第4話 日常に追加される非日常
新学期で浮き足立っていた学生を落ち着かせるかのように、桜の花びらはすべて散り、校門はいつもの厳格さを取り戻していた。
白く塗られた校舎は、俺がこの高校に入学した年に創立三十周年記念とやらで塗り替えられたばかりだ。少し近づいて良く見てみると、ちゃんと三年という歴史と物語る黒ずみが随所に見られる。この校舎と同じように、高校三年になった自分もどこかしら黒ずんだりヒビが入ったりしているのかと思うと、歳を取ると言うのは何とも恐ろしいものだとつくづく思う。
入学当初のそれとはまるで違う感慨に耽りながら校門をくぐると、背の小さい見慣れた男がこちらに手を振っていた。高校一年の時に一緒のクラスだった浅井望だ。
「おはよう、平太」
浅井に近付くと、後ろの幽霊たちから歓声が上がった。
「カワイイ」という声が聞こえてくる。
確かに、浅井は童顔で整った顔をしているし、「ノゾミ」なんて女の子っぽい響きの名前をしている事もあって、うちの学校でもそれなりに人気が高いようだ。
そこまでの容姿なのに評価が「それなり」なのかと言えば、
「つーか、マジでテストとか、ウゼェったらねぇよなー。死ねよホント」
異常に口が悪いからだ。
背後の女性二人はあまりのギャップに固まっている。なんとなく良い気味だった。
俺からしてみれば、これくらい気持ちよく悪態を吐いてもらえると、むしろ付き合いやすい。
校門から下駄箱に向かう途中の道には、二つの人だかりが出来ていた。
一つは赤い髪をなびかせた女子生徒を取り巻く男子の群れ。
もう一つは、長身で細身の男を取り巻くマスコミ一同。いつもと同じ光景だ。
「何、この学校」
今日子が呟いた。俺も同感だが、もう慣れてしまった。
男子生徒の取り巻きはともかく、マスコミが堂々と学校の門を跨いでいるのはどうかと思う。
「多田川さん、進路はどうされるんですか?」
「犯人は容疑を認めていないそうですが?」
「休日はどの用にして過ごされていますか?」
毎日懲りもせず、朝から元気な事だ。
「オッス、多田川!」
浅井が声を掛けると、マスコミに囲まれてフラッシュを浴びていた細身の男が軽く手を上げて応えた。
銀縁眼鏡に奥に、切れ長の目を携えたプライドの高そうな顔だ。
一瞬、多田川が俺を睨んだかと思うと、再び記者たちと会話し始めた。
「今日も人気だねぇ、超高校生探偵、多田川冬也(ただがわとうや)は」
と浅井は楽しそうだ。
「浅井、多田川と仲が良いのか?」
「いーや、初めて同じクラスになってこの前話したばっか」
浅井は不幸な事に、成績次第でもれなく補習が付いてくる素敵なクラスに割り振られてしまったのだ。この一年間で、浅井の毒舌はさぞ磨きがかかることだろう。
多田川とは一度も話した事は無いが、一年の時から、頭が切れる男らしいという噂はあった。何度か警察の捜査に加わり事件を解決したとかで、全校生徒の前で表彰された事もある。この間、テレビ局で起こった殺人事件に遭遇し、見事な推理で犯人を捕まえ全国的に有名になり、それ以来マスコミが校門辺りに殺到しているのだ。
だが、多田川は人に愛想を振りまくという行為が苦手なのか嫌いなのか、誰の前でもしかめっ面だった。いつでも人を寄せ付けないオーラを発していて、多田川が特定の生徒とやり取りをしている姿を見た事が無かったが、あのように気軽に挨拶出来る浅井もやはり只者ではない。
下駄箱からくたびれた上履きを出し、履き替えようとしていると、カメラを抱えた中年の男がこちらに近づいてきた。
「君たち、多田川君のお友達?」
男はいきなりカメラのシャッターを切った。
閃光が目を焼く。
断りもなく写真を撮られるのは心地の良いものでは無い。
文句の一つでも言ってやろうかと口を開いた瞬間、浅井がそのカメラを叩き落としていた。
「テメェ、勝手に撮ってんじゃねぇよ。殺すぞカス」
ストラップが首に掛かっていたので、カメラは地面に落下せず男の胸の前で激しく揺れただけだったが、その男は浅井の小さな体から発されるむき出しの敵意に怯んだのか、そそくさと校門の方へ退散して行った。
「助かったな」
そう俺が声を掛けると、浅井は大きな声で笑う。
「なんだよ大袈裟だな、あのくらいで」
「違う」俺は下駄箱に革靴をしまいながら言った。「カメラ、弁償しなくて済んだって事だ。高そうだったぞ、あれ」
浅井は一瞬、目を丸くした。
「……そうだな、危なかったな!」
浅井はそれでも、気持ちの良さそうな顔で笑っていた。
校舎の最上階である五階までえっちらおっちらと登り、教室に入る。室内はテストの前だからかざわついていて、妙に浮き足立っていた。
新学期が始まって一ヶ月が経っている事もあって、生徒たちはいくつかの仲良しグループに分かれている。まだ席替えをやってないので、苗字が「さ行」である俺は教室のほぼ真ん中という、何の面白みも無い席に座った。このテストが終わったら席替えらしいので、その時には是非とも窓際に座り、退屈な授業をグラウンドでも眺めながらのんびりと過ごしたいものだ。
一人だけ違う制服のエイコは色々な意味で浮いていたが、教室の空気が懐かしいのか、居心地の良さそうな顔をしていた。
一方、浮いてるどころの騒ぎではない今日子は教室内の男子生徒を物色しては、そいつの名前や部活を聞きに来た。最初のうちは小声でやり取りをしていたが、俺があまりにもクラスメイトの名前を覚えていない事に今日子は憤慨していた。
「あ、ねえ」
男子を物色し終え、次は女子の選別に入った今日子が尋ねてきた。
「さっきの校門に居た子、何?」
「多田川の事か?」
「男の子じゃなくて、女の子」
「綺麗な人でしたよね」エイコがうっとりとしている。
「ああ、仁科更紗の事か」
「ニシナサラサ? それ名前?」
「今年入学してきた、いわゆる学園のアイドルっていう奴だよ。容姿端麗、品行方正、成績優秀、家庭円満……」
「随分と詳しいじゃない、クラスメイトの名前も覚えられないヘータ君が」今日子がにやついた顔を浮かべている。
「名前も知らないクラスメイトが毎日騒いでるんですよ。嫌でも覚える」
「綺麗ですものね」エイコは綺麗な女性が好きなのだろうか。ポーっとしていて「こちら」に帰ってこない。すでに「あちら」の人なのに。
「……まぁ、美人ではあると思う」
「分かってないねぇ、君たちは」今日子は大袈裟に首を振ってみせた。
「あれは振りだよ、フリ」
「フリ?」エイコと声が重なる。
「何かを隠している感じっての? 中身はちょっと違うと思うよー。さっきの可愛い男の子程じゃないかも知れないけどさ。物凄い不良かも」
可愛い子とは、浅井の事だろう。
「どうして分かるんですか?」エイコが興奮気味に尋ねる。「女の勘って言うものですか?」
「そんなの、見れば分かるじゃない」今日子は大きく胸を張った。
「髪の毛真っ赤よ、あの子」
なるほど。
ざわついていた教室は、扉がピシャリと閉まる音で急速に静まった。白衣を着た真山は静かに教卓の前に立つと、流れ作業の様に出席簿を広げる。
「七三分けだ、いかにも教師っぽいねー」
今日子が大声で騒ぎ出した。
「科学の先生なの?」
さすがに静まった教室内では小声で喋る事も出来ないので、ノートを取り出して『数学』と書き込み、そこをペンで指した。
「なんで数学の先生なのに、白衣着てるのよ」
『知りません』書き記した文字を指す。
「きっと、チョークでスーツが汚れるからですよ」
「はぁ? だったらツナギでも着てればいいのにね。便利なんだから」
「それじゃ、用務員さんとの区別が付かなくなっちゃうから……?」
「あ、なるほど。威厳のためね」
『静かにして下さい』
「島井平太」
「ヘータって、文系? 理系?」
『文系』
「文系かー、あれだ、馬鹿だ」
『静かにして下さい』
「エーコちゃんは?」
「あ、文系でした」
「まあ、一括りにするのは良くないわよね」
「島井、平太」
「でも、何で文系なのに担任は数学なわけ? 変じゃない」
『知りません』と文字をペンで指したノートの上を、黒い影が覆った。見上げると、そこには出席簿を高々と掲げた真山が立っていて、そして、出席簿が振り下ろされる。
真山には軽蔑されたような目で見られ、クラスメイトには笑われ、素敵な朝のホームルームは幕を閉じた。背後を睨むと、エイコは深々と頭を下げ、今日子は口をすぼめて目を逸らした。今日子さん、それじゃまるで子供みたいですよ。
そしていよいよ一時間目、英語のテストが始まった。プリント用紙が伏せて配られ、合図と共に一斉に裏返される。百分間に渡る過酷なレースの開始だ。自分の名前を記入するこの瞬間だけは、全ての机から猛然と筆を走らせる音が聞こえる。俺もまた然り、勢い良く自分の名前を書いたは良いものの、あっという間にエンジンは停止し、ポンコツ脳がプスプスと音を立てている。
頬杖を付いた俺を見兼ねてか、今日子がプリントに顔を近づけてきた。
「えー、なになに……? 『はい、彼女は、ドエスです』。うほー、過激」
「違いますよ、それは『ダズ』です」
「お、頭良いのねエーコちゃん」
「これは普通ですよ」
「お、分からなかったアタシとヘータを馬鹿にしたな」
なんで俺も一括りにする。一括りは良くない。
「あ、ち、違います。そういう意味じゃないです」
「だったらエーコちゃん答え教えてあげなよ」
それは素晴らしい作戦。さすがは今日子さん、亀の甲より年の功。
「駄目です。それじゃ平太さ……へ、平太の為になりません」
「ケチねー」今日子が顔を近づけてきた。「ねえヘータ。どの子が勉強出来るの? 覗いて来てあげる」
またもや素晴らしい作戦。今日子さん、鶴は千年、亀は万年。
「もっと駄目ですっ! 実力テストなんですから、自分の実力のみで臨まなくちゃ!」
「厳しいのねー。さてはエーコちゃん、ドエスだな?」
「ど……どういう事ですか」
「まーた、カマトトぶっちゃって! このこの」
突然、今日子はエイコに抱きつき、脇やら太ももやらを弄りだす。驚いたエイコは素っ頓狂な声を上げた。
どうやら幽霊同士は接触できるらしい。
麗らかな春の午前、粛然としたテスト中の教室がこんなにも騒がしく感じているのは俺だけなのだろうか。心配になって教室を見回そうとしたが、カンニングだと勘違いされても困るのでやめておいた。
こんな状況で、昨晩必死に詰め込んだ英単語や文法を思い出せるはずも無く、英語のテストは適当な記号やアルファベットに彩られるという悲惨な結果に終わった。
まあ、仮に静かな状況だったとしても、結果はさほど変わらなかったとは思うが。
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