第5話 多田川冬也という男
そんなこんなで英語、数学と、手ごわい教科を適当という二文字を武器に攻略し、昼休みへと突入する。
今日子は二時間目の数学の段階で早々に飽き、校内を散策すると言って飛んでいった。エイコは背後から問題を覗いては、「ふむふむ」と一人で頷いていた。
学生食堂では金が掛かるので、昼飯はパンを買って済ませる事にする。
栄養のバランス云々をエイコに説かれたが、学食の高さと混み具合、高校生の経済事情を述べると、今度は学校に対して文句を言い出すのだった。
炭水化物の摂取を終え、午後のテストに備えて化学の教科書を広げていると、ようやく今日子が戻ってきた。
「妹さんもこの学校なんだねぇ。一年生の教室で見かけたわ」
何組に恰好の良い子がいた、煙草を吸っている不良がいた、キスしてた、懐かしい、実はアタシもね……などという話でわあきゃあ盛り上がっている女性陣の話に、些かも耳を傾けまいと教科書とにらめっこをしていると、ふと、自分の名前を呼ぶ声がした。教科書から目を上げ、教室の後ろの入り口を見ると、そこには元気良く手招きをしている浅井が立っていた。
「平太、ちっとツラ貸せよ」
浅井は親指をクイっと後ろに向け、ニヤニヤと笑っている。
「お前に会いたいって人がいるんだ」
それを聞いた今日子は水を得た魚のごとく騒ぎ出し、様々な想像を働かせてはエイコに「告白かな」「どうする?」と質問していた。
浅井の教室は校舎の一番端にあり、その横は階段になっている。俺は浅井と共にその階段へ向かった。
「ここで待ってるって言ってたけど――あ、いたいた」
昼だというのに薄暗い、四階と五階の間にある階段の踊り場に、今朝方校門付近で見かけた男が立っていた。
多田川冬也だ。
浅井は「じゃ、俺はテストに備えて予習してくっから、またな」と言い残して、早々に自分の教室へと戻ってしまう。
おいおい、それはないだろう。
ほぼ初対面の男と二人きりにされるのは、さすがに気まず過ぎる。
大体、面識の無い多田川が、一体俺に何の用事があると言うのだ。
多田川が一向に階段を上ってこようとしないので、仕方なくこちらから降りて行く。
「なんだ、男じゃん」と今日子は露骨にがっかりしている。
「こ、告白ですかね」エイコは何故か興奮していた。
「何、アンタってそういう趣味あんの?」
「え、ち……違いますよ! 今日子さんが告白だって言うから」
そこへ、多田川が鋭い視線を送った。その視線は俺の後ろ、エイコと今日子のいる辺りに向かっている。
――まさか、多田川にも幽霊の姿が見えているのか?
背後の二人も多田川の視線に気付いたようで、静かに息を飲んでいる。
多田川はその二人の側に近付くと、おもむろに右手を上げ、そして、下ろした。
エイコが小さく悲鳴を上げる。
果たして、その手は何かに触れる事も無く、振り下ろした手はエイコの体を通り抜けて多田川の腰の横へと落ち着いた。
「……どうした?」
俺の声は、息を止めていたせいで上擦ってしまった。
「いや」
多田川は自分の右手を見つめながら言った。
「何でもない」
多田川はまだエイコたちがいる辺りを睨んでいる。
昼休みの校内のざわめきがやけに遠く感じられた。呼吸をする事も躊躇われる様な重たい沈黙が流れる。
「多田川は、浅井とは、仲が良いのか?」
いつまでも続きそうな沈黙に耐え切れず、俺は取りあえずどうでも良い事を聞く。
「クラスメイトなだけだ」
多田川の声は、俺たちが階段にいるせいか、妙に響く声だった。
言葉をぶつけられている訳ではないのに、その声がぐっと耳に残る。
そうしてまたも沈黙。
すると、今度は多田川の方から口を開いた。
「お前……島井……」
多田川の、俺を量るような視線。
「平太だ。島井平太」
「……お前もか?」
何を探ろうとしているのか、多田川の厳しい視線が突き刺さる。
その声は耳から脳の中へと侵入し、掻き回してくるような、異様な圧力だった。
敵意、と呼んでも良いのかもしれない。
「……違うのか?」
しばらく多田川は俺を睨んでいたが、不意にその顔つきが緩む。
と言っても、本当に僅かな変化でしかなかったが。
「呼び出してすまなかった。特に意味は無い。忘れてくれ」
多田川はそう言って俺の肩を叩くと、階段を上って、そして姿を消した。
「変なヤツ。なんだかおっかないわね」
今日子が二の腕をさすっている。
「あの人……私たちが見えていたんでしょうか?」
エイコも怖がっているようだ。気が付くと俺はいつの間にかこぶしを握っていて、背中にはじっとりと汗を掻いていた。こんなに動揺したのは久し振りだ。
「どうかなぁ。もしそうだとしても、あの様子だと、あんまりハッキリとは見えてないって感じだったけど」
今日子の言った事は当たっているような気がした。見えてはいないが、何かを感じている素振り、と言うか。
しかし、それよりも多田川の言った言葉の方が気になる。
「お前も」とは何だろう。ブルータス?
「でもま、あーいうキャシャーン眼鏡はアタシは好きじゃないわ。男はもっとガッチリしてなきゃ」
「今日子さんはそういう人が好きなんですか?」エイコは興味深々だ。
「そ。男は坊主でヒゲでマッチョに限るわよ」
「旦那さんも、そういう方なんですか?」
「旦那は……また別の話よ」
今日子が小さく言うと、昼休みの終わりを告げるチャイムが階段に響き渡った。
化学のテストも終わり、ようやく重荷から解放された放課後。
内容は変わっていないが、心なしか軽くなった鞄を片手に、浅井のクラスとは反対側にある少し離れた教室へと向かった。
教室内には数人の生徒たちが残って談笑しており、その中に緒方がいた。
緒方は机の上に木製のパズルのようなものを広げ、小さな紙を見つめては木のパズルを組み合わせている。多田川と同じく眼鏡を掛けているが、そこからは微塵も知性を感じさせない可哀想な男だ。
「緒方」
「お、島井。テスト、どうだった」
「お前と同じだよ」
「そうか、もっと頑張れよ」緒方は肩を揺らした。
「このパズルみたいなのは何だ?」
「この教室に置いてあったんだよ。なんか部活で使う奴らしい。難しいぞ、数学的で。やってみるか?」
「もう頭は使いたくない。今日、部活出れないんだが、大丈夫か?」
「あー、ま、良いよ。コンクールはまだだし。ゴールデンウィーク明けからちょっと忙しくなると思っておいてくれりゃ平気」
「悪い。じゃあ、またな」
「おう」
再びパズルと向かい合った緒方をよそに、教室を離れて校門へ向かう。
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