第8話 有為の奥山今日越えて
五月一日。今日は風邪が流行っていたり、親族の誰かが亡くなったりで、休んでいる生徒が多いそうだ。ウチのクラスでも、欠席者の半分が一様に親戚筋を亡くしており、担任の真山も呆れていた。おかげで校内はいつもよりも静かでとても過ごし易かったが、今頃どこかで大型連休を満喫している奴がいると思うと虚しさがこみ上げてくる。
「なかなかやるわねぇ、最近の高校生も」と今日子は感心していた。
「勿体無いですよね」エイコの口調は厳しい。
「エーコちゃんは立派ねー」
今日子は感心しているのか茶化しているのか分からない。
授業を終え、校舎を離れて駅へと向かう。「どっか行くの?」と今日子が不思議そうな声を出した。
「どう行けばいいんですか?」
「え? 何が?」
俺が何を言っているのか分からなかったらしく、今日子はきょとんとしていた。この人は、自分が幽霊として出てきた理由を忘れてしまったのだろうか。
「今日子さんの家ですよ。ぬいぐるみ、渡すんでしょう?」
「あ、忘れてた」
さすがですね、今日子さん。
今日子の家は急行列車で五つ離れたところにある。その駅までの切符を購入しながら、俺は少し気になっていた事を質問する。
「今日子さん、結構離れた所に住んでいるのに、どうして幽霊になってから、この辺りにいたんですか?」
娘の事を気にしていたのなら、家の近くにいる方が自然だ。
すると、今日子は少しだけ顔に陰を落とした。
「前言ってた柴田って幽霊のオッサンとさ、最初に出会ったのがここなんだよね。そのオッサンが誰かをずっと待ってた場所。ここにいればさ、ひょっとしたら、オッサンが会いたがっていた人と会えるかもって――いや、嘘ね。本当は……ただ寂しかったのよ。ひょっとしたら、まだオッサンはどこかにいるかもって、思ってたのよ」
そう言って今日子は照れくさそうにはにかんだ。
「誰も話す人がいないって、結構キツイわね。だから、なんつーか……アンタたちと話せて、良かったわ」
二人にはサボテンに入ってもらってから電車に乗り込み、車窓に流れる景色を見ながら、今日子の言葉を反芻する。
この電車に乗っている乗客や、窓から見える沢山の家で生活している人々は、人恋しくなった時、誰かと話そうと思えばいつでも誰かと会話が出来る。しかし、エイコや今日子にはそれが出来ない。もしも、俺が彼女たちの姿を見る事が出来なかったら、ひょっとすると彼女たちは、ずっと孤独に彷徨い続けていたのかも知れない。
俺は、エイコや今日子と話が出来る能力が自分にある事を、初めて少しだけ感謝した。
今日子が住んでいる街は閑静な住宅街で、住人以外は殆ど立ち寄る事が無い。指示通りに進んでいくと、今日子は建売住宅の並ぶ家の一つを指差した。クリーム色の壁と茶色の屋根、玄関のドアや窓枠は白色で塗られている、何ともメルヘンチックな愛らしい家だ。家の前に腰ほどの高さの黒い門があり、そこから玄関まで続く砂利道の脇には小さな植木鉢が並んでいた。旦那さんか、娘さんが水をやっているのだろうか、植えられている木々は青々としている。
エイコは家を見た途端「可愛い!」と大はしゃぎをしていた。今日子は浮かない顔をしていたが、俺の視線に気が付くと笑顔を作った。
「今の時間だと、まだ幼稚園かな」そう言いながら今日子は二階まで浮かび上がり、窓から家の中に入って行く。幽霊とは便利なものだ。しばらくすると、今日子が今度は玄関のドアを通り抜けて外へと出てきた。
「いないみたい」今日子は足元の(正確に言えば足は無いので胴元の)植木鉢を指差した。
「この植木鉢の下、見てくれる?」
言われた通りに植木鉢を持ち上げると、そこには何のキーホルダーも付いていない銀色の鍵があった。今時、こういうところを隠し場所にするのは物騒だと思うのだが。
「じゃ、入りましょ」
「いやいや、それは犯罪じゃ――」
「自分の家に入るのが犯罪なわけないでしょ」今日子は片眉を吊り上げ、指を左右に振る。
「それに、ヘータじゃなきゃ無理なんだから。ほら、さっさと開ける」
……これが人にものを頼む態度だろうか。
しかし今日子の言う通り、俺でなければぬいぐるみを取れないのは事実である。家主の帰りを待つのはどうか、と提案してみたが「絶対にダメ」と却下された。
「人助けだと思って、ね?」今日子は手を合わせる。
「私からもお願いします」とエイコ。
「一分も掛からないから、すぐやればバレないわよ。いざとなったらアタシの名前を出せば多分大丈夫だから。ほら、グズグズするな!」
家主が帰って来た時の言い訳を考えながら鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと玄関のドアを開けた。中に入り、再び鍵を閉める。閉めたドアから急にエイコの顔が出てきて、顔と顔が接触した――ような気がした。エイコは「きゃっ」と声を上げ、「ごめんなさい!」と頭を下げる。少し、動揺した。
家の中は驚くほど綺麗に掃除が行き届いていた。玄関には埃一つ無く、入ってすぐ見える階段のつなぎ目も、台所へと通じるガラス張りの引き戸の段差も、今掃除をし終えたのではないかと思うほど綺麗だった。
「綺麗なお家ですね」とエイコは関心している。自分も同感だった。やや意外ではあったが、これも今日子の躾の賜物なのだろう。
今日子に案内され、台所の隣の部屋へと向かう。扉を開けて見ると、そこは三畳ほどの小さな和室になっていた。
「倉庫にしちゃってるんだ、ここ」
彼女の言う通り、そこには掃除用具や、旅行用の大きいアタッシュケース、旦那さんの趣味なのか、ゴルフバッグなどが所狭しと並んでいた。今日子は天井へと浮き上がると、襖の上にある天袋を指差した。
「ここに、コアラのぬいぐるみがあると思うんだ」
俺はアタッシュケースを足場にして、天袋の戸を開けた。エイコが心配そうな顔でこちらを見つめている。天袋の中は横長のダンボールで空間の殆どが埋まっていた。中は暗くて見えなかったが、ダンボールの隙間に手を入れてみると、思ったほど奥行きはなく、指はすぐに壁にあたった。
「そのダンボールの後ろ辺りに、ない?」
言われた通りに手を回すと、指先に柔らかい毛の感触があった。
「あった、多分これ」
俺の発見に、今日子は「やった」と喜んだ。エイコは手を叩いている。
ダンボールを押し分けつつ、人形を手掴みしようとグイと手を伸ばす。すると、先ほどまであった指先の感触が殆ど感じられなくなってしまった。どうやら、手を深く入れようとした事で人形を奥へと押しやってしまったようだ。
「……あ」
「どうしたの?」
「……逃げられた」
「えっ?」エイコが声を上げる。「う、動いたんですか?」
「どうせ、指で押しちゃったとかでしょ」今日子の冷静な分析が入る。
「大丈夫、逃がさん」
中指と人差し指で僅かな毛の先端を掴み、少しずつ引き寄せる。しばらく一進一退を繰り返したが、指でどうにか挟める段階ま手繰り寄せたところで、ここが勝負所と判断し、勢い良く引っ張った――と同時に、足場にしていたアタッシュケースが斜めに傾き、俺の体は支えを失い畳へと落下する。
エイコが小さく悲鳴を上げた。落下の衝撃音と同時に、背中に激痛が走る。真下には、子供のオモチャが入っている固い木箱があった。
「だ、大丈夫ですか?」エイコが近寄ってくる。背中には刺すような痛みがあり、落下の勢いで襖に穴を開けてしまい、散々な結果となったが、無事にコアラのぬいぐるみは手に入れる事が出来た。俺は仰向けに倒れながら、高々とぬいぐるみを掲げた。
誰かが帰って来る事も無く、無事に家から脱出する。破れた襖が気になったが、今日子が気にしなくて良いと言うのだから、良いのだろう。
奥山家から少し離れた所に、緑色の鉄柵に囲まれた小さな公園があった。公園と言っても遊具は一つも無く、入り口の反対側に申し訳程度に木製のベンチがあるだけの小さなスペースだ。俺はベンチに腰掛け一息入れる。後はこのぬいぐるみをどうにかして渡せば良い。
「ここね、この辺の奥さんたちが集まるのよ。アタシが初めて公園デビューしたとこなの」
今日子は公園の真ん中で手を広げる。その顔は、今まで見た事が無いくらい優しい顔になっていた。これが母親の顔と言うものだろうか。見た人をホッと安らがせる顔だ。エイコも釣られて笑っている。
ふと、視界の端、公園前の道を小さな女の子が走って来た。その女の子は公園の入り口辺りで立ち止まり、じっと俺を見ている。今日子が俺の視線に気が付き振り返った。と、同時に「羽衣」と呟く。
羽衣と呼ばれた女の子は駆け足で公園に入って来た。今日子の横を通り過ぎ、俺の目の前で立ち止まる。ピンクのオーバーオールを着て、髪の毛を頭の上で一つに結んでいる、活発そうな女の子だった。
「それ、アタシのクマ!」
女の子は俺が持っているコアラのぬいぐるみを指差した。
「君は、奥山羽衣ちゃん?」
「そう! クマ、返して!」
羽衣にコアラの人形を渡すと、彼女はぎゅっと人形を抱きしめた。今日子はその姿を公園の真ん中で見つめている。
「今日子さん、そんな所にいないで、もっと近寄ればいいのに」
俺が小さく声を掛けると、「いい、アタシはここでいいのよ」と手を振る。
すると、その声に反応したかのように、羽衣は後ろを振り返った。
今日子が体を強張らせる。
「お母さん?」
羽衣が呟く。今日子は固まっている。隣にいるエイコが息を呑む音が聞こえた。自分が息を呑んだ音だったのかも知れない。
「お母さん!」
そう言って、羽衣は今日子の方へ駆け出した。今日子は反射的に両手を広げる。しかし、羽衣はそのまま今日子の体を突き抜け、公園の入り口へと走っていった。入り口には買い物袋を提げた女性の姿。その女性は羽衣を片手で抱き止めると、こちらに視線を送った。彼女は俺に向かって、挨拶程度に小さく頭を下げると、「そのお人形どうしたの?」と羽衣に尋ねる。「アタシの!」「そんなの持ってたかしら」というやり取りが聞こえる。その女性の声は、家の隅々まできちんと掃除が出来そうな、とても優しい声だった。二人はそのまま、奥山家がある方向へと歩いて行く。その間も今日子は決して彼女と子供に視線を向けなかった。
「さ!」
今日子は俯きながら手を叩く。表情は見えない。乾いた音が公園内に響き、すぐに消える。
「ぬいぐるみも渡せたことだし、アタシは帰らなきゃいけないみたい」
「帰るって、今日子さん……?」
エイコは今日子の側へと近寄った。今日子は俯いたままだ。心なしか、今日子の体がぼやけて見える。先ほどよりもその輪郭が褪せているような気がする。
「アタシはさ、やっぱりここにいちゃ駄目なんだって……今、分かったよ。羽衣はさ、幸せみたいだし、アタシは、それで良いしね」そう言いながら顔を上げた今日子の頬に、一筋の涙が伝っていた。「これ以上何かを望んだら、バチ当たっちゃうわ」
今日子の流した涙は、頬から顎を伝い、ポトリポトリと地面へ落ちた。涙の跡はしっかりと地面に残り、土の中へ溶け込んでいった。その間も、彼女の体はみるみるうちに薄らいでいき、今では向こう側の家々が透けて見える程だ。
「二人ともありがとね。ホント短い間だったけど、サイコーだったよ」
「今日子さん!」エイコは今日子に抱きついた。エイコの目からも、止め処なく涙が零れている。
気が付けば俺は立ち上がり、今日子の近くへと駆け寄っていた。今日子の体に触れたいと思ったが、手は体を通り抜け、何も掴まなかった。
「ヘータ。ぬいぐるみ、ありがとね。アタシ、アンタみたいなに生意気なの嫌いだけど」
「……俺だって、今日子さんみたいな人は苦手です」
「言うねー。最後くらい本音で、好きだって言ってよ」
最後、という言葉を聞いて胸が詰まる。これで……最後なのか? こんなに急に?
「……自分に嘘は、付けません」
「ケチねー」
今日子はケラケラと笑った。その顔は涙でグシャグシャになっていたが、とても綺麗だった。
「あ、ヘータはちょっと向こうに行ってな」
今日子が手で追い払う仕草をする。何の事だか分からなかったが、俺は二人から距離を取った。
「エイコちゃん」今日子はエイコの耳元でなにやら呟いている。エイコは泣きながらも目を丸くし、不思議そうな顔でこちらを見た。今日子はにんまりと笑っている。
「よし、じゃ、行くわ! 殆ど体も消えちゃってるし」
そう言うと、今日子はエイコを引き寄せて、おでこに唇を付ける。
「二人とも、マジで、ありがと」
今日子の体は、水滴が地面に吸い込まれていくように、スッと消えて、いなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます