第23話 彼女の事が突然に
翌日の放課後。部活に出る前に、用務員室に寄る事にした。ポケットにしまったままにしていた屋上の鍵の存在をすっかり忘れていたのだ。どういう理由を付けようか悩んだけれど、その辺で拾った事にすれば良いだろうか。
エイコは朝から姿を見せなかった。どこで何をしている事やら分からないが、好きにさせておいた方が良いんだろう。
用務員室をノックすると村木さんが出てきた。村木さんは俺の顔を見るとニッコリと笑って、またお茶を用意してくれる。俺は用務員室へ上がり、ありがたくお茶を頂戴した。
「この間は大変だったね」村木さんは笑いながら言った。「一瞬、君が犯人なのかと疑ってしまった自分が恥ずかしいよ」
村木さんは頭を掻いている。
「あの事件は私の責任でもあるからね。鍵はキチンと管理しないと」
このタイミングで屋上の鍵を出した自分は、ひょっとしたら意地が悪い人間なのかもしれない。
「あ、この鍵、階段に落ちていましたよ」と鍵を見せると、村木さんは「ありゃ」と声を上げて、恥ずかしそうに受け取った。
それからしばらくは、演劇部の活動再開についてや、コンクールがあるのでもし良かったら観に来て下さい、などの世間話をしていたのだが、村木さんがふと尋ねてきた。
「君は、ひょっとすると、大沢南映さんの息子さんかな」
大沢とは、母の旧姓である。村木さんから母の名が出てくるとは思わなかったので、お茶が気管に入り少しむせてしまった。
「なぜ、母の名前を?」
「やはりそうか」村木さんは再びニッコリと笑った。
「前にここに来た時にも、どこかで見た事ある顔だなあ、なんて思ってはいたんだけどね。なかなか思い出せなくて。もう随分昔の事だからね」
「母に会った事があるのですか?」
「会うも何も」と村木さんは続ける。
「この間君が聞いてきた、私に食べられたという噂の生徒は――君のお母さんだよ」
気持ちを落ち着かせようとお茶に口をつけた時だったので、またむせてしまった。母が俺と同じ高校に通っていた事など、父も、柏木さんも教えてくれなかった。更には、母がこの学校に纏わる怪談話の登場人物になっている、などとは思う筈もない。
「……ちょっと待ってください。じゃあ母は、この学校の教師に言い寄られていたって事ですか?」
村木さんはお茶を口に含むと、しばらく俯いて何かを思案していた。
「本当は言わないでおこうと思ったんだが……まあ、君は息子さんだしなぁ。ここまで言っておいて言わないというのもな……」
ひとしきり悩んだ後、村木さんは顔を上げて言った。
「真山先生だよ。数学教師の」
お茶を飲んでいたら大変な事になっていただろう。あろうことか、俺の担任である真山が、その昔、母の担任であり、さらにその母に好意を寄せていた……。
何という偶然の連鎖なのだろう。
すると、村木さんは埃をかぶった卒業アルバムを引っ張り出して机の上に置いた。
「君のお母さんが載っている筈なんだが」
そう言って村木さんはページを捲る。「おお、あったあった」と村木さんが指差した写真には、確かに大沢南映と書かれていた。黒髪で、少し暗そうだが優しそうな微笑を湛えているその顔を、俺は見た事があった。
母の顔は、エイコの顔とそっくりだった。
心臓の鼓動が、どんどん早くなっていく。
まさか――エイコが母? しかし、母が死んだのは三十一歳の時だ。エイコはどう見たって十五、六歳くらいだろう。年齢が合わない――と、そこで斯波重慈の顔が浮かぶ。
斯波重慈は七十二歳で死んだが、十歳の頃の約束を果たすため、当時の姿で幽霊となった。母もそうだったとしたら? 高校生の時の「何か」を成すため、あの格好で現れたのだとしたら――つじつまは合う。しかし一体、何が目的で……?
その時、俺の頭の中に奇妙な考えが浮かんだ。いくら何でもそんな筈は無いと頭を振ってみても、その考えは一向に収まりそうになかった。
母は同窓会に行った帰りに、工事現場から転落して命を落とした。それは事故で、即死だったはずだ。
だが、エイコは誰かに頭を殴られたと言っていた。そして記憶を無くした、と。
これでは矛盾している。どちらかが間違っている。
エイコが正しいとするならば、つまり母は、誰かに殴られたのだ。同窓会の帰り道で。その衝撃で記憶を失い、そしてその後、突き落とされた――そう考えるとしっくりとくる。
同窓会は母の母校で行われた。母校とは当然、この学校だ。そして、その同窓会には担任である真山もいたはずだ。
もしも、その時もまだ真山が母に好意を抱いていたとしたら? 結婚して子供がいて、幸せな家庭を築いている母を目の当たりにしたら? 好意が憎しみに変化し、殺意を抱くに至る、なんて事があるだろうか……。
ぐるぐると思考しながらも、俺は用務員室を飛び出した。
可南子は今日、数学部の顧問に呼び出されたと言っていた。そして俺の担任の雰囲気を聞いてきた。俺の担任の真山は、数学の教師だ。数学の教師が数学部の顧問――単純すぎる。間違っていても良い、間違っていて欲しい。とにかく、今は走る以外の行動を思いつかなかった。
数学部がどこで活動しているのか分からなかったが、とにかく学校内を走り回った。夕闇迫る校舎の中には殆ど人の気配が無い。木曜日に一度しか活動をしない部活に部室が与えられている筈は無いので、どこかの教室を使っているのだろう。試しに自分の教室を見てみたが、誰の姿も無い。その時、可南子の言葉を思い出した。
「パズル解いたりするだけでいいみたいだから――」
確か、実力テストが終わった後、緒方が木製のパズルで遊んでいた気がする。あれは、緒方の教室に置いてあったと言っていなかっただろうか。
俺は廊下を駆け抜け、その教室へと向かった。
教室のドアを思い切り開けると、教壇の前に白衣を着た真山の姿があった。可南子は教室の中央、一番前の席に座っている。
「島井……?」真山がポツリと呟いた。
それは、一見するとごくありふれた放課後の教室に見える。生徒が教師に教えを乞うている姿。正しい姿。俺は一瞬「勇み足だったか?」と後悔した。しかし、真山の険しい顔つきと、動揺をしているその目が、正解であったと物語っている。
真山は俺の存在を確認するなり、いきなり可南子の腕を掴み、引き寄せる。机が派手な音を立てて倒れ、可南子は真山の腕の中に捕らわれた。
「可南子!」俺は教室内に踏み出す。
「動くな」真山がそれを制した。真山の手には小さなナイフが握られていて、それを可南子の顔の前に掲げる。
「静かに……静かにするんだ、島井」
傾いた太陽の光が教室の窓から射し込み、真山の姿は影のようだ。
「真山……何を」
「扉を閉めろ。さっさとしろ」真山は顎で俺の後ろを示す。俺はそれに従い、静かに教室の扉を閉めた。
「まさか兄まで来るとはな」
「真山、何をするつもりだ」
俺の言葉に、真山は影の中で嗤っている。
「そんなに血相を変えてここにやって来ておいて、間の抜けた質問だな。減点対象だ」
ナイフをちらつかせる真山の言動は冷静だった。あまりに淡々としているので、妹に凶器を突きつけているその行動と全く噛みあっていない。可南子は何が起こっているのか把握出来ていないようで、真山の腕の中で震えている。
「妹から手を離せ」更に一歩近付こうとすると、真山は再び俺を制した。
「動くな。動いちゃあ駄目だ、島井」真山はナイフをこちらに突き出す。
「真山……!」俺はどうする事も出来ない。
ここから真山に飛び掛かっていくには距離がありすぎる。そして、もし飛び掛かれたとしても、可南子が無事であるとは限らない。
「お前が来なければ……もう少し遅ければ良かったんだが……まあ、手間が省けて丁度良い」
真山は一瞬視線を外し、空いた手で教室の窓を指さした。ここが一瞬の隙であったのかも知れないが、そう気付いた時はすでに遅く、真山は再び体勢を元に戻していた。
「島井。窓のそばに行け」真山が背後の窓を指し示す。
「何を……」
「早くしろ! ……主導権がどちらにあるか理解しろ。だからお前は駄目なんだ」
真山が吐き捨てるように言う。冷静に見えるが、その内側は滾っている。良く見ればナイフの切っ先が細かく震えていた。
俺はゆっくりと歩み寄り、真山と妹の横を通り抜け、窓側へと向かう。
その時、真山の足が飛んできた。真山の足は俺の腹部に突き刺さり、鈍い痛みと同時に俺は教壇の上に倒れ込んだ。
「おっと、すまんな。つい蹴ってしまった。大丈夫か?」
真山が嗤った。
俺は答えず、腹部の痛みを堪えながら立ち上がり、窓の横へ辿り着いた。
「……どうすればいい」
「窓を開けろ。静かにだ。声を上げたらどうなるか、分かっているだろうな」
指示に従い、窓を開く。カラカラと軽い音を立てて開いた窓の先には別校舎の壁がある。沈みかけた夕日の陰になっていて薄暗く、人影もない。
「開けたぞ。次は?」
「では、そこに足を掛けろ」
「足?」
「フフ……フハハ!」
真山は肩を揺らして笑う。「本当に察しが悪いな。そこから飛び降りろと言っているんだ」
「……」
「この日をずっと待っていた。三年前からずっとだ。いつかお前を殺してやろうと……それが叶うとは」
真山の目は大きく見開かれていて、その口元は歪んでいる。
俺は――それ程憎まれていたのか。
「さっさと飛べ、島井! さもないと……」
真山が可南子の頬にナイフを当てた。
「待て、分かった。飛ぶ。飛べばいいんだろ」
俺は窓枠に足を掛けた。階下には灰色のコンクリート。高さは五階。飛び降りれば無事では済まない。
「……ここから飛んだら、妹を解放しろ」
「……良いだろう。約束しよう。さあ、飛べ」真山は目を大きく広げ、笑っている。
心臓が異常な速度で脈打ち出す。飲み込まれそうなほど暗い地面が眼下に広がっている。クッション代わりになりそうな木々も花壇も無い。骨折だけでは済まないだろう。
飛べば――死ぬ。
本当に飛ぶべきか? ここから飛んだからといって、可南子は解放されるのか? しかし、他に選択肢は無い。俺が飛び降りなければ確実に可南子に被害が及ぶ。それだけはハッキリしている。
手が、足が震える。自分でも分かる程呼吸が荒い。窓枠を掴む手のひらはじっとりと汗を掻いていて、思わず滑り落ちてしまいそうだ。
振り返って駆け出し、真山に飛び掛かっていけば――いや、駄目だ。体格は俺よりも細身の真山だが、一対一ならばまだしも、可南子を盾にされては成す術が無い。
「飛べ! 早く飛べ!」
「…………一つ、聞かせてくれ」
俺は窓枠から身を乗り出し、そして教室を振り返った。
「真山……お前が母を……殺したのか?」
「…………」
そこで、真山の笑みが消えた。みるみるうちに真山の表情が硬質化していく。
「その質問に意味があるのか? 知っているからこそ、この教室にやって来たんだろうが」
「やっぱり……そうか」
「お前も、こいつも、そうと知って俺の周りをうろつきやがって。お蔭でこの三年間、俺がどれだけ…………息子も娘も同じ高校、おまけに兄の担任で妹の顧問だと? 馬鹿にしやがって!」
真山は側にあった机を蹴り飛ばした。周りの椅子とぶつかりながら、机は鈍い音を立てて横に滑る。
真山は、俺と妹がずっと前からその事実に気付いていると思っていたのだ。母の死を糾弾するために近付いて来たと考えていたのだろう。
もちろん、それを否定したところで何かが変わるわけでも無い。
「母を……恨んでいたのか?」
その問いに真山は動きを止めた。
「恨んでなど――いや、恨んでいた……か。そうだ。憎かった。あの女も、その夫も、その家族も!」
真山は片方の手で自分の髪を掴み、乱暴にかき乱し、そして顔を揺らして叫んだ。きっちりと分けられていた髪型は今や見る影もない。
この声に反応して誰かが来てくれないか、そんな期待をしてみたが、窓の外からは何の物音もしない。誰か扉を開いてやって来るなんて展開は期待出来そうもない。
「お喋りが過ぎた。さあ飛べ、島井。お前の母親と同じように」
ナイフが可南子の顔の前を行き交う。
「あと五秒だ。四……三……」
あと二秒。行動の選択は出来ない。
俺は意を決し、腕に力を込め、膝を折った。
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