を外したシュヴェールは、遠くに見える紅色の濃霧に目を向けた。あれは──。シュヴェールの脳裏に最悪の状況が思い浮かぶ。


 「あの紅色の霧はいつ現れたものじゃ?」

 「儂とサトウがここに駆け付けた時には既に発生しておった。どうやら徐々に範囲が広くなっている様じゃが。もしやあれも──」

 

 『恐らくはシャルヴェールの──』シュヴェールは心苦しそうに小さな声で答えると、何かを思い出した様にナーゼの顔を見て続けた。


 「妾の杖と呪札はどこへやった?」

 「あれらは、保管室にしまってある。案内しよう」


 ナーゼはシュヴェールを案内して保安所へ入ろうとして、その前で急に立ち止まった。


 「その前に一つ頼みがある。グルトンの傷を診てやってもらえないだろうか。あの黒い魔物にやられたんだ」

 「どこにおる? 怪我は酷いのか?」


 ナーゼはすぐにシュヴェールを近くの道具屋の奥の部屋へと案内した。そこには瀕死の状態で横たわるグルトンの姿があった。顔色がだいぶ薄くなり呼吸も浅くなっている。シュヴェールはすぐさまグルトンに近寄ると傷口に両手をかざし祈祷術を発動する。掌から僅かに温かさを感じる白色の光が溢れ出し、それがグルトンの体に染み入るように消えて行く。


 しばらくするとグルトンの顔色が少し良くなった。しかし、術を施すシュヴェールの表情は険しいままだ。『これは妾の祈祷術だけでは足りぬ──』傷口に掌をかざしたままの体勢でシュヴェールが悔しそうに言葉を漏らす。


 「薬草なら少し持ち合わせがあるのだが、どうだろう?」


 横からその姿を見守るミュルが、包の中から取り出した薬草を差し出しながら問い掛けるが、シュヴェールが残念そうに首を横に振る。その時、遠くからグルトンの名を呼ぶ声が微かに聞こえる。


 「サトウだ! 回復薬を手に入れたんだ!」 


 ナーゼの話を聞いたミュルとシュヴェールの顔に期待感が浮かび上がる。


 「グルトンさぁーん! ナーゼさぁーん!」


 ナーゼとミュルはサトウを迎える様に店の外へと出る。通りの向こうにサトウが必死に荷車を牽く姿が見える。何故かその荷台には薬師のメルゲンとオークの少女の姿も見える。荷車と荷台に乗っている二人の意味は良く解らないが、とにかく今は回復薬が必要だ。ナーゼは自ら駆け寄って回復薬を受け取りに行く。


 「ナ、ナーゼさん、こ、これ──」

 「サトウ! でかしたぞ!」


 サトウが息を切らしながら手渡した回復薬を、しっかりと受け取ったナーゼは『グルトン今いくぞー!』と店の中まで聞こえる大声で叫びながらグルトンの元へ駆け付けると、それをシュヴェールに手渡し『頼む!』と大声で叫んだ。


 回復薬を受け取ったシュヴェールはすぐにそれを使う事をせずに、薬の入れ物を両手で包み込むように持つとそれに祈祷術を施す。その後にゆっくりと銀色に輝く粘度の高い液体をグルトンの傷口に振りかけた。


 本来、回復薬ポーションは薄い水色をしている。薬草では治しきれないほどの大怪我や病気の治療、あるいは短時間での治療効果を得るために使用され、ごく希に、特殊な使用例として悪霊祓いなに用いられる事もある。


 グルトンの治療に使われた銀色に輝く粘度の高い液体は、通常の回復薬をシュヴェールの祈祷術で強化し、更に強力な回復力を有した高位回復薬ハイポーションだ。ノルイド周辺の平民は滅多に目にする事の無い、なかり高価な品物だ。何気なく行った様に見えたシュヴェールの祈祷術による施術は、最高位の祈祷師である彼女だからこそ一瞬にして成せた高等施術だ。


 「うっ……」グルトンが静かに目を開ける。

 「グルトン! グルトン! オレだ。ナーゼだ解るか!?」

 「し、所長……声がデカ過ぎますって……それに、傷口が開きます……」


 『馬鹿野郎! お前、ホント良かった。グルトン──』ナーゼは大粒の涙を惜しげも無く溢しながらグルトンを抱きかかえる。


 「ゲヘルトの魔女よ、本当にありがとうよ! お前のお蔭だ!」

 「シュヴェールだ──」

 「ん?」

 「妾の名じゃ」

 「おお。ありがとうよ、シュヴェール!」


 『ふんっ。それよりも杖と呪札だ』シュヴェールはどす黒さを感じさせる薄い笑みを浮かべる。しかし、既にその場にいる誰も彼女のそんな仕草に不快感を覚える事は無い。いくら悪ぶっても育ちの良さが溢れ出るお嬢様の様に、シュヴェールがダークエルフでいくら邪悪を感じさせる黒い笑みを浮かべようとも、その心の中の優しさが溢れ出る。感謝を覚えた。





 ブッハとフルークがシュタルテン皇国を旅立って既に五日が過ぎていた。


 シュタルテン皇国魔法省第31席『賢者』の称号を有するフルークは、特に水系魔法への見識の深さには定評があり、シュタルテン皇国内ではその他多くの魔法使いたちの尊敬と憧れの対象であった。しかし、今の彼は心身共に追い詰められ、お気に入りの仕立ての良いタキシードもヨレヨレで、既に賢者の片鱗はどこにも見当たらなかった。


 その理由は二つあった。一つ目はシュタルテン皇国魔法省最高責任者のブラン直々の勇者召喚の命を受け『これで20席代も夢じゃない』と浮かれていたが、結果的にその命に失敗。結果的にその後始末として、東方の外れにあるベスティアと言う小国にまで来ていると言うのに、未だに目的の召喚迷走者は見付かっていない。


 そして、二つ目は自分のすぐ隣に並び立ち、表情を変えずに召喚迷走者の捜索に同行するブッハの存在だ。シュタルテン皇国魔法省でも特別に名誉ある第10席に着き、魔神の血脈であり暗黒魔法の使い手でもある。賢者の称号を持つフルークから見てもブッハは絶対者の威厳と貫禄を兼ね揃えた存在だ。そんな相手が自分のしでかした失敗のせいで、ブランの命でこの様な辺境の地まで同行されられている。


 オレの出世の道は閉ざされた。いや、人生そのものが終わりを迎えようとしている。フルークは心の中で何度もその言葉を、まるで呪いの様に繰り返しながら召喚迷走者の捜索を続ける。そして、ようやく山道を無言で進む二人の眼下にノルイドの街が広がる。『今度こそいてくれ、召喚迷走者よ──』フルークは心の中で天を仰ぎ懇願する。


 「様子がおかしい──」

 「!?」


 突然ブッハが呟いた。フルークは自分の事を指摘されたのだと思いビクリッと跳び上がる。しかし、恐る恐るブッハの視線の先を見ると、ノルイドの街の一角に紅色の霧が掛かっている。


 「あれは!?」


 『まさかこんな辺境の地で──』そう呟くだけで、顔色ひとつ変えずに街の入り口を目指すブッハを、慌ててフルークが後を追いかける。


 「ブ、ブッハ殿! あ、あれはカルネギの紅息では!?」

 「その様だな」

 「ま、まずいのでは!?」

 「何がだ?」

 「い、いえ。その──」


 フルークが答えに困っていると、ブッハは不思議なものでも見る様な眼でフルークを眺めると、やがて構わず先を急ぐ。『お前はカルネギの紅息の恐ろしさを知らないのか!?』フルークはブッハの背中に心の中で悲痛な叫びをぶつける。しかし、いずれにしろブラン直々の命をしくじった自分に、都合の良い選択肢など残されていない。ただ粛々と召喚迷走者を探し出し、元の世界へ送り返すのみ。


 フルークは悲壮感を漂わせながら、大きなブッハの背中の向こうに見えるノルイドを目指す。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る