第26話 そしてまた、生きていく
「可南子、まだか」
「待って! すぐ行く!」
二階からドタドタと騒がしい音がする。制服でも良いと言ったのに、父も俺も喪服だと分かると、一人だけ制服では嫌だと言い出し、可南子は喪服を調達する為に母のタンスを片っ端から開け出した。まるで墓荒らしだ。
昨日、柏木さんとの話を終えて家に帰ると、台所に父の姿があった。少し顔を赤らめていたのは、おそらく、柏木さんとお酒を飲んでいたからだろう。
俺が台所に入ってしばらくしてから、父は「遅かったな」と呟いた。思えば、父の声を聞いたのも久し振りな気がする。昨日までは台所に父がいると分かると、何も言わずに自分の部屋へ行っていたからだ。
「可南子は?」
「さっきまで台所にいたが、疲れたから寝るって言ってたぞ」
大丈夫だろうか。可南子は何も覚えてないと思うのだが。
家族の食卓とは思えない、静かな時間が流れる。が、不思議と、気まずいとか、居心地が悪いという感じはしなかった。
「日曜、暇?」
俺は思い付いた事を口に出した。自分でも、唐突だなと思った。
「ん? なんだ」
「母さんの、墓参りに行こうと思って」
すると父はしばらく考え込んだ後、鞄からスケジュール帳を引っ張り出し「ううん」と唸り、そうして手帳をパタンと閉じた。
「よし、行くか。午前中だけになるが、いいか」
「俺も、午後からは予定があるから」
日曜はコンクールに向けて最後の部活練習日だった。が、午前中は役者たちのアップと、細かなダメだしなどで終わるだろうから、遅れても大丈夫だろう。
台所を出て二階へ上がろうとすると、階下から父の声がした。仕事先に電話を掛けているのだろう。俺は部屋へ戻ると、小さなアルバムをパラパラと捲り、しばらく感慨に耽った後、喪服を準備した。
「ごめんごめん、さあ、行こう!」
母の喪服は可南子にぴったりだった。父も「おお、似合うな」と声を上げている。
「喪服が似合う女ってどうなのかな」と可南子は首を傾げる。
駅から電車を幾つか乗り換え、景色が畑や田んぼしかなくなった所でバスに乗り換え、山道を登った先の停車場で降りた。近くの花屋で花を何本か買い、霊園の中へと入る。霊園は緑に彩られ、砂利が敷き詰められた歩道には心地の良い風が吹いていた。春には咲き誇っていただろう桜は、立派な葉を風になびかせ、枝の間にはやがて芽吹くだろう蕾が息を潜めていた。
母の墓、というよりは島井家の墓だが、そこには花が飾られていた。色とりどりの花は、まだ枯れてはいなかった。
「あれ、最近誰か来たのかな。お婆ちゃんかな」
という可南子の問いに、父は「さあな」と答えた。
新しい花を一緒に添え、線香を立て、母の好きだった大福を置いた。
「可南子、ちょっと自販機でコーヒー買って来てくれよ」
「なんでよ、自分で行きなさいよ」
「この間、奢ってくれるって約束しただろ」
「まだ覚えてたの、いやらしいわね」
俺はポケットから五百円玉を取り出し、可南子に投げた。
「母さんの分も買って来てくれ。釣り銭はやるから、それで好きなもの買って良いんだぞ」
「子供じゃないんだから」
そう言いながらも五百円をポケットにしまうと、可南子は入り口の方へ走っていった。父はじっと、母の墓の前にしゃがんでいる。丸まった父の背中は、すこし小さく見えた。
「ねえ」と背後から声を掛ける。
「なんだ」父はしゃがんだまま答える。
「エイコって名前、知ってる?」
その言葉を聞いた父はゆっくりと立ち上がり、振り向いた。父は少し笑っていた。
「お前の名前だ」
「どういうこと?」
「男だったら俺の名前を取って平太、女だったら母さんの名前を取って映子」
父はとても懐かしそうに話した。
「母さんは、ずっとお腹の中の赤ちゃんは女の子だって言い張ってたんだ。調べて貰う事も拒否してな。こんなに優しくお腹を蹴る子は、女の子に違いないって。だから、お前が生まれてきたときはちょっと驚いてたな。でも、嬉しそうだったよ」
だから、母は最初に俺を見た時に「エイコ」と思い浮かんだんだろう。
「じゃあ、なんで可南子には映子って付けなかったの?」
「俺もそう言ったんだけどな。可南子は可南子だ。平太とは違うんだって言ってな」
母が言いそうな事だった。
「俺と可南子は父さんや母さんと同じ高校に入ったのに、何で同じだって言ってくれなかったのは?」
「え? ああ」父は頬を掻いた。「いや、聞かれなかったからな」
「聞かないよ。知らないんだから」
「いや、別に大した事じゃないと思ってな。ほら、何か、お前は俺の事を避けてたみたいだったから」
母が最後に言った言葉が思い出される。父は、俺に似て付き合いが下手だ。俺が上手く言葉に出せないのは父親譲りなのだろう。
「些細な事でも言ってくれないと、どれだけ価値があるか分からないんだから」
「すまんな」父はそう言って、ほんの少しだけ首を上下させた。
そうして、沈黙が訪れる。不意に吹いた風が、俺と、父と、母の墓を優しく撫でる。父は墓石をじっと見つめ、俺はその背中や、側で咲いている小さな花なんかをぼんやりと眺めた。
やがて父はゆっくりと立ち上がると、歩き出した。
「どこ行くの?」
「水を汲んでくる」父はそのまま、霊園の奥へと向かって行った。丁度戻って来た可南子とパチンと手を合わせている。
俺は鞄から雑誌とアルバムを取り出すと、母の墓に飾った。雑誌はゴシップ色の強いもので、アルバムの中には、俺と母が並んで映った写真が入っている。
隣にエイコが居ないこの数日は、やけに手持ち無沙汰で、ふとした時にその姿を捜してしまった。おどおどしていた彼女の佇まいは、やっぱり母だったとは思えず、エイコの姿を思い出すたびに笑ってしまう。そして、同時に気恥ずかしさも感じる。俺は一体、何を感じていたのだ、と。
俺は手を合わせて、どこにあるのだか分からない死後の世界へと届くよう、強く念じた。
色々と言いたい事はあったが、とりあえず、今日子さんに宜しくと伝えておいた。
そしていつか、何か遣り残した事を一つでも見つけて、こちらに帰ってきて欲しい。あの母と今日子さんが合わされば、それぐらいの事はやってのけるんじゃないだろうか。
「兄ちゃーん」
可南子がこちらに走ってくる。そして、母の墓前に飲み物を添えると、二人合わせてもう一度手を合わせた。
「今度、お兄ちゃんが演劇部で何かやるらしいです。サヤとサラと観に行こうと思います」
手を合わせながら、可南子が呟く。
「構わんけど、別に俺は出ないぞ」
「えー、そうなの? それじゃつまんない」
「観る前からつまらんとか言うなよ。傷付くぞ」
「お母さんの写真を掲げて、兄ちゃんの雄姿を見届けようと思ったのに。サヤとサラには『平太くん頑張れ』の応援幕を持ってもらってさ」
「頼むからやめてくれ」
「お母さんも観たいはずだよ。お兄ちゃんが表に出るところ」
「人を引き篭もりみたいに言うなよ。表に出るのは俺の役目じゃない。それはきっと、母さんも分かっているはずだ」
そう。出てくるのは幽霊で、俺はそれを見る係なのだ。そう言う役回りが決まっているのだ。それは多分、必要な事なんだ。
この世にとって、ではなく、あの世にとって。
「こっそり楽しみにしてたのになぁ」
可南子はまだ、唇を突き出している。
「そんな事より、もっと伝えるべき事があるだろ。ちゃんと言っておけよ」
そう言うと、可南子は「そうだね」と小さく頷き、それからパン、パン、と手を鳴らし、ぶつぶつと念じ始めた。
何をお願いするつもりなのやら、この妹は。
しかし、これで良いんだろう。俺も可南子も、これからも。
俺も再び、母の墓前に手を合わせる。
頭の中には何も浮かばなかったが、それでもとにかく、目を閉じて、母を想った。
その時、柔らかな風が吹いて、遠くの葉桜がゆっくりと揺れた。
ゴースト・ウィッシュ――死んでからが本番。 再之助再太郎 @Sainosuke_Saitarou
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