第14話 漆黒の爪

 紅色の霞が発生している一角は混乱状態に陥っている様で、悲鳴にも似た叫び声が聞こえる。一刻も早くこの事態を所長たちに伝えなければ。オレとミュルは紅色の霞を避ける様に、別の通りを進み保安所へと急いだ。


 『待て』通りの向こうに保安所が見えて来た所で、突然ミュルが立ち止っってオレの腕を掴みそのまま近くの物陰に身を隠した。


 「ど、どうしたんですか?」

 「保安所の様子がおかしい」

 「え?」


 オレは建物の陰から顔を半分だけ覗かせて保安所の様子を窺う。確かに門番たちの姿が見えない。どこに行ったのだろうか。


 「門番たちがいないですね」

 「いや、いるさ。入口から足先が見える。既に意識が無いのだろう」

 「意識が!?」

 

 確かに良く見ると、保安所の入り口から保安委員の足先だけが見える。横たわっていると言う事か。ミュルは腰に下げた小さなナイフを取り出して構えると『ここで待ってろ』と言い残し、壁伝いに身を隠しながら保安所へと近付いて行く。いつに無い真剣なミュルの表情に、目の前で起こっている事の大きさを感じる。


 ミュルは慎重に保安所までたどり着くと、入口や窓から中の様子を窺う。やがて、一段と険しい表情を浮かべて戻って来たミュルは『まずい事になった』とだけ言うと、背中に背負った小さな鞄の中をゴソゴソと何かを漁る。


 『サトウ、これを──』ミュルは鞄から取り出したナイフをオレに手渡す。そして、更に長い革製の紐の両端に三角錐の刃物が付いた武器と、リンゴほどの大きさの黒っぽい球を取り出し手に持った。


 「いったい何があったんですか!?」

 「解らん。だが、何者かが侵入した様だ。既に何名かの保安委員が犠牲になっている様だ。門番たちも既に死んでいる様だ」

 「こ、殺されたんですか!?」

 「ああ。儂はこれから保安所に入り込み、ナーゼたちの状況を確認して来る。サトウ、お前さんはここで待っていてくれ」


 オレは鼓動が一気に速まるのを感じる。異変は街だけではなく保安所にも起きていた。


 「ミュルさん、これっていったい──」

 「あの傷口。もしかすると例の酒場を荒らした魔物の仕業かもしれない」

 「な、何で保安所を──」

 「サトウ、万が一、儂が戻らない時は、すぐに街から出るんだ。そして、クライネスに戻ってこの事を街の者たちに知らせるんだ。いいな?」


 いったい何が起こってるんだ──。ミュルはオレの返事を待たずに、身を低くして足早に保安所の建物に近付いたかと思うと、入口から中を素早く確認すると一気に建物の内部へと進んだ。


 遠くから悲鳴が聞こえる。紅色の霞が覆う街の一角からだろう。そのうえ保安所にまで何かが起こっている。これは明らかに異常な状況だ。オレはミュル一人に行かせてしまった事を次第に後悔し始めていた。その時、向こうの建物の陰からゆっくりと一つの人影が現れる。深くフードを被った小さな人影だ。その小さな人影は保安所の前で立ち止まると中へと入って行った。


 『あれは──』その小さな人影を見た途端、巨大な危険を知らせる様にオレの股間がガタガタと震え始める。建物に入る直前に微かにだが、確かにオレには見えた。フードの奥の紅の仮面が。あれは危険だ。すぐにミュルに知らせなければ。しかし、意に反して体が動かない。頭では解っているのに体が言う事を聞いてくれない。行かなければきっと後悔する。股間はずっと警告を続けているが、オレは歯を食いしばり指先を動かし、足先を動かす。ミュルとの思い出がオレの背中を押してくれる。


 何とか建物の陰を抜け出して、身を低くして保安所に近付くと、壁に耳を付けて中の様子を探る。自分の鼓動が邪魔をしてよく聞こえない。深呼吸をしてもう一度壁に耳を付ける。足音が次第に遠くなるのが解る。そして、重い扉を開ける音。地下へ向かう気か──。


 ちょうどその時『ボシュッ!』と言う僅かな破裂音が上の方から聞こえ、オレは慌てて壁を離れ二階へ目をやる。少し遅れて二階の窓の隙間から黒緑色の煙が漏れ出した。ミュルはきっとあそこにいる。オレはミュルに託されたナイフを手に握りしめ、周囲を気にしながら保安所の入り口から中へと侵入した。




 所長室で剣を構えて立ちつくすナーゼの顎髭を、額から伝い落ちる血が濡らす。『こいつどこから現れた』『他の所員たちは何をしている』ナーゼは手に持った剣の切っ先を、漆黒の闇を思わせる異様な姿の魔物に向けたまま考える。


 目の前に立つその漆黒の魔物は、人型でありながら獣を思わせる顔つきをしているが目は見当たらない。そして、大きな耳のすぐ近くまで裂けた口には、無数の鋭い牙が見える。異様に長い指の先に怪しく輝く漆黒の爪は血に濡れ、足首から下と太く丈夫そうな尻尾の先端は、時折まるで煙の様にユラユラと消えて見えなくなる。しかし、それでいて実際に目の前にはっきりと存在する姿は、オークにしてはかなり大柄なナーゼを優に上回る体格をしていた。


 あのゲヘルトから来た魔女の言う事は本当だった。ナーゼは愕然とする。酒場を滅茶苦茶にした魔物とは恐らくコイツだ。そして、魔物の後ろに立つ陰湿な笑みを浮かべる、体格の良い男のエルフこそが真犯人。何て事だ。ミュルとサトウが探そうとしている人物は、自分の目の前にいる。


 ナーゼの傍らには血を流し倒れるグルトンの姿があった。まだ息はあるようだが、このまま放っておけば長くは持たないだろう。グルトンはもともと事務方ではあったが、ナーゼがまだ副所長だった頃から剣術の訓練にも熱心に取り組み、いつしかその腕前はこのノルイド保安所でも上位に入る様になっていた。敵に不意を突かれたとは言え、そのグルトンが一撃で倒された。魔物がここまでたどり着く間に、他の所員たちも犠牲になっているのは間違い無いだろう。


 「要求は何だ?」


 交渉術はあまり得意では無い。だが、ここはひとまず相手の要求を聞き出す事で、時間を引き延ばしこの状況の打開策を考えねば。


 「要求? こんなちんけな保安所の所長ごときが、オレたちの要求を叶えられるとでも思っているのか?」


 エルフは片方の口角を釣り上げ、より一層と陰湿な笑みを浮かべる。『オレたち』と言う言葉を、ナーゼは聞き逃さなかった。このエルフたちは複数で事に臨んでいる。これだけの事をするなら仲間がいるのは当然だろう。しかし、その仲間たちはどこへ行った。


 「もしかしたら出来る事もあるかも知れないぞ? これでもここら辺じゃけっこう顔が効くんだ」

 「くくく。面白い。じゃあ命の樹だ。オレたちに命の樹を用意しろ。そうすれば大人しく立ち去ろう」


 冗談とも本気とも取れるそんな表情でエルフは言う。命の木とはエルフが必要とするアムルスの樹の事だ。そんなものを望むと言う事は、何らかの理由でエルフ社会から追放される恐れがあると言う事か。それとも新たなエルフの集落でも造ろうと言うのか。


 「命の樹とはアムルスの樹の事だな。流石のオレもそんな神木をこの場ですぐに準備するのは難しいな──」


 『コトンッ』ナーゼが話を続けようと思った矢先に、エルフの目の前に黒色のボールの様な球が転がる。『ボシュッ』ナーゼとエルフの視線が注がれた直後に、球は崩れ落ちる様に破裂し、それと同時に部屋中に黒緑色の煙が充満する。


 『ぐっ!』ミュルが放った紐の先に付いた三角錐の刃が、煙の中からエルフの肩口を掠める。エルフは顔を歪ませながら黒い魔物の陰に身を隠す。


 「ナーゼ、口元を押さえてグルトンを運び出せ。ここは儂が時間を稼ぐ」

 「ミュルか、すまん──」


 できれば一撃で致命傷を与えたかった。ミュルは紐の先に付いた三角錐の刃を振り回し、遠心力を利用して速度を増したそれを、真っ黒な魔物では無くエルフに向けて放つ。サトウの聞き込み内容では、魔物は影の中に姿を消したと言う事だった。そのため、ミュルは始めから魔物ではなく、それを呼び寄せたであろうエルフを先に仕留める事にしたのだ。


 しかし、二発目は黒い魔物が振り払った爪に弾かれて床に落ちた。やはり正面からでは無理だ。ミュルは煙の中に身を隠しながら移動し攻撃を続ける。何度か立て続けに攻撃するが、これで仕留められるほど容易い相手で無い事は、ここにたどり着くまでの道に横たわっていた保安委員たちの遺体が物語っていた。これはあくまでナーゼがグルトンを連れ出すまでの時間稼ぎだ。


 「くそっ! どこへ行きやがった!」


 素早い攻撃と移動に加えて、紐の遠心力を生かした軌道の読み難い攻撃に、漆黒の魔物は荒立ちを露わにする。闇雲に爪を振り回した鋭い漆黒の爪は、木製の長椅子を凪払い、机を切り刻む。


 ミュルは攻撃を受けない様に距離を置いて動き回り、紐の両端に付けられた三角錐の刃物を器用に操り、一度に両方を放ったり、時間差で別の個所へと放ったりして、エルフと漆黒の魔物をかく乱する。

 



 その頃、グルトンを抱えて一階へと降りたナーゼは、恐る恐る保安所の中へと入り、横たわる保安委員の死体に青褪めながら、ミュルのいるであろう二階を目指すサトウと出会っていた。


 「おお! サトウ、お前は無事だったか!」

 「ナーゼさんこそ良くご無事で!」

 「グルトンがやられた。ミュルが二階で時間を稼いでくれている。とにかくここを出るんだ。手を貸してくれ!」

 「わ、解りました」


 ナーゼと共にグルトンを抱えて、保安所の向かいの道具屋の奥の部屋へと運びこむ。店の主人は既にどこかへ非難した様で姿が無い。オレは背負ったリュックからヴォーツェルに貰った薬草を取り出す。


 「ナーゼさんこれを!」

 「おお。薬草か、助かる。ついでにお湯を沸かしてくれないか」

 「解りました!」


 オレは奥の部屋に行き、手際良く釜に水を入れて火を焚く。こんな作業も元の世界ではやった事が無かったが、こちらへ来てからは毎日の当たり前の作業だった。何か包帯の代わりになるものが必要だ。店の裏口から外へ出ると、洗濯物と一緒に帯の様な物が干してあった。事情はあとで話そう。オレはその帯を拝借しナーゼの元へ届けると、沸いたお湯を鍋に移し替えてナーゼの元へ運び、窯には新たに水を入れて火に薪をくべる。


 「グルトンさん、しっかりしてください! ナーゼさん他に必要なものはありませんか?」

 「できれば回復薬ポーションが欲しいところだ。この傷は薬草だけでは──」

 「回復薬? どこに行けば?」

 「街の一番奥にメルゲンと言う薬師がいる。そこに行けば手に入るはずだ」


 街の一番奥。あの紅色の霞の向こうか。


 「解りました。少し時間が掛かるかも知れませんが行ってみます。ナーゼさん、ご存じですか。街には奇妙な紅色の霞が発生しているんです」

 「紅色の霞?」

 「はい。街は今、混乱状態です。もしかするとそのメルゲンさんも既に非難していて、その場にはいないかも知れません」

 「そ、そうか──」


 ナーゼの顔に明らかな困惑の色が窺える。あの保安所の状態では街で起こっている混乱に気付かないのも無理は無い。


 「でも、必ず回復薬を探して持って来ます」

 「頼んだぞ。回復薬は僅かに輝きを放つ水色の液体だ。見ればきっと解るはずだ。オレは保安所へ戻りミュルと一緒に戦う」

 「解りました。ミュルさんの事お願いします」

 「ああ。お前も気を付けろよ」

 「はい。グルトンさん、待っててくださいね」


 横たわるグルトンに話し掛けるが返事は無い。オレはナーゼと視線を合わせ頷くと、身を低くして店の外の様子を窺い速やかに街の奥を目指す。


 時間が無い。急がなければ。

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