第18話 異界の門

 「そちたちは無事であったか」

 

 崩れ落ちた保安所の陰からシュヴェールが姿を現した。その姿は奇跡的にかすり傷ひとつ負っていない様だった。ミュルとナーゼは残った体力を振り絞って立ち上がる。


 「お前こそよく無事だったな。危うく無関係の者をこちらの勘違いで巻き込んで死なせてしまうところだった。申し訳ない」

 「あれは事故ではない──」

  

 『事故ではない?』ミュルとナーゼは訝しげな表情を浮かべる。


 「それに、無関係と言う訳でもないのじゃ──」


 シュヴェールはミュルとナーゼの元へ近寄ると、言葉を濁す様にポツリポツリと語り始めた。


 「そちたちの探している紅色の仮面の女の名はシャルヴェール。妾の妹じゃ。そして、この建物を破壊したのは奴の仕業じゃ。全ては妾を狙っての事。巻き込まれたのはそちらの方じゃ──」


 状況が飲み込めていないナーゼが目を見開き口をパクパクさせる。


 「し、しかし、なぜ妹がお前の命を!?」


 シュヴェールは歩み寄り祈祷術で二人の傷を癒しながら、ゆっくりとまるで何かを懺悔するかのように語り始める。


 「全ては妾のせいなのだ。妾を兄の敵だと思っておる」

 「兄の敵?」

 「ああ。妾たちはもともと兄と妾、そしてシャルヴェールの三人兄弟なのじゃ。しかし、兄の力は強大過ぎた──」



 


 ゲヘルトはノルイドから丸一日ほど北に進んだラドゥガ山脈の麓にある、祈祷王グランアヴニルを頂点にした厳格な縦社会の組織を象った街だ。歴代の祈祷王は前任者の指名により祈祷王の称号を受け継ぐ事となる。それが起こったのは、シュヴェールの兄アヴ二エルスが、父グランアヴニルから祈祷王の称号を受け継ぐ矢先の事だ。


 ある夜、アヴ二エルスがシュヴェールの元を訪れた。告白と頼み事をするためだ。彼がその相手にシュヴェールを選んだのは、自分の妹だからと言う理由では無い。アヴ二エルスはシュヴェールこそが本来ならば、次の祈祷王に選ばれるべき人物だと信じていのと、もう一つ大きな理由があった。


 『オレの中の闇は抑えきれない程に強大に成長している──』アヴ二エルスの言葉は他の者が聞けば何の事なのかさっぱり見当のつかない内容だった。しかし、シュヴェールにだけはそれが理解できた。何故なら彼女自身もその事にうすうす気付いていながら、今まで気付かぬふりをしていたからだ。


 物心ついた頃からアヴ二エルスは強大な魔力を有し、10歳で既に父グランアヴニルに次ぐゲヘルト最強の祈祷師との呼び声が高かった。有能で容姿端麗なうえに強く清い心を持つアヴ二エルスは、ゲヘルトの祈祷師たちの憧れの的であり、次期祈祷王の呼び声に反対する者はいなかった。そんな彼の中に変化が現れるのは母マリヴェーヌが病でこの世を去った後だ。


 最初は悲しみから生まれた小さな闇の欠片だった。だが、それはアヴ二エルスの成長を上回る速度で大きくなっていった。しかし、彼は人知れず自らの強靭な精神力心でそれを押さえ続けていた。


 アヴ二エルスがシュヴェールの元を訪れたその夜、それはもはやはち切れんばかりに膨れ上がり、アヴ二エルスは青黒い顔色で脂汗を浮かべたギリギリの状態でシュヴェールの元を訪れ、部屋に入るとそのまま倒れ込んだ。


 『オレを母の元へ──』意識を取り戻したアヴ二エルスが最初に発した言葉だ。それは、日頃の強く明るい彼からは想像もできない言葉であった。


 「頼む。異界の門を開けてくれ」


 ついにこの日が来てしまった。シュヴェールはこれまで誰にも異界の門の存在を話した事は無かった。


 母を亡くし悲しみに暮れるある日、森で斜面を踏み外して川に流され、生死の境を彷徨った事をきっかけに異界の門が発動した。


 丸一日ベッドで眠っていた。その時は付き添いもおらず一人きりだった。すると突然、奇妙な気配を感じる。一瞬、部屋の隅の空間が歪んだかの様に見えると、その場に赤黒くおどろおどろしい大きな扉が姿を現した。シュヴェールは驚きのあまり声も出ない。両開きの扉が音も無くゆっくりと開くと、中から霧の様なものが一気に流れ出し、扉の向こうには光り輝く世界が広がっている。


 『シュヴェール──』恐る恐る中を覗きこもうとすると、聞き覚えのある声がシュヴェールの名を呼ぶ。この声は──。


 「シュヴェール、その門を潜ってはなりません──」

 「母上、何故!?」


 シュヴェールの見つめる先に佇むのは、亡き母シュトレーヌであった。いや、亡くなったと思っていたが、じつはそうではあ無かったのか。混乱するシュヴェールを優しく諭す様にシュトレーヌが口を開く。


 「あなたの目の前にあるのは異界の門。今は死者の国と繋がっています。あなたはこちらへ来てはいけません」

  

 シュヴェールは森で川に流された時に一瞬、母の姿を見た気がしたのを思い出す。薄靄の中の光り輝く場所に佇む母の姿が、救い出された後も夢現のごとく鮮明に記憶の中に残っていた。もしやあの時に見たのが死者の国だったのか。


 「さあ、もうお行きなさい。あまり長く死者の国と繋がっていてはいけません。離れていても私はいつも貴方たちを見守っていますから──」


 シュトレーヌはそう言って優しく微笑んだ。それ以降、シュヴェールは辛い事や相談事がある際には、決まってこっそり異界の門を出して、母に語り語り掛けるのだった。しかし、ある日、その姿を偶然に目撃してしまった者がいた。部屋の前を通り掛かった兄アヴ二エルスだ。扉の向こうから聞こえる話し声を奇妙に思い覗き見ると、そこには亡き母と話す妹シュヴェールの姿があった。

 

 驚きのあまり後ずさりしたアヴ二エルスは我が目を疑った。しかし、あの声、あの姿は間違いなく亡き母シュトレーヌのもの。奇妙な扉が閉まると共に姿を消したが間違い無い。


 『何故』『何故』『何故──』


 アヴ二エルスは意を決して再び扉の隙間から部屋の中を覗き込む。自分が下衆な真似をしているのは十分に自覚している。だが、アヴ二エルスはそうせずにはいられなかった。ところが、そこに母の姿は無く、立ち尽くす妹シュトレーヌだけがぼんやりと部屋の隅を眺めていた。


 『何故、シュトレーヌなのだ──』


 


 それが異界の門と呼ばれる、百年に一人習得できるかどうかと言われる高等祈祷術である事を知ったのは、だいぶ後になってからだ。しかし、シュヴェールはそんな事はどうでも良かったし、その事を他の者に知らせるつもりは無かった。ただ、時々、母の声を聞く事ができるだけで良かった。


 アヴ二エルスはあの夜からシュヴェールから目が離せなくなっていた。そして、日に日に自分の中に芽生えた黒い物が大きくなっているのを感じた。アヴ二エルスは鋼の様な自制心と強靭な精神力心でそれを押さえ続けた。しかし、ある夜それはふと弾け飛んだ。


 『妹シュヴェールに自分は勝てない──だから母も私では無くシュヴェールを選んだ──』


 その思いが一気に全てを崩壊させた。アヴ二エルスはボロボロになり懇願した。自らを母と同じ死者の国へ送り出して欲しいと。


 


 「何故、彼は貴方の事ばかりを見ているの!」


 ある時、シュヴェールはアヴ二エルスに思いを寄せる貴族の女性に、敵意をむき出しにして涙目で強く問い質された。兄弟なのに誘惑するような真似はやめて欲しいとも言われた。貴方のせいで最近の彼はおかしいとも。始めはその女性が気でも狂ったのかとも思ったが、どうやらそうでは無い様だ。ただ、言っている意味がまったく理解できない。しかし、程なくしてシュヴェールはその言葉の意味と、アヴ二エルスが何のために自分を見ていたのかに気付く。


 偶然、アヴ二エルスがこっそりと古い文献で、異界の門の事を調べているのを見掛けた。それからしばらくアヴ二エルスを観察すると、それはその時だけでは無かった。彼は暇があれば異界の門の事ばかりを調べる様になっていた。


 『アヴ二エルスは気付いている!?』それを確認するのは簡単だった。その夜に自室で異界の門を出すふりをして、ふいに部屋の扉を開けてみると、そこには茫然とした表情で立ち尽くすアヴ二エルスの姿があった。


 アヴ二エルスが脂汗を浮かべながら、まるで死人の様な顔色でシュヴェールの部屋を訪れたのは、それから一週間後の事だ。


 『オレを母の元へ──』シュヴェールはその申しに決して首を縦に振る事は無かった。もし、それをすればきっと兄は二度とへ戻って来れなくなると感じたからだ。


 「兄上、御冗談を申されますな。母上はもうこの世にはおられません」

 「そ、そうだなすまなかったシュヴェール──」


 アヴ二エルスは悲し気な笑顔を浮かべるが、シュヴェールはそのすがる様な笑顔から故意に目を逸らした。


 『シュヴェール、これを──』そう言ってアヴ二エルスは懐から小さな銀色の鈴を取り出し、傍らにあるテーブルにそれを置いた。それは父グランアヴニルから譲り受けた品だった。


 「これを受け取ってくれ。頼む」


 その瞳には悲壮感と共に有無言わせない意思があった。シュヴェールは何故か断る事も出来ずに小さく頷いた。小さな鈴がテーブルの上で不思議な輝きを放っている。何故こんな大切なものを自分に──だが、気付いた時、既にアヴ二エルスの姿はそこには無かった。

 

 


 翌朝、アヴ二エルスは自室のベッドで眠る様に冷たくなっていた。強く優秀で、誰もが憧れる自慢の兄が死んだ。異界の門など出さなければ。あの時、もっとちゃんと話を聞いていれば──。


 気が付くとシュヴェールの心は闇に堕ちていた。


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