第12話 名探偵 多田川冬也の事件簿①

 鬱陶しい程の雨が体育館の屋根を叩く。その音もいつしか耳に慣れ、雑音にも感じなくなる六月の梅雨。

 夏に行われるコンクールに向けて、我が演劇部は一つの作品を仕上げるために、毎日稽古に勤しんでいた。三年生三人、二年生五人、一年生四人の合計十二人という、それ程人数もいない演劇部に専用の稽古場があるはずもなく、体育館のステージの緞帳を降ろし、密閉された空間を利用して細々と活動をしている。普段ならば、バレー部やバスケ部がボールを弾ませている音に耳を塞ぎながら練習をしているのだけれど、コンクールまで残すところあと二週間とあって、学校に特別の許可を貰い、午後九時まで活動時間を延長している。無論、顧問同伴が条件ではあるが、運動部が帰った後に自由に体育館が使えるのは、ありがたい事だ。

久しぶりに開け放たれた空間は驚くほど広く、本来なら帰宅せねばならぬ時間に公然と動き回れるとあって、部員たちは興奮していた。

 七月に行われる演劇コンクールには、県内の高校ならばどこでも参加する事が出来た。優勝したとしても小さなトロフィーと賞状が貰えるだけなのだが、主催者や審査員が一つ一つの出場高校に対してしっかりとコメントをしてくれる事が売りだ。辛口のコメントばかりだが、他人に意見を言って貰える機会があまりないので、殆どの高校がそれを目当てに参加をしている。

舞台上に大道具が設置され、出来上がった台本を片手に、キャスト陣がシーン作りに入っている。役者も演出も兼ねている部長の大乃真利子は張り切って声を上げていた。大乃は、演技だけは実に上手いと他校からも評判だった。

顧問の田所は体育館の真ん中にパイプ椅子を置き、太った体を預けていた。ただ座っているだけならば構わないのだが、田所は『普段は顔も出さないのに、出てきた時はやたらと口を挟んでくる』タイプであるから、非常に厄介である。基本的には部長の大乃が演出をしているのだけれど、大乃自身も舞台に立っているので、どうしても稽古の流れが止まる瞬間が出来る。そんな時、顧問の田所が助け舟を出すかと思えば、すでに通過したシーンについて言及し、見事に皆を混乱させていた。顧問の意見だから無視する事も出来ず、大乃はその意見を拝聴し、稽古は傷ついたCDのように、進んでは戻り、時には飛んだ。緒方は小声で「パイプ椅子の座面よ、抜けろ」と念じている。しかし、細い割に丈夫なパイプ椅子はしっかりと田所を支えていた。

音響の出番は今の所無いので、俺は田所の隣で台本を床に広げ、ぼんやりとステージを眺めている。エイコはステージに近い所で飽きもせず舞台を見つめていた。稽古風景など見ていても面白くないと思うのだが、物珍しいのか、彼女はニコニコと微笑んでいる。

しばらく稽古を続けていると、背後で体育館の扉が開く音が鳴る。鈍重な扉が開かれる音が静かな体育館に反響し、入り口を見ると、ガラの悪そうな男子生徒が一人、扉に手を掛けたまま立っていた。

あまりにも場違いな訪問者の登場に、その場にいる誰もが動きを止めて視線を送る。その男子生徒は幾つもの視線を跳ね返すように、体育館の中を見回した。田所が面倒臭そうに腰を上げ、その生徒へ寄って行った。何か言葉を交わしているが、ここからでは聞き取れない。

「あいつ下柳だ」と呟いたのは二年生の塚堀美由紀だった。

「知り合い?」大乃が尋ねる。

「いえ、クラスは違うんですけど……」塚堀は眉をひそめて言った。「不良ですよ」

田所が振り返り、俺に向かって手招きをしている。俺は立ち上がり入り口へと向かった。

「島井、下柳がお前に用があるそうだ」

すると下柳は声を荒げる。

「呼び出したのはそっちだろうが!」

体育館の中に下柳の言葉が響く。

「は?」

「テメェ、何なんだよ、こんなとこに呼び出しやがって」

 隣に教師がいるにも関わらず、下柳は俺の胸倉を掴んでグイと引き上げた。

「おい、やめなさい」田所は慌てたように、下柳を引き離す。下柳はわざとらしく舌打ちをした。

「島井」田所が太い声を捻り、太い声で尋ねる。「お前が呼んだのか?」

俺は首を振った。こんなおっかない不良の知り合いはいない。いたとしても、呼び出すだなんてとんでもない。憮然としていた下柳だったが、オレが延々と首を振り続けていると、「何なんだよ」と悪態を吐きながら、体育館を去っていった。演劇部の面々はしばらくざわついていたが、田所の合図で稽古に戻った。


 次の日の朝。昨日から引き続きシトシトと小雨が降り続いている。傘を差しているにも関わらず、肩を濡らせながら校門へと辿り着くと、門の前にパトカーが数台停まっていた。気になりつつも校門をくぐると、体育館の入り口辺りに人だかりが出来ている。

 一体何事かと思ったが、雨の日の独特な鬱陶しさが野次馬の一員になる事を躊躇わせる。雨に濡れる事が無いエイコは、チラチラとこちらの顔を伺っていた。

「行ってこいよ。俺は教室に行ってるから」と声を掛けると、エイコは嬉しそうに体育館へと飛んでいった。エイコがゴシップ好きなのはもう承知している。

 教室内もざわついていた。「事件」「警察」「体育館」と様々な単語が飛び交っている。「何かあった?」と回りに聞いてみたが、「何かあったらしい」という以外の情報は聞き出せなかった。

朝のホームルームの開始時間が十分ほど経過して、ようやく担任の真山が教室にやって来る。真山はドアを開けると、つかつかと俺の前に歩み寄り、こう言った。

「至急、体育館へ向かいなさい」



 校舎側からならば、屋根の付いた通路を伝って体育館へと向かえる。休み時間や放課後などに活躍するテーブルやベンチは雨に打たれ濡れていた。通称『中庭』と呼ばれる憩いの場を通り過ぎ、体育館の入り口へ向かう。

 さっきまで体育館の前に並んでいた人の群れは、始業ベルと共にそれぞれの教室へと収容されたようで、生徒の姿は無かった。入り口にはテレビドラマなどで見かける黄色のロープが張られ、その前には雨合羽を羽織った警察官が姿勢よく立っている。自分の名前を名乗ると、警官は体育館入り口の重たい扉を開き、中へと通してくれた。

 明るい体育館の中には、これまたテレビで見たような刑事や、おそらく鑑識と呼ばれる人たちが活動していて、他には校長や教頭をはじめとする学校のお偉方もいるようだった。昨日もここにいたはずなのに、とても同じ場所とは思えない物々しい雰囲気だ。

 警官に案内され、俺は体育館のステージへと連れて行かれた。ステージの緞帳は降りているのでフロア側からは入れず、ステージ脇の扉から用具置き場に入り、その中を通って舞台袖から出た。我が部の誇る大道具職人である塚堀美由紀制作のパネルの前には、数名の刑事らしき人物が固まって会話をしている。そしてなぜか、舞台中央に照明や幕を吊る為のバトンが一本降りていた。昨日はずっと上がっていた筈なのだが。

 ステージの向こう側には学生服を着た集団――多田川の姿があり、緒方や大乃といった演劇部の連中、顧問の田所、用務員のお爺さんまでいた。多田川は何か話を聞いているようで、メモを取りながら頷いている。捜査をしているのだろうか。

そして、エイコの姿もそこにあった。エイコは俺の姿に気が付くと、一目散にこちらへと近付いて来る。青ざめたその顔は、今更だが本物の幽霊のようだった。

「昨夜の下柳という人が……」

 エイコは小さな声でそう呟いた。まさか――。

 俺を連れてきた警官が、ステージの中央であれこれと指示を出している人物に「中津田警部」と声を掛けると、茶色の背広を着たやや太めの男が振り返った。警官は小走りでその男に近づき、耳打ちをする。男は頷きながらこちらに視線を向けた。一瞬で、足元から頭の先まで見られた気がした。男が顎で促すと、警官はステージを去っていった。

「島井平太君だね」男の声は低く、太く、力強かった。「北署の中津田だ。ちょっと話を聞きたいんだが、良いかな」


 中津田警部と話して分かった事は以下の通りだった。

六月二十一日、木曜日深夜未明。体育館ステージ上にて傷害事件発生。第一発見者は用務員の村木重則。早朝、村木が見回りをしていると、体育館の入り口が開いている事に気が付く。不審に感じた村木が体育館に入ってみたところ、バトンに吊るされている被害者を発見、驚いた村木は急いで舞台上に駆け上がり、バトンを降ろす。幸いにして被害者には息があり、村木はすぐさま救急車を呼んだ。

 被害者は高校二年生の下柳延広。多数の打撲痕があり、両手首を骨折している。また、多量の睡眠薬を服用しており、おそらく犯人に飲まされたものでは無いかと推測される。意識不明のまま市内の病院に緊急搬送、現在も治療が続いている為、事情聴取は未だされていない。


「こう、腕を固定された状態で、一晩中吊るされていたようだ」

 中津田は自らの腕を大きく広げて、下柳の状況を説明する。まるで磔だ。

「ど、どうしてそんな事を?」

 堀越美由紀が顔を顰める。

「さて。相当な恨みがあったのか、見せしめなのか……多田川君はどう考える?」

 中津田に話を振られ、多田川は顎に手を当てた。

「バトンで被害者を持ち上げるのは、相当な時間と労力を伴うはずです。何らかの意味があると考えるのが妥当だとは思いますが、今のところ、はっきりとした事は分かりません」

「ふむ」と中津田は頷く。「被害者の怪我はかなり酷く、予断を許さない状況だが……ところで、島井君は被害者とは知り合いかい?」

 急に質問を投げ掛けられ、俺は思わず口篭った。

「あ、いえ……一度、少しだけ話した事がある程度です」

中津田は再び「ふむ」と頷いた。

「一度、というのは、昨夜話をしたのが初めて、という事かい?」

「そうです」

「しかし、その時下柳君は君にこう言ったそうじゃないか。呼び出したのはそっちじゃないか、と」

 部員や顧問の田所からすでに事情聴取はしてあるらしい。確かにあの時、下柳はそう言っていた。しかし、下柳との面識が無いのは事実であるし、男を呼び出す趣味も無い。

「何かの勘違いだと思うんですけど」

「そうかい」中津田の口調はまるで、俺がそう言う事を分かっていたかのようだった。

「じゃあ、昨晩は何をしていたか、聞かせてもらっても良いかな」

 テレビドラマで聞いた事のある台詞。まさか、自分が犯人として疑われる事になろうとは、思ってもいなかった。

「関係者全員に聞いているんだ。あまり気にしなくてもいい」

 これもおきまりの台詞だ。

「夕べは……午後九時に部活が終わってからそのまま家に帰って、それからは家で過ごしていました」

「一歩も家を出なかった?」

「はい」

「それを証明してくれる人はいるかね?」

 エイコが勢い良く手を上げた。が、すぐに力なく腕を下ろす。今日子の言いつけを律儀に守り、エイコは三日に一度は家を開けるようになっていた。昨夜はちょうどその日に当たり、エイコは家にいなかった。そう言えば、彼女はどこで時間を潰しているのだろう。

「証明……どうでしょうか」

 家族も寝静まった深夜、自分がずっと部屋にいた事を証明出来る人間などいるのだろうか。

「家に帰った時は家族もいましたが、自宅から一歩も外へ出ていない、とまでは証明出来ないと思います」

「君はやけに冷静だねえ」中津田が感心したような目で俺を見る。

 そこへ、多田川が近づいてきた。多田川が中津田警部に何かを耳打ちすると、警部は手の平を俺に向けて『ここで待て』と合図をし、多田川と共に演劇部員や田所がいる所へ向かって行った。多田川と中津田はまるで往年のコンビのようである。

 その姿をぼんやり見つめていると、田所や緒方たちと目が合った。田所は露骨に嫌な顔をしてみせ、緒方は笑顔を浮かべてはいたが、明らかに顔が引きつっている。まるで「犯人はお前だ」とでも言わんばかりだ。

「……まいったな」つい、声に出してしまう。

 このまま犯人だと断定されて、逮捕されるなんて事はあり得るのだろうか? 幾らなんでも証拠が不十分だろうし、俺なんかよりも動機がありそうな連中は沢山いるだろう。

「下柳さんの事は、知らなかったんですよね?」エイコはおずおずと尋ねてくる。

「エイコまで俺を疑ってるのか?」

「ち、違います! ただ、昨日あの人を呼び出したのは誰なんだろうと思って」

 確かにその通りだ。俺が呼んでいない以上、下柳を呼び出したのは別の誰かという事になる。しかも、俺の名前を使って。

「誰かが、俺を犯人にしようとしてるって事か」

「そうですよ、きっと」

「……まいったね」

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