第2話 幽霊は再びやって来る
一日目のテストを終え、日が紅く染まる前に我が家へと帰ってきた。昨日の勉強の成果を思う存分発揮した俺は、見事に玉砕した。
まだ明日がある。大丈夫だ。
明日は苦手な英語と、苦手な数学と、苦手な化学だ。
しかし、日が沈む前に勉強机に向かえるほど勉強行為が身体に馴染んではいないので、とりあえずはダラダラと過ごした。
とっぷりと日が暮れ、可南子が作った夕食を二人で食べ終え、洗い物を済ませてから、さあ、とばかりに机に向かう。
だが、やはり頭に浮かぶのは昨夜の幽霊の事ばかり。
暇な時間にでも考えておけば良かったと思うが、後の祭りだ。ぐるぐると頭の中を駆け回り、のっけから勉強どころではなくなってしまった。
あの子が着ていた制服はセーラー服だった。
うちは男女ともにブレザーなので、違う高校の生徒と言う事になるだろう。
この辺りにセーラー服の高校はあっただろうか……他校の制服など注意して見ていないから全く分からない。
だいたい、俺に何の用だったんだ。勝手に部屋に現れて、声を掛けたら驚いて逃げる。意味が分からない。
そうやってぶつくさと考え事をしながら、ぼんやりと教科書を捲っていると、
「……うらめしや」
また、背後から声がした。
慌てて振り返ると、昨日の幽霊がそこにいた。
彼女は昨夜と同じ制服姿で部屋の隅に浮かんでいて、
やはり頭から血を流している。
俺と目が合った幽霊は、しかし今度は逃げ出す事無く、ぺこりと頭を下げた。
意外と礼儀をわきまえた幽霊だ。勝手に部屋に入って来て礼儀も何も無いが。
「ええと……何の、用事でしょうか」
俺はなるべく明るい声を出す事に勤めた。
ここで逃がすわけにはいかない。
何故俺の部屋に出てきたのか、その理由が分からない限り、俺の成績は暴落する一方だ。ただでさえ上がり難いと評判の株価である。
しばらくの沈黙が流れた後、彼女は伺うような目で呟く。
「ここは…………どこですか?」
さらに長い沈黙。
彼女の発したとても短い言葉を理解する為に、かなりの時間を要した。
ここはどこ? 自分から出てきておいて、何を言っているのだろう。
「……ここは、俺の部屋です」
「……あなたは?」
「島井、平太です」
彼女は首を傾げる。首を傾げたいのはこちらの方だ。
「私が……見えるんですか?」
「……ええ。こうして会話も出来てますし」
「わぁ、凄いですね」彼女は感心するように手を合わせた。
「いや、別に」俺は首を横に振る。
幽霊が見えるなんて何一つ凄くはない。
人には敬遠されるだけだし、本当に会いたい人とは会えないのだから。
「あんまり、驚かないんですね。私、幽霊なのに」
「すみません」と軽く頭を下げると「あ、いえ、私が不甲斐無いばっかりに」と幽霊は何故か落ち込んでいる。
何と言うか、幽霊らしくない幽霊だ。
「あの……怒ってますか?」彼女は窺うように尋ねてくる。
「いや、別に」
「でも、なんか怒ってるみたいな顔だから……」
「ああ、これですか」俺は自分の顔を指さす。
「これはその、性格と言うか……癖みたいなもんです。良く言われるんですよ。お前には感情が無いのか、とか」
「感情が無いんですか?」幽霊はぱちくりと目を見開いた。
「いやいや、ちゃんとあるけど……」
無表情、無感情、不自然、顔が死んでいる、鉄仮面、サイボーグ……色々と言われたものだ。その表現方法の豊富さには、驚くばかりである。
「こんな顔だけど、別に怒っている訳じゃ無いから」
「そうですか、良かった」
彼女はホッと胸を撫で下ろした。
ううむ、何だろう。この不毛なやり取りは。
このままこんな会話を繰り返していても仕方が無い。
こちらから本題に入るべきだろう。
「あなたは、何をしにここへ?」
俺の問いに、彼女は眉をキュッと寄せ、視線を落として悩み始めた。
「それが……よく分からなくて」
「分からない、というと?」
「この場所に来なければいけなかった事は、何となく覚えているんです。でも、それが何故なのかが思い出せなくて……」
彼女の口調は、頭から血を流している幽霊とは思えないほど穏やかで丁寧だった。
すこし根は暗そうだが、きっと優しい人だったのだろう。
「ちょっと、いいかな」
「はい」
「君は……俺の事を知っていて、出てきたわけじゃない?」
「すみません。全く存じ上げないです……」
「俺に恨みを抱いているとかは?」
すると彼女は大げさに両手を振って否定した。
「恨むだなんてとんでもないです!」
「でも、うらめしやって言ってたよね」
「あ、あれは――」彼女は少しはにかむようにして下を向いた。
「幽霊といえば、挨拶はうらめしやかなって……」
しばらく呆然と口を開けていた俺は、小さく息を吐き、肩を落とした。
まあ、良かった。自分の知らないところで恨みを抱かれたまま死んだ人がいたわけではなかったようだ。
だとしたら……この人は何故俺の部屋に出てきたのだろう。
そもそも、どういう経緯で亡くなった人なのだろうか。
「……その頭の怪我は、事故か何かで?」
「怪我……?」
幽霊はまた首を傾げる。
気が付いていないのだろうか。俺は彼女の頭を指差した。彼女は右手の指先で自分の頭を撫でて確認する。見た限り血は乾いていないように見えるが、彼女の指はとても綺麗だった。
「血が流れてるんだけど……分からない?」
「あまり……覚えていないんです。自分の事も」
「自分の事って……名前とかも?」
「はい」
「記憶喪失なのかな。その、怪我のせいで」
「そうかもしれません」
彼女は困ったように笑った。何故かホッとするような微笑みだった。
その後も幾つか質問してみたところ、彼女が幽霊としてこの世に「出現」したのは最近の事らしい。また、俺に会うまで自分の姿が見える人間に出会った事は無く、他の幽霊にも出会わなかったらしい。
そして、何故だか理由は分からないが、彼女はこの家のこの部屋に引き寄せられるようにやって来てしまったそうだ。
俺が知らないだけで、この部屋には何か特殊な場所だったりするのだろうか。見えないところにお札とか貼ってあったら、とても嫌だ。
「とても……仲の良かった人がいたのは覚えてます。顔も名前も出てこないんですけど」
それでは、やはり手掛かりにはなりそうもない。
「それと……」彼女は思い出したように呟いた。
「エイコ」
「エイコ?」
「なんとなく、思い浮かんだんです。エイコって名前」
「君の名前かな」
「どうでしょう。そうかな」
エイコ。自分の身近な人でエイコと名前の付く人はいない。
きっと、この子の名前なんだろう。
「あの、勉強中だったんですか? ……島井さんは」
彼女は勉強机に広げられた教科書やら参考書の山を指差す。
「平太でいいよ、エイコさん」
そう言うと、突然彼女は俯いてしまった。何かまずい事でも言っただろうか。
しばしの沈黙が流れた後、彼女は小さく呟いた。
「へ……平太」
「はい」
「平太」彼女は楽しそうに何度も名前を呼ぶ。
「平太、平太、平太」
「そんなに呼ばなくても聞こえてるよ」
「あ、ごめんなさい! ……じゃあ私も、エイコって呼び捨てにして下さい」
「それは……慣れたらね」
「はい」彼女は満足そうに頷いた。
「勉強は……まあ、別にいいよ。出来なくても全く問題ないから」
真山に笑われるのは癪だが、今から悪あがきをしたところで、たいした結果に結びつきそうも無い。ならば、両手を上げて降伏の意を示しておいた方が、心の被害も少なくて済むと言うものだ。
「ええと、その……勉強が、不得意なんですか?」
「馬鹿なんですか? って言ってくれて構わないけど」
「あ、いえ、そんなつもりじゃ!」エイコはブンブンと頭を振る。
「明日もテストなんだけどね……まあ、今更って感じかな。勉強なんて出来なくても、生きていく分にはそれほど支障は無いと思うし――」
「あ、そういう事じゃないと思いますよ、勉強って」
彼女は、先ほどとは打って変ったように真剣な表情になった。
「勉強って、自分が何に向いているのかを知るための大事な手がかりだと思うんです。勿論、得意じゃない方もいると思います。この分野は駄目だなって思ったら、諦めちゃっても良いと思います。……でも、もしかしたら、あなたが学んだ事が、誰かを救う事だって出来るかもしれないんですよ? 全部を一括りにして投げ出さないで、その中でも自分に向いている分野を一つでも見つけるつもりで頑張ってください!」
彼女は身を乗り出すようにして、両手のこぶしをギュッと握っている。
随分熱が入っている。
この人は勉強が好きなのだろうか、と呆気に取られていると、
「……あ、ごめんなさい! なんだか変な事を突然」と彼女は勢い良く頭を下げた。
頭を縦に振ったり横に振ったり、忙しい幽霊だ。
「いや、いいよ。なかなか良い事を言ったと思う」
「……そうですか?」エイコは覗うような視線を送ってくる。俺は大きく頷いた。
「良かった」
胸を撫で下ろした彼女は、くるっと体を回転させて窓の方へ向かって行く。
「じゃあ、勉強頑張って下さい!」
そしてそのまま消えてしまう――かと思ったが、彼女は窓の辺りでまごまごとしている。
「どうしたの?」
「あの……また、ここに伺ってもいいですか?」
彼女は遠慮気味にそう言った。
色々不明な点も多いけれど、その辺りの若者よりもよほどしっかりとしている。
幽霊が話し相手というのも、それなりに面白いものかもしれない。
何より、俺の特異な力を隠す必要が無いのは気が楽だ。
「テストが終わって、ゴールデンウィーク中は家を空けちゃうんだけど、その後だったらいつでもどうぞ」
そう言うと、彼女は嬉しそうに頭を下げて、溶けるように窓の外へと消えていった。
随分とお節介焼きの幽霊だ。しかし、どこか心地の良い説教だった。
母親に怒られているような懐かしさすら感じる。
最初はおどおどしたおかしな女の子だと思っていたのだけれど、少し見当違いだったかもしれない。
きっと、彼女はもっと話をしたかったのだろう。
でも、こちらの状況を考えて外へ出て行ってくれたのだから、俺ももう少し頑張る事にしよう。
教科書を睨みつけ、ノートにペンを走らせる。そうやって一時間ほど没頭していたが、慣れない行為だからか肩が凝って仕方がない。
体を解そうと立ち上がり、腕を上に伸ばし腰を捻ってみる。ポキポキと軽い骨の音がして、反対側へもう一度体を捻ってみると、窓際で申し訳無さそうな顔をしているエイコと目があった。
しかも彼女は一人ではなく、隣にはもう一人の幽霊の姿。
彼女は俯きながら上目遣いで俺を見ると、申し訳なさそうに言った。
「うらめしや」
だから、それは挨拶じゃない。
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