第10話 手がかりはブティック森で

五月二日。登校している生徒の数が昨日よりも少ない気がする。そんな、だらけ気味の授業を消化した火曜日の放課後。昨晩はたいして痛まなかった背中が、今朝になって悲鳴を上げ、授業開始の挨拶はさることながら、いつもは嬉しい終了時の礼すらも躊躇われた。腰を曲げるたびに背中の一部が焼けるように熱くなる。自分では背中を見る事が出来ないので、エイコに見て貰おうとしたのだが、恥ずかしいのか照れているのか、なかなか見てくれなかった。今時、男の上半身の裸くらいで照れる女性も珍しいと思うのだが。

大抵の病気に関しては、我が家は「放っときゃ治る」が昔からの家訓なので、しばらくは様子を見る事にした。放っておくだけじゃ治らないのは、この制服に空いた穴のほうだ。

という事で、俺は制服の治療を施すために、家の近所にある「ブティック森」という寂れた洋服屋へと向かった。普通の学生は隣駅にある「しまきた百貨店」に制服や体操着などの衣類を買いに行く。その百貨店は、一応我が校指定の制服取扱店なのだけれど、大きいだけに融通が利かなさそうである。その点「ブティック森」ならばこの程度の穴、もしかしたら費用無しで直してくれるかもしれないという淡い期待を抱いていた。昨日柏木さんから預かったお金は、使う気にはなれなかった。なんとなく、母に悪いと思ってしまうからだ。

「ブティック森」は、なんでここに洋服屋が、と思われるような住宅街の間にひっそりと建っている。入り口の横には、宇宙人の書き記した方程式かと思われるくらい複雑な模様をしたジャケットや、何と言い表せば良いのか分からない色のニットがハンガーに掛けられ、律儀にも毎日店の中と外を行き来している。しかし、少なくとも十数年間は潰れる事無く経営出来ているのだから、きっとどこかのお得意さんが買って行くのだろう。入り口のドアには我が校の制服を取り扱う旨を示す文言と、いつでも、いつまでも「セール中」の張り紙。どちらも端が黄ばんで折れ曲がっていた。

ドアを開けると、カラコロと音が鳴った。薄暗い店内には色とりどりの洋服が所狭しと並んでいる。店の一番奥にはレジカウンターがあったが、誰もいなかった。カウンターの後ろには暖簾が掛けられている。その向こうは家の住人が生活するスペースなのだろう。人の気配は無かったが、開店中なのだからいくら何でも留守という事はないだろう。

そうやって店内の状況を眺めていると、背後から「あっ」と声が上がった。何事かと振り返ると、エイコが目を丸くして壁を指差している。その指が示す方向へ目をやると、店の壁には数着の学生服が掛かっていた。親しみのある我が高校のブレザーが男女一着づつ。その横に黒い詰襟の学ランが一着。そしてその隣に――紺色のセーラー服。

思わず俺も「あっ」と声を上げた。それは、エイコの着ている制服と同じ形に見える。近寄ってじっくり眺めてみたけれど、それがどこの学校の制服なのかは記載されていなかった。

「同じヤツかな」

「多分……ほら、肩の線が三本で袖が二本です」

 確かに、エイコの制服も壁に掛かっている制服も、白いラインの数が肩と袖で違っていた。これが珍しい形なのかどうかは良く分からない。

「どこの制服か聞いてみよう」

 俺はカウンターへ向かい、暖簾の奥へ声を投げた。「すみません!」

 大きな声を出すと、ズキリと背中が痛む。必死にもう一度大きな声を掛けると、暖簾の掻き分けるようにして小柄なお婆さんが出てきた。「はいはい」と何度も連呼している。

「いらっしゃいませ、なんでございましょうか」

 語尾にだけイントネーションを付ける、のんびりとした挨拶だった。

「あの、あそこの壁に飾ってある紺色の――」

「あー、あれですか。あれはね、あと一着しか無いんですよ」

「え?」

「売り物じゃないんですよ。ごめんなさいねえ」

「いや、そう言う事じゃなくって」

「あれはね、ただ、飾ってあるだけなの。記念にと思って」

「お婆ちゃん、違うんですよ。良く聞いて下さい」俺は必死に声を出す。「あれは、どこの学校の制服ですか?」

「あれはね――」何かを思い出そうとしているのか、お婆さんは少し間を空けた。「売り物じゃないんですよ。あと一着しかなくて、記念にと思って」

ぽっかりと口をあけている俺を見て、エイコは小さく笑った。睨むように視線を送るとエイコは目を逸らす。お婆さんの顔や手には深い皺がいくつも入っていて、かなりお年を召されているようだ。

さて、どうしたものかと思案に暮れていると、暖簾の奥から女性の声がした。

「お婆ちゃん。どーしたの?」

暖簾を分けて出てきたのは、短い髪に黒縁の眼鏡を掛けた女の子だった。お婆さんの孫さんなのだろうか。

「あ、いらっしゃいませー」その女の子は俺のブレザーを指差すと、

「あれ、その制服、うちの高校の人?」

「ああ、北高三年。君も?」

「うん、私は二年。じゃあ先輩だ。どーしたんですか?」

「ええと……」

 何と説明したものか思案していると、お婆さんが女の子に向かって言った。

「あのセーラー服が、欲しいんだって」

「ちょっ……」

 余りに奔放なお婆ちゃんの発言に、俺は言葉を失ってしまった。そんな俺の姿をジロジロと見つめた女の子は「そーいう趣味?」と小さく呟いた。

「ち、違う違う。ただ……」言葉を捜す。まさか、幽霊が同じ服を着ているから、などとは言えない。「この店は違う学校の制服も、取り扱うようになったのかなと思って」

 上手く吐けたような、全然駄目なような、微妙なラインの嘘だ。

「ま、趣味は色々よね」

 信じてはもらえなかった。女の子は続ける。

「あの制服は、昔のウチの高校のヤツみたいですよ? 三十周年記念を境にブレザーに変えたんだって。今年が三十三周年だから、変わったのは三年前って事かな?」


 女の子から伝えられた事実は余りにも衝撃的だったが、背中の穴は無料で直してもらえた。ブティック森からの帰り道、エイコはあからさまに動揺していた。

「私も、あの学校の生徒だったんですね……」

「そう、なるのかな」

「全然、気が付かなかったです」

「やっぱり、エイコの記憶が戻らないと、どうして幽霊になって出てきたか分からないな」

「そうですね。私……何がしたかったんだろう」

「記憶を失ったのは、その、頭の怪我のせいなのかね」

「どうでしょう? でも他にこれと言って傷は見当たりませんし」

 制服の下にも怪我があるのかもしれないと思ったが、なんだかいやらしいと思い、言うのも考えるのもやめた。

 それよりも、どうしてエイコは昔の制服姿なのか、こちらの方が問題だろう。

 幽霊は、自分が死んだ時に来ていた服を着たまま現れる、と仮定してみよう。

 彼女が着ている制服はもう使われていない訳だから、エイコが「昔を懐かしんで久し振りに袖を通した瞬間死んだ」とか、あるいは「コスプレ趣味で他校の制服を着てたら死んだ」などで無い限り、三年以上前に死んだ、俺と同じ高校に通っていた生徒の幽霊、という事になる。そして、どういう理由かは分からないが、何かをする為に、何年もかけてこの世に戻ってきた、と言う事だ。

 それは一体どんな理由なのか。学校で何かあったのか、何かしたかったのか……。考えてみた所で答えなんて出そうも無い。エイコの記憶が戻らない限り、事態は進展しないのかも知れない。

 何かしらのショックがあれば、幽霊でも記憶が戻ったりするのだろうか? 

「あ! じゃあ、生きていたら私はお姉さんなんですね!」

 エイコは急に元気な口調になった。

「ま、そうなるかな」

「ふふ、お姉さんかあ」

 エイコは嬉しそうに笑っている。年上であるという事は、女性にとって喜ばしい事なのだろうか。

「三十三歳年上かもしれないけどね」と言うと、エイコはそのまま固まってしまった。

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