第3話 幽霊のねがいごと

 幽霊のエイコが連れてきた幽霊は奥山今日子という名前で、ここから少し離れた町に住んでいた主婦だそうだ。


 とは言っても、「主婦」と言う二文字が持っている落ち着いた雰囲気はまるで無く、どちらかと言えば「最近の若者」という感じだった。


 茶色の髪、細い眉毛、紫色のアイシャドー。

 年齢は、十代にも見えれば二十代にも見える。


 二人の幽霊の出会いの経緯を尋ねると、エイコはおずおずと答えた。


 先ほど俺の部屋を出て行ったエイコが、何の気なしに駅前をフラフラと浮遊していると、改札口から吐き出される人だかりの一角が、まるでカメラのピントがずれているようにぼやけて見えたという。

 意を決して近付いてみると、そこには見るからに幽霊と思しき女性、つまり奥山今日子がいたのだそうだ。エイコは勇気を出して声を掛け、しかし具合の悪そうな今日子を目の前にして、どうして良いものか分からず、取り敢えずここへ連れて来たという事らしい。


「ごめんなさい、他に頼れそうな人がいなかったもので」


 頼られても、俺に出来る事なんて何もない。

 何をさせるつもりだろう。除霊なんて出来ないぞ。


 奥山今日子は具合が悪そうというより、機嫌が悪そうに眉根を寄せていた。

 あるいは、どうしようと悩んでいるようにも見える。


 それが何か問題を抱えているからなのか、生前の疲れをそのまま残しているのかは分からないが、しかし、表れている負の感情は幽霊のあるべき姿にも思えた。


 そして何よりも特徴的なのは、エイコは頭から血を流している以外は生きている人間と変わらない姿に見えるのに対し、奥山今日子の腰から下の部分は切り取られたように無くなっている事だった。


 幽霊は足が無いほうが幽霊らしい。足なんて飾りだと偉くない人が言っていた。


「これ、彼氏?」


 奥山今日子は俺を指差しながらエイコに問う。なるほど、この女性は初対面の人に対して「これ」扱いが出来る性格らしい。


「ち、違いますよ!」

「なんだ、違うのか。でもアンタさあ、ウチらの事見えるなんておかしな奴だね」

 どうぞ鏡を見てもらいたい。映るかどうかは知らないが。

「もっと驚けよー、つまんない男」

 奥山今日子は出会い頭に言いたい放題である。


「君、高校生でしょ? 何年?」

「俺は三年です」

「十七歳くらい? 若いね。アンタは?」

「あ、私は……ちょっと」

「分かんないの?」

「……すみません」エイコは頭を下げた。

「奥山さんは?」

 俺が尋ねると、奥山今日子はキッと俺を睨み付けた。

「会ったばっかの女性に年齢を聞くなんて、これだからガキはね」


 これだから女はね。


 奥山今日子は容姿に見合った乱暴な口調だったが、エイコとは違って驚くほどに自分の事を覚えていた。そして、機嫌が悪いから眉を寄せているのではなく、元々そういう顔立ちなだけだった。


 彼女はサラリーマンである夫と、三歳になる娘との三人で生活していたようだ。


 亡くなったのは五ヶ月前、車を運転中の交通事故。

 幸い、旦那さんも娘さんも乗せていなかったらしい。

 幽霊になって現れたのは事故から三ヵ月が経過した頃という事だから、つまり幽霊としてのキャリアは二ヶ月という事になる。


 その間に出会った幽霊は、エイコを除くと一人だけだと言う。その幽霊とは最近まで一緒に居たそうだが、いつの間にか消えてしまったそうだ。


「きっと、戻って行ったんだ」と奥山今日子は言った。


「そいつは柴田ってオッサンだったんだけどね、さっきまでアタシがいた駅前で、誰かを待ってるって言ってた。きっと、目当ての人に会えたんだと思う」


「つまり、目的がたち成されたから、いなくなったって事ですか?」

「そうなんじゃない? アタシに聞かれたって分かんないわよ」

 では誰に聞けば分かるのだ――と思ったが、ここで口論を始めても仕方が無い。

「戻って行ったって、どこに?」

「あの世って言うの? アタシたちが元々居た所」

 エイコに視線を向けると、彼女もこっくりと頷く。


「白いだけの、何も無い所だよ。事故に遭って、ああ、やっちゃったなって思ったらそこにいたの。何て言うか、変に居心地が良くってさ……。で、ふと思い出したの。アタシ、やらなきゃいけない事があったって。そう思ったら、目の前にヒモっていうか、綱引きの綱? みたいのがあってさ。それが横になって浮いてるのよ。誰も持ってないのに浮いてるの。すっごい長い綱で、綱の先は見えなくてね。何となくだけど、これを辿っていったら、こっちに来れる気がしてさ」


 俺は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い浮かべた。奥山今日子がいた所が果たして地獄なのか天国なのかは分からないが。


「綱を握ったら、突然すっごい風が吹いて来てさ。飛ばされないようにしがみついたわ。もう必死だったわよ」

「三ヶ月も、その綱みたいなものを伝って来たって事ですか?」

「さあ。時間の感覚とか良く分からなかったけど。そうなのかな?」

「その、しなきゃいけない事っていうのは?」

 すると、奥山今日子は恥ずかしそうに頭を掻く。


「それがさー。アタシ、羽衣の大好きだったぬいぐるみを隠しちゃってね。あ、「うい」っていうのはアタシの娘なんだけど……だって、あんまり言う事を聞かないもんだったから。それで、そのままアタシは死んじゃったからさ。どうしてもあの子に返してあげたくって」


「それを、俺が?」

「そ」奥山今日子は大きく首を動かした。

「今日子さんが直接渡す事は、出来ないんですか」

「それが出来てたら、今頃こんな所にいないわよ」

 隣でエイコも頷いている。


 どうやら幽霊は物に触る事は出来ないようだ。映画なんかでは、幽霊が部屋中の物という物を空中に飛ばしてたりするものだけれど、どうやら事情は違うらしい。

 俺はただ幽霊が見えるだけで、彼らについて何も知らなかったのだと、今更ながら気が付いた。


「ここまで話したんだから、モチロン手伝ってくれるんでしょうね」


 奥山今日子の言い方は人に物を頼む態度ではなかったが、断る気は起きなかった。それは、その隣で祈るようにこちらを見ているエイコの姿があったから……だけではない。ただ、我が子を思う母親の気持ちには応えたかったからだ。


「でも」と俺は一つ提案をする。


「とりあえず、今は勉強して良いかな」



 けたたましい目覚ましの音が朝を告げる。

 信じたくは無かったが、カーテンから洩れる白い光が、目覚まし時計が正確であると言う証拠を俺に突きつける。


 エイコたちとはゴールデンウィーク明けに再びこの部屋で会う約束をした。

 今日子は渋っていたが、こちらにも予定があるのだから仕方が無い。

 必ず手伝いますからと言うと彼女も納得し、勉強の邪魔になるからと諭すエイコと共に部屋を出て行った。


 その後、深夜三時頃まで教科書を広げていた。学問に終わりは無いとはよく言ったもので、出題範囲が決まっているとは言え、あれもこれも覚えなければと欲張り、結局どれも手薄になるという悪循環に陥る。

 欲を張るくらいならば、ヤマを張ったほうが良かったかなと後悔した瞬間、俺は寝る事を決意した。

 まだ今学期は始まったばかりである。取り返すチャンスは幾らでもあるだろう。

 きっと。


 ベッドから這い出て、机の上に置いてある目覚まし時計を叩く。眠さで目をしばたたかせつつも、とにかく制服を着ようとジャージのズボンを下ろした時に、部屋の隅に俺を見つめる視線がある事に気が付いた。


 まず、エイコと目が合う。

 顔を赤らめながら彼女はすぐに目を逸らした。


 次に奥山今日子。彼女は口を押さえて笑っている。


 慌ててズボンを穿こうとしたからか、足がもつれて上手に履けず、思い切り尻から床に転んでしまう。ドシン、という大きな音が響いて、倒れた拍子に覚えた英単語がいくつか口から出てしまったような気がする。


 すると、ドタドタと階段を上ってくる足音と共に、部屋のドアが勢い良く開いた。

灰色のブレザーを着た可南子は、下着姿で床に倒れている兄を見つけると


「朝馬鹿!」


 と良く分からない罵りの言葉を浴びせ、すぐにドアを閉めた。

 ドア越しに「朝ごはん、パンが置いてあるからね」と声。

 そうして、ドタドタと階段を下りていく音が響く。


「妹? かわいいじゃん」


 今日子は下着姿の俺を見ても、毫ほども慌てた素振りを見せない。俺は起き上がり、そそくさとズボンを穿きながら頷いた。

「ちょっとエーコちゃんに似てる感じ?」

 今日子はエイコの顔をにやにやと眺めている。


「……いつから、俺の部屋に?」

 俺が視線を送ると、エイコは謝るように深く頭を下げた。


「目覚ましが鳴るほんの……四時間前?」

 今日子が躊躇いも無く答える。


「俺が寝た直後じゃないですか」

「だって、エーコちゃんが、キミの寝顔が見たいって言うからさー」

 するとエイコは慌てて手を振った。

「ち、違いますよ! 今日子さんが言い出したんじゃないですか!」

 血が流れているその顔を更に真っ赤にしているエイコの姿を見て、今日子は大きな声で笑っている。どうやら二人はいつの間にか仲が良くなったようだ。


「ヘータ、うなされてたよ? 怖い夢でも見てた?」


 今日子はこちらを見ながら、片腕で器用にエイコをあしらっている。


 夢、と聞いて、さっきまで自分が夢を見ていた事を思い出した。

 時々見る、いやな夢だ。

 それも、母親が俺を置いてどこかへ行ってしまうという――自分がマザーコンプレックスだとは思っていないのだが、昔からこの夢に悩まされているという事は、あるいはそうなのだろうか。


「時々……どうでもいいじゃないですか、そんな事」


 ブレザーに袖を通し、鞄に教科書やノートを放り込んだ。

 試しに昨夜覚えた単語を一つ思い出そうとしたが、全く出てこなかったのですぐにやめた。所詮、一夜漬けなんてこんなものか。カレーだって二日目が美味しいって言うしな。


「それじゃ、またあとで」


 準備を終え、いざドアノブに手を掛けようとすると、背後の二人も一緒になってドアへと近づいて来る。


「学校は駄目ですよ、お二人さん」

「なんでよ、ケチね」今日子が口を尖らせた。

「行っても楽しい事なんてないですから」

「エーコちゃんが見たいって」

 すると、またもやエイコは慌てて手を振り、「今日子さんが言い出したんじゃないですか!」と今日子をポコポコと叩く。

「隠してあるエロ本、お母さんに見せちゃうよ」

「物を動かせないんでしょう」俺が指を差すと、今日子は「ち」と目を逸らした。


「……それに、母親はいませんから」


 そう言うと、エイコはしょんぼりと俯いて目を伏せ、今日子は窺うような視線をこちらに送った。


「今日子さんのご家庭と同じですよ」


 すると今日子は急に神妙な顔付きになり、スッとこちらに近付いてきた。そして、俺の頭を撫でようとしたのか、手をかざしたが、今日子の手は俺の頭を通り抜けるだけだった。


「そっか、ドンマイ」


 今日子は通り抜けた手の平を指で擦りながら言った。

 口ほど性格は悪くないのかもしれない。


「それじゃ、行ってきます」


 部屋のドアを閉め、階段を下りて台所へと向かう。

 テーブルの上にはバターの入っているロールパンが二つと、書置きが置いてあった。


 可南子はもう学校へと出かけたらしい。


 リモコンを手に取り、テレビのスイッチを入れる。朝のニュース番組はせかせかと、様々な情報を伝えていた。政治家と企業の癒着。大物俳優の不倫、二股、愛憎劇。特集は、二年前に胃がんで他界したシバ・コーポレーション元社長の強引なやり口――などなど。どれも遠い世界の話ばかりだ。画面右上に小さく流れる天気予報で今日の天気を確認すると、テレビの電源を切った。


 ロールパンを口に放り込みながら書置きを手に取る。そこには父の字で『来月分の小遣い、食器棚』と書いてあった。


 可南子はどうだか知らないが、父とはもう何年もろくに会話をしていない。

 俺が意識的に避けている部分もあるが、向こうも俺とは距離を置こうとしている。

 おそらく、これからもそうだろう。

 それがいつまで続くのかは、考える気にならなかった。


 どうせ話す事なんてありはしないのだ。


 食器棚に置いてあった封筒を鞄にしまい、玄関の扉を開けた。四月の柔らかな陽光に、少しだけ目がくらむ。しばし目を閉じ、それからゆっくりと瞼を開く。

 口笛でも吹きたくなるような良い天気……なのだが、唇から洩れ出すのは溜息だった。


 俺の『悲しい感じの身の上話で二人の気分を盛り下げ、申し訳ない気分にさせ学校について来させない』という作戦は、どうやら無駄に終わったようだ。


 二人は何事も無かったかのように玄関の外で俺を待っていて、今もフワフワと後ろを付いて来ている。


 いくら壁を作っても、幽霊には意味が無いようだ。

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