第6話 彼女の策略

 テスト期間が終わり、四月の終わりから五月にかけての大型連休。五月の一日、二日は登校しなければならないとはいえ、テスト勉強に疲れた体をぐうたら過ごして骨休め――といきたいところだが、今年は家でゆっくり羽を伸ばすことは出来ない。何故なら、可南子と、その友人たちと、祖母が住んでいる田舎へ行かなければならないからだ。

 話は一週間ほど遡る。まだテスト勉強という名の戦争状態には入っていない、自堕落でノンビリとした生活を送っていた時の事である。

 急に部屋を訪ねてきた妹が(まあ、急じゃなくドアを開ける事なんて無いのだが)俺に連休の予定を聞いてきた。俺はその時、あまりにも暇すぎて無我の境地に達していたのか、何も考えずに「何も無い」と答えてしまった。今思えば、嘘でも何かあると言っておくべきだったのだろうが、時すでに遅し。「じゃあ、おばあちゃんの家に行こう」という話が持ち上がり、「兄ちゃんのテストが終わったその日の夜から出かけるからね」と話は進み、「友達が二人来るから、保護者としてよろしくね」という結びで一方的に終わった。流石に「ちょっと待て」と反論しようとしたのだけれど、賢しい妹は勢い良く俺に両手を合わせると、

「お願い! 新しく出来たクラスメイトにウチの田舎の話をしたら、遊びに行きたいってなっちゃって。お父さんは仕事が入ってて無理なの。お願いします!」と懇願した。

 もう高校生なのだから、保護者などいなくても旅行くらい出来るだろう、と問うと、祖母も年だし、何かあった時の為に自分一人では心許ない、との事だった。

 それは確かに事実であったし、つい今しがた「ゴールデンウィーク、俺、暇」宣言をしたばかりの自分に、そんな青春18切符が最も似合いそうな予定を立てられてしまったら断れる筈も無く、可南子による怒涛の兄攻略戦は、見事に成功を収めた。

 そんな訳で、俺はテストが終わったその日、部活を休み、ちょっとした買い物を済ませて、今こうしてリュックに着替えやら何やらを詰め込んでいるという訳だ。

 しかし、それだけならまだしも、

「旅行? 行く行く! エーコちゃんも行くよね?」

「行って、いいんですか?」

「モチロンよ。ね? ヘータ」

 なんて会話が頭上で行われ、俺が彼女たちを止められない事は今朝方露呈したわけで、旅の同行者は一気に膨れ上がった。妹の友達という摩訶不思議な存在だけでも気が重いのに、幽霊なんていう存在が両肩に乗っかるとなると、この先を考えるだけで体中が重い。骨休めどころか骨という骨を折る旅行になりそうだ。

 しかし、テスト明けで冴え冴えとしている俺の頭は、ふと、この非常事態を打開出来そうな問題に気が付いた。

 物体に触れない幽霊が、果たして電車に乗る事が出来るのだろうか? 

 その質問を投げ掛けてみると「それは無理」と今日子が答える。

 しかし、「それじゃあ残念でした」と俺が続けるよりも早く、今日子は窓際に置いてある小さな鉢植えを指差した。その鉢植えには可愛らしい二つのサボテンが仲良く植えられている。可南子が俺の誕生日にと、去年プレゼントしてくれたものだった。

「これに入っていくわ」

「サボテン?」

「アタシも柴田のオッサンに聞いただけで、詳しくは分からないんだけどさ。幽霊ってのは意識の塊みたいなものなんだって。だから、植物とか、昆虫とか、あんまり意思を持ってない生き物の中には入る事が出来るみたい」

「そうなんですか? 凄いですね」エイコも感心している。

「じゃあ、犬とか猫は?」

「無理ね。ああいう複雑なのは駄目みたい。よっぽど年老いた猫とかなら大丈夫なのかもしれないけど……」

 何となくだが、理解出来る話だった。虫の知らせ、なんてひょっとしたら幽霊の仕業かも知れないし、年老いた犬や猫が人間のような行動をするというのもどこかで聞いた事がある。

あっという間に打開策を提示された俺は、土がこぼれないようにサボテンの鉢植えを透明のビニールに包むと、リュックの隅っこに入れた。

 一通りの荷物を詰め終え、何か暇を潰すものは無かったかと思案していると、ピンポンと家のチャイムが鳴った。「はーい」と可南子が対応している。どうやら、可南子のご友人が到着なさったようだ。階下から「兄ちゃん、準備できたー?」と声がする。

 腹八分目に膨れたリュックを背負い、俺は階段を下りた。玄関には可南子と、二人の女の子がいる。その姿を見て驚いた。一人は、前髪を刀で真一文字に切られたような、ショートカットで利発そうな女の子。そしてもう一人は、流れるような美しい赤い髪をした学園のアイドル――仁科更紗だった。

「こっちが鈴本沙耶香ちゃんで、こっちが仁科更紗ちゃん。んでこれが、兄の平太」

 可南子による乱雑な紹介が終わると、仁科更紗が「これから少しの間、宜しくお願い致します」と丁寧にお辞儀をした。何とも上品な立ち振る舞いと、それに似合った声だった。

「いえ、こちらこそ」

 俺も頭を下げた。どうせ、後ろでは今日子がにやついていることだろう。

「サラ、兄ちゃんなら大丈夫だよ」

 可南子が仁科更紗にそう言った。仁科更紗は曖昧に頷いている。何の事だろう。

「おっと、もう時間だ」可南子は腕時計を眺め、少し慌てたように靴を履く。

「さあ、ゴールデンウィークに出発だ!」

 日本語としてちょっとおかしい気がするが、そんな事はおかまいなしとばかりに可南子は大きなバックを「よっこらせ」と肩に掛けた。

「ゴールデンウィークって言葉は映画業界のものだから、テレビとか放送業界じゃあんまり使わないらしいよ。文字数長いし」

 意気揚々とドアノブに手を掛けた可南子の背中に、鈴本沙耶香が水を掛ける。突っ込む所はそこじゃ無いと思うのだが。

「え? そうなの?」可南子はくるっと振り返り、首を傾げた。「じゃあ、何て言うのが普通?」

「大型連休」

「うわ、なんの可愛げもない」

「休日に可愛らしさを求められてもね」鈴本沙耶香が苦笑いを浮かべる。仁科更紗はそんな二人のやり取りと、にこやかに見つめていた。

「うーん、もうちょっとこう、良い名前は無いかな……」

 可南子が頭を捻り出した。こうなると一向に前へ進まなくなるのが我が妹だ。

「おい、電車の時間とか大丈夫なのか?」

「あ、そうだ。マズい。出発!」

 慌てて外へ飛び出す可南子の合図と共に、男一人、女三人、幽霊二人の摩訶不思議な一行は、二泊三日の短い旅に出た。


 祖母の家は都心から延びる私鉄で二時間ほど揺られ、温泉街を通り越し、さらにローカルな電車に乗り換えてニ十分ほど揺られた所にある。さほど離れた距離ではなく、海と山に囲まれた場所なので、夏にはそれなりに観光客でにぎわう。が、大抵の観光客は手前のもっと大きい海岸に陣を張るので、穴場といえば穴場でもあった。勿論、今はオフシーズンなので観光客はいない。それはつまり、行ってもする事など何も無いという事なのだが、彼女たちは「それが良いんだ、のんびりがいいんだ」なんてやけに年寄りめいた事を言っている。最近の女子高校生はこういうものなのだろうか。

ともかく、我々一向は目的の駅に降り立った。エイコたちもサボテンから出て来くると、「狭かった」となどと言いながら伸びをしている。幽霊も疲れる事はあるのか、と今日子に聞くと、「イメージよ、イメージ」との答えが返ってきた。

夕方に出発したので、目的地に到着した頃にはすでに日が落ちてはいたが、駅前には都会では聞かない名前のスーパーが営業しており、道路には車通りもある。このくらいの時間ならば、駅周辺はそれなりに明るかった。

「何も無いって言ってたけど、そんな事ないじゃない」

 鈴本沙耶香、通称モトサヤが声を上げた。酷いあだ名だと思ったが、本人はあまり気にしていないようだ。

「中途半端に田舎な方が、かえって何もすること無いのよ」

 可南子が答え、仁科更紗は上品に笑っている。

 祖母の家は駅からそれほど離れていないので、気軽に行きやすかった。父方の祖母なのだが、母とはやけに仲が良く、父が仕事で忙しくしている時も、母と俺と可南子の三人で良く遊びに来たものだ。母が死んでからはめっきりと回数が減ってしまったが、それでも一年に一回は必ず訪れるようにしている。

 しっかりと舗装された坂を降りて海岸通りに出る。目の前に真っ暗な海辺が広がると、生きている女性、死んでいる女性双方から「わぁ……」と静かな声が上がった。海の色は空よりも暗く、飲み込まれそうな迫力がある。浜辺に降り立ってようやく海の輪郭が見えた。遠くの水平線にかすかに見える光は、イカ釣り漁船か何かだろう。潮騒が静かに砂を押し、そして戻している。モトサヤと仁科更紗は水際で水の冷たさに驚いていた。可南子は少し離れた街灯の下でそんな二人の姿を眺めている。


俺たちはしばらく、浜辺で思い思いの時間を過ごしていた。

「幽霊も、海風とかは感じるの?」

 二人に聞いてみた。双方ともに首を横に振る。

「でも、覚えてるわ。なんとなく、こんな感じだったかなって」

 今日子は海を見つめながら目を細めている。

 これが、生と死を分かつ決定的な壁なのだ。こうして俺は海の匂いを嗅ぎ、風や砂に触れる事で自然を感じられる。けれど、彼女たち幽霊にとっては、いつか昔に体験した感覚を思い出すしかない。そこには生と死という、覆す事の出来ない境界線がある。自分と彼女たちは、一切の物理的な感覚を共有する事が出来ないのだ。人は生きていて、幽霊は死んでいる。

 春とはいえさすがに夜の海風は体に冷えるので、ある程度堪能したところで祖母の家に向かうことにした。海沿いの道を外れ、小さな山の斜面に沿って走る細い小道を通っていくと、道の左側にブロック塀に囲まれた平屋が見える。これが祖母の家だ。

 呼び鈴を鳴らすと、トタトタと小さな足音が聞こえて、玄関の明かりがついた。ガラガラとドアを滑らせて現れた祖母は、俺や可南子の姿を見ると「あらあらあら、まあまあ、大きくなったわねぇ」と声を上げ、顔を綻ばせていた。

「可南子ちゃんは、ますますナエさんに似てきたね」祖母は言う。

 島井南映――母の名前だ。祖母は俺や可南子の姿を見るたびに「まあ、大きくなって」「壮太や南映さんに似てきた」と口にする。そのうち俺たち兄妹は親と全く見分けが付かなくなって、身長は天井を突き破る事だろう。

 祖母の家は昔ながらの平屋だが、その家の内側は最新機器が充実している。両開きの大きい冷蔵庫、ドラム型の洗濯機、食器洗い乾燥機、40インチを超える薄型テレビ、マッサージチェア、馬乗りになって運動する機械、その他諸々。我が家にはまだ配備されていない物が沢山あり、また、我が家にあるものでも一段グレードの高いものばかり。祖母は新しい機械好きなのだ。

「おばあちゃん、またなんか買ったの?」可南子が呆れた声を出した。

 祖母は「イヒヒ」と笑い、「壮太には内緒だよ」と指を口に当てる。壮太とは、父の事である。

 一通りの自己紹介をすませ、祖母の作ってくれたカレーを食べ、ジャグジー機能まで付いている風呂に浸かり、のんびりとした時間を過ごした。初めは島井家の思い出話や高校生活の近況などを話していたが、祖母は夜が早いために早々に寝室へと退散した。可南子たちは広い客間に布団を並べて談笑している。俺はと言えば、生前祖父が使っていた寝室に布団を敷いて寝転び、ローカルテレビをボーっと見つめていた。今日子は俺がチャンネルを変えようとするたびに「まだ見てるんだけど」と怒り、しばらくすると「つまんない、チャンネルを変えろ」と喚き、テレビに飽きると「可南子ちゃんたちの会話を聞きに行こう」と言い出すのであった。

「ヘータ君も興味があるでしょ。最近の若い子が何を考えているのか」

 今日子がいやらしい笑いを浮かべている。俺は「興味ありません」と返した。

「だって、学園のアイドルちゃんがいるんだよ? 気になるでしょ」

「気になりません」

「え? 年下は嫌い? もしかして年上好き?」

「そういう意味じゃなくて、妹の友人に興味が持てないという事ですよ」

「同じ意味じゃん。ねー、エーコちゃん」

 いきなり話を振られたエイコは曖昧に頷いている。

「とにかく、俺は移動に疲れたんで寝ますよ」

 そう言って俺は電気を消し、布団に横になった。今日子はぶつぶつと文句を言っていたが、そのうちエイコとなにやら小声で話をし始めた。慣れない布団と、幽霊たちのひそひそ話が気になってなかなか眠れなかったが、幽霊って寝なくても平気なのかな、なんて事を考えていたら、いつの間にか寝ていた。

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