第9話 母が遺したモノ

 三人でやって来た道を、二人で帰る。ぽつぽつと外灯が灯り始め、そして夜が訪れた。気まずい雰囲気になるかと思ったが、エイコは予想以上に積極的に話しかけてきた。「羽衣ちゃん可愛かったなあ」「あんな家に住みたい」などなど。

 今日子は本当に満足出来たのだろうか。あの公園で行われた子供とのやり取りが、今日子に残酷な現実を突きつけたのではないか。ぬいぐるみを返してしまって、本当に良かったのか。

「大丈夫ですか?」

 エイコは俺の前へと回り込むと、俺の顔を覗き込む。

「ああ、ごめん。ちょっと考え事」

「今日子さんの事……ですか」

「それも、あるんだけど」

「けど?」

「……うん」

自分の感情を説明しようとしても、どこからどう話せば良いのか分からず、俺は曖昧に返事をした。そのせいか、それからは二人とも無口だった。

駅へ向かう線路沿いの通りには花びらを散らした葉桜が並んでいて、外灯がぼんやりと緑の葉を浮かび上がらせる。

ふと、母を思い出した。

「桜、見ていかない?」

 俺は、外灯の下に浮かんだ小さなベンチを指差して言った。

「え、桜って……?」エイコは葉桜を見て戸惑いの表情を浮かべる。

「花が無くても、立派な桜」

 そう言ってベンチに腰掛けた。これは俺の考えた台詞ではない。母の受け売りだった。


 俺が小学校に入ったばかりで、可南子は幼稚園に入園したての頃。父と母と妹の四人で、少し遠出をして大きな公園へ花見に行く予定を立てた。父は仕事が忙しく殆ど休日が無かったので、家族全員での花見は楽しみで仕方が無かった。母も全員の弁当箱を新調した程だから、それなりに楽しみにしていたのだと思う。

 しかし、その当日に父は急な仕事が入ったとかで、花見を一週間後にしてくれと言った。一週間後は、まだギリギリ桜が開花しているという予報だったので、俺も可南子もしぶしぶ承知した。

 そして当日。向かった公園の桜は、すでに散っていた。出かける前日、春何番なのか分からない大風が吹き、桜の花びらはその風に乗って来年へと飛んで行ってしまった。

 桜は花びらを散らすと、中央のおしべが残される。紫色をしたおしべと、茶色い枝と、緑の葉とがごちゃ混ぜになっていて、真っ白な桜を期待していた俺はそれが非常に汚い色に見えた。

 その時、俺は初めて父を憎んだ。「こんなの桜じゃない」と桜の木を何度も蹴った。可南子は大声で泣いていた。

 すると、母はそんな俺の頭に手刀を落とすのだった。かなり痛かった。頭を抑えていると、母は俺の頭をグシャグシャと撫でてこう言った。

「花は無くても立派な桜じゃない。見てごらん、葉っぱの緑色。綺麗じゃない。桜の花なんてね、一年に一週間くらいしか咲かないのよ? ちょっと風が吹いたくらいで散っちゃうし。たいした事無いわね。その点、葉桜はその程度じゃへこたれないわ。なにせ、これから来年までずうっと耐えていくんだから。それに何より、葉っぱは食べれるし」

 母は得意げだった。そう言われて改めて見上げた葉桜は、真下から見上げたせいもあるのだろうが、不思議と雄大に見えた。枝の先についている小さな蕾をしっかりと守っている姿が、両脇に俺と可南子を抱いている母の影と重なった。


 家に帰った頃にはもう辺りは真っ暗だった。玄関を開けると、父と可南子の革靴の隣に黒いハイヒールが並んでいる。柏木さんのものだろう。

「ただいま」と台所に向かって声を掛けると、中から「おかえりー」と可南子の声がして、エプロンをつけた柏木さんが出てきた。ドアの隙間から父の姿が見える。

「おかえり、平太くん」

「どうも」

「夕飯、作ってあるから、着替えて降りてきてね」

「わかりました」

 一礼して階段を上ろうとすると、不意に柏木さんに肩を掴まれた。柔らかな感触が肩から背中へと伝わり、思わず階段を踏み外しそうになる。

「大丈夫?」柏木さんが微笑んだ。俺は目を反らし、「大丈夫です」と小さく頷いた。

「制服、背中破けちゃってるわよ」

 そう言われてブレザーを脱いで見てみると、背中の真ん中辺りが少しちぎれていた。今日子の家で落ちた時に、おもちゃ箱にぶつけた場所だ。

「ちょっとクタクタになっちゃってるし、衣替えもまだでしょ。新しいの買っちゃう?」

「あ、いえ、勿体無いんで、生地を買って縫います」

 そう言った俺の意見を聞かずに、柏木さんはエプロンから財布を取り出すと、一万円札を二枚取り出して、俺のワイシャツの胸ポケットに入れた。

「いや、困ります」

「良いのよ。たまにはこういう事もさせて」

 そう言うと、柏木さんは微笑を残して台所へと戻って行った。甘いコロンの匂いが階段の辺りに広がる。

「……新しい、お母さんですか?」

 自分の部屋に戻ると、エイコが言いにくそうに尋ねてきた。

「違うよ。あの人は柏木恵美さんって言って、母親の高校の同級生。母親が死んじゃってから、何かと良くしてくれるんだ。最近は結構頻繁に、夕飯を作りに来てくれたりとか」

「そうなんですか……綺麗な人でしたねぇ」エイコはうっとりとしている。本当にそっちの趣味があるのでは、と疑ってしまう。

「とてもお若そうに見えましたけど、お幾つなのでしょうか」

「母親と同い年だから、今年で三十八歳かな」

「もっと若く見えますね」

「そうだな」

 俺は何となく、制服の上着の穴をもてあそんだ。少し力を入れて引っ張ると、制服の穴が余計に広がってしまう。何をやっているんだ、俺は。

「エイコはさ――」と声に出したは良いが、何故か質問をする事が躊躇われた。だが、なぜ躊躇したのか、その理由が見当たらなかったので、結局聞く。

「好きな人とか、覚えてないの?」

 エイコはしばらく天井の辺りを見上げて考えていた。そして、色々な角度に首を捻っては「うーん」と唸り声を上げる。

「やっぱり思い出せないんですよね。自分の事が。この制服だって、どこの学校かも分かりませんし……頭の怪我も分からないし」

「そうか」俺は、誰かの名前が挙がらなかった事で妙に安心していた。安心をしたら、今日子が別れ際、エイコに何か耳打ちをしていた事を思い出す。

「そういや、さっき今日子さんになんて言われたんだ?」

 するとエイコはまた首を捻った。

「それが、意味が分からないんですけど……平太さんはもう高校生だから、三日に一度くらいは一人にしてあげなさいって。……どういう意味か、分かります?」

 あの人は本当にろくでもない事を。

 俺は「さあ、なんだろうね」と答えをはぐらかした。

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