第24話 さようなら

「今!」

 

 突然、可南子が叫んだ。


 すると、派手な音を立てて掃除用具入れのロッカーが開き、中から多田川冬也が飛び出してきた。可南子が身を伏せる。真山が振り返るよりも早く多田川は腕を伸ばした。その腕の先から透明の塊が、一直線に真山の身体をめがけて走り、ナイフごと真山の意識を吹き飛ばした。


 ナイフが落ちる乾いた金属音が教室内に響く。


 俺は目の前で行われた光景に驚きつつも、必死に窓枠にしがみつく。手が滑り、教室内へ倒れ込んだ。飛び降りようと準備していた手足が、筋肉が、ガタガタと痙攣している。

 しかし、それよりも――どうして多田川が?

 目の前には、床の上に倒れている可南子の姿があった。真山は教壇の前に立っている。ふらふらとふらついてはいるが、己の意思で立っているように見える。


 効かなかった?


 体育館の舞台上で虚ろな顔をしていた顧問の田所の時とは違う。真山はよろめきながら、こちらへと歩いて来る。しかし俺に何をするでもなく、倒れた俺の横を通り過ぎた真山は、ゆっくりと窓枠に足を掛けた。

 何をするつもりだ? まさか――、


 果たして、真山は視界から消える。階下で大きな物が地面に落ちる音。


 俺は窓の外へ駆け寄り階下を覗いた。そこには、糸を切った操り人形みたいな真山の姿があった。


 自殺……したのか? どうして?


「可南子!」

 俺は振り返り、倒れている可南子を抱き上げた。

「その子なら大丈夫だ」多田川が軽く片手を上げる。

「多田川、どういうことだ!」俺は可南子を床にそっと寝かせると、多田川の胸を掴んだ。「可南子に何をした!」

「話なら、彼女に聞いた方が早いだろう」

 多田川は教室の窓を指差した。窓の外には、エイコの姿があった。

「……どういう事だ?」

 エイコは悲しそうな顔をして俯いている。

「ごめんね、平太」

エイコが喋る口調は、いつものエイコとは違い、落ち着き払っていた。

「一体、何が……」

「可南子の体を借りていたの。真山が犯人だって、気が付いたから」

「エイコが、可南子に?」

「そう。多田川君に頼んで、可南子の意識を飛ばしてもらったの」

「そうなのか? 多田川」

 多田川は「何がだ?」と首を傾げる。彼にはエイコの言葉は伝わらないのだった。

「ああ、そうか」とエイコは呟くと、可南子に近付き、「借りるね」と体に入っていった。


 しばらくすると、可南子はゆっくりと起き上がった。


「多田川君の所に行って、ぐるぐると周りを回ったの。多田川君はすぐ私に気が付いてくれたわ」

 エイコの意識を持った可南子が言った。

「周りをずっと勢いよく回っているから、何かがあったのだろうと思った。近くを通った生徒の体を借りて、彼女から話を聞いた」

 多田川はさらっと言うが、その生徒はただスピーカー代わりに意識を飛ばされたという事になる。可哀想な話だ。


 ふと、窓の外から声が聞こえた。そっと下を覗いてみると、倒れている真山の側に数人の人影が見える。このままだと、この教室にも誰かが上がってくるかもしれない。


「場所を変えよう」


 多田川の意見に従い教室を出た俺たちは、人気の無い校舎裏へと移動した。外灯の明かりがぼんやりと校舎の裏側を照らしている。まだ日が落ちきっていない紺色の空に、どこかでカラスの鳴く声が響いた。


「私ね、自分が殺されたんだって確信してたの。どうしてかって理由を説明するのは難しいんだけど……事故なんかじゃなくて、悪意を持って殺されたんだって。それから、斯波重慈さんの話を聞いて、幽霊の見た目と中身は決して一致しないんだって知った時、じゃあ自分もそうなんじゃないかって思ったの。私は見た目は若いけど、実際はもっと年を取ってるんじゃないかって……そうしたら、どんどんと記憶が蘇ってきて……私は、あなたたちの母だったんだって」


 エイコは何かを懐かしむように目を細めた。


「……私は犯人を捜したわ。犯人はこの学校にいると思った。私がこの制服を着ているのは、この学校に答えがあるからだって思ったから。そして、今日改めて真山の顔を見た時に確信した。こいつだって。それで、平太の所へ行こうとしたんだけど……可南子の言葉を思い出したの。今日、数学部の顧問と会うって……数学部を創ったのは真山なのよ。覚えてて良かったわ。それで、どうにかしなくちゃいけないと思って、多田川君の所に行ったの。悪人退治と言えば、多田川君でしょ?」


 そう言われ、多田川は口の端を曲げた。

「事態を聞いて考えた。君の妹を守らなければいけない。同時に、真山が本当に君のお母さんを手に掛けたのか、それを見極めなければいけない。しかし、彼女は、妹さんには真実を聞かせたくはないと言う」多田川はチラ、と可南子を見やる。

「知らない方が良い事も、沢山あるわ」と可南子が微笑んだ。

「真山が可南子に何かをするつもりだっていうのは分かってたから、それを利用してどうにか聞き出そうと思ってたんだけど……」

「そこに島井が教室に闖入してきた、という訳だ」

「予想外過ぎて、どうすれば良いのか分からなくなっちゃった」

「真山が飛び降りたのは……?」

「あれは、私のアイディア。最初は携帯電話に録音でもして、証拠として突きつけちゃえばと思ったんだけど、録音した物って、証拠としての能力が怪しいって多田川君に言われて。例えば事情聴取の段階で「冗談だった」なんて否定されるかも知れないし、そもそも私の事件は事故として処理されている訳だし……でも、真山を放っておく訳には行かないでしょ? いつか平太や可南子が復讐されても困るわ。それで、思ったの。もし誰かが裁いて良いんだったら、その権利があるのは殺された私なんじゃないかな、って。……それにね、私の家族に手を掛ける様な奴を、私は許さないから」

 その目は強く、有無を言わせない鋭さがあった。


 殺した人間を裁いて良いのは、殺された人間。

 確かにそれは、そうなのかも知れない。しかし、まさか飛び降りるなんて。


「よく……飛び降りられたね」

「本当よね。死ぬかと思ったわ」言いながら母は笑った。「母は強いのよ、平太」

一瞬、可南子の顔が母の顔に見えた。いや、可南子の中に入っているエイコという存在は、紛れも無く俺の母なのだ。母は呆然としている俺に近付くと、俺の頭を撫でた。

「平太、迷惑掛けたわね」

「か……かあ……さん」

 母は笑った。可南子のものでも、エイコのものでもない笑い方だった。

 奥山今日子の笑顔に似ているかも知れない。

「……性格、変わりすぎじゃない? 全然別人じゃないか」

「そうね。自分でもそう思うわ」母はまた笑った。「母は大変なのよ」

 答えになっているような、なっていないような。

「大体、何で高校生の恰好なんだよ。大人の姿で出てきてくれれば、こんなに混乱しなかったのに」

「これは別に、若返りたかったって訳じゃ無いと思うのよ。今だから分かるんだけど、私、頭を打って、記憶を無くしたまんま死んじゃったから、向こうに行っても記憶が無かったの。ただ……高校時代とか、自分の家とか、そういうぼんやりとした事は覚えていたのよ。これは忘れちゃいけない事だって。だから、私は高校の時の格好なんじゃないかな。私自身に手掛かりを伝えるために」


 奥山今日子の言った事が正しいとすれば、母は記憶を無くしながらも、おぼろげな記憶を頼りに、吹き付ける風の中を七年もの歳月を掛けて、綱を伝ってこちらにやって来たのだろう。

 俺や、可南子を守る為なのか、それとも、復讐を遂げる為なのか――それを尋ねると母は「どうかしらね」と笑った。

「ひょっとしたら、恨みの力で戻ってきたのかも知れないわね」

あまりにも明るく言うので、釣られて笑ってしまった。多田川も笑っている。

「お、二人とも、良い笑顔」

 すると、突然母が可南子の体から離れた。可南子がふらついたので、俺は駆け寄って受け止める。妹は小さく呻き声を上げた。意識を取り戻そうとしているのだろう。

「そろそろ、私も行かなきゃいけないみたい」

 そう言った母の体は、今日子の時と同じように、ぼんやりと薄くなっていた。

「ちょっと待ってよ。まだ聞きたい事が」

「どうしたんだ?」多田川が不思議そうに尋ねる。

「もう行くって言うんだ」

 その言葉で多田川は察したのか、母の方に視線を送った。

「エイコ。エイコっていう名前は?」

「それは……お父さんに聞いてみなさい」

「待ってくれ! まだ、他にも言わなきゃいけない事が……!」

 母の体は、そんな俺の言葉とは裏腹にどんどん透明になっていく。母は自分の体を眺めながら言った。

「うーん、駄目みたい。私が満足しちゃったからかな」

「待って! お願いだから……」

「平太。男の子が、泣いちゃ駄目でしょ」

 気が付くと、俺の目からはとめどなく涙が流れていた。言いたい事は山ほどあるのに、胸の辺りでつかえて言葉に出来ない。何の意味も持たない嗚咽だけが口から洩れ出している。

「最後にそんな平太の顔が見れて、母さんは本当に嬉しいわ」

 母は、ゆったりとした笑みを浮かべている。

 色々な事が次々に起こりすぎて、全く頭が付いていかない。母に言うべき言葉が、山ほどある。気が付いた時には、もう会話する事すら許されなくなっていた、沢山の言葉が。

「……俺……あの時、母さんに、ごめんって言えなくて……そのせいで母さんは」

 母は俺に近付き、俺の頬を拭った。母の手は俺の顔を通り抜けたが、どうしてなのか、頬に暖かい温もりを感じた。

「いいのよ。母さん、そんな事全然気にして無いから」そう言って母は笑った。

「多田川君。色々とありがとう」

 母の言葉が聞こえたとは思えないが、多田川は頭を下げている。

「平太、可南子をしっかりと守ってね。あと、お父さんとあんまり喧嘩をしちゃ駄目よ? お父さん、あなたに似て人付き合いが下手な人だから」

 俺はただ、頷く事しか出来なかった。母は、俺が抱きかかえている可南子のおでこにそっと口付けをした。

「可南子とも話したかったな……。よし、もう一回くらい頑張って、こっちに来てみようか。その時は今日子さんも一緒に」

 うん――うん。


「じゃあね、平太」


 母さん、ありがとう。

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