ゴースト・ウィッシュ――死んでからが本番。

再之助再太郎

第1話 うらめしや

「うらめしや」と彼女は言った。

 頭から真っ赤な血を流しながら、とても細く小さな声で。


 幽霊を見た事がある! と豪語するやつが時々現れては、休み時間や修学旅行の夜などにクラスの連中を集めて怪談話を一席ぶったりしているのだが、よくよく話を聞いてみると、どうもそれは女の子を惹きつける為の手段でしかなく、実際は雑誌やインターネットから引っ張ってきた話を自分なりにアレンジしたものだった――なんて事ばかりだ。


「幽霊なんているわけないじゃん」と彼らは言う。「いたら気持ち悪い」と。


 ついでに「幽霊が本当に見える奴がいたら、そっちの方が気味悪い」とか「お前、怪談話してもぜんぜん驚かないからつまらない」とか「つまらない、と言うか、無反応過ぎてちょっと気持ち悪い」などと付け加えてくる奴もいて、全く失礼な話だと思うのだが反論は出来なかった。

 

 リアクションをこそ欲する彼らからしたら、俺などはさぞやつまらない人間なのだろう。

 しかし、確実に幽霊は存在する。なぜならば――、


 現に今もこうして幽霊が俺の部屋にやって来ているのだから。


 俺の部屋に幽霊がやってきたのは昨夜の事だ。


 せっかく高校の最上級生になったというのに目新しい事は特に無く、ただただ通過儀礼のようなテストが増えるだけだった。

 聞いた話によると、隣のクラスではテストの結果次第で補習まで用意されているらしい。俺のクラスの担任は「出来ない人間などどうでも良い」と考えるタイプで、さほど熱心に取り組む必要も無かったのだけれど、それでもテスト前となると机の前に向かってしまうのは学生の悲しい性である。


 机の上に積まれた教科書を開き、教科書の隅に書いた落書きを発見しては己の愚かさに呆れていると、階下からドタドタと物音が聞こえた。


 可南子かなこが帰って来たのだろう。


 時計を見ると、もう夜の十時を回ろうとしていた。こんな時間まで遊び呆けていられるのだから、高校一年生とは良い身分なものだ。出来るならば変わって欲しい。


 四月の終わりにテストが用意されているのは最上級生だけで、一、二年生には無い。受験生なんだから少しは必死になれと言う事なのだろう。今年めでたく俺と同じ高校に入学した可南子は、兄を差し置いて遊び放題だ。


 何も兄妹揃って同じ高校に通わなくても……とも思うのだが、二人とも高校を選んだ理由が「家から近い」と言うとても切実な理由だから致し方ない。良く我が家の世話をしてくれる柏木さんには、「あなたたち、もっとちゃんと考えて学校を選びなさい」と反対されたものだが、徒歩で十分と掛からない距離にある我が高校は、他のどこの学校よりも魅力的だった。


 こういう所は、母親譲りなのだと思う。


 俺たちの母はとても陽気な人だった。今から七年前、俺が十歳の時にこの世を去ってしまったが、今でも時折母の事を思い出す。


 母は、郵便受けに入っているチラシを眺めながらこう言った事がある。


「あそこのスーパーまで行くカロリー消費量を考えると、二十円高くても近いところで買ったほうが良いわね」


「何が良いの?」と俺が聞くと、母は笑って言った。

「お母さんの機嫌が良いの」と。

 さらに「それは、あなたたちの為にもなるのよ」と続けた。

 俺は「なるほど」と納得した。


 当時、父は毎日出張で家を開けていて、母しか身近な大人はいなかった。

 俺たちにとって、母が全てだった。


 そんな母の偉大なる面倒くさがり精神が、俺たちにしっかりと受け継がれているのだ。どの高校も似たようなカリキュラムなのだから、「進学率が少し高い」程度の事でわざわざ遠くの学校に出かける必要はないのだ。


 トタトタと階段を上がってくる足音が聞こえたかと思うと、急に俺の部屋のドアが勢い良く開かれた。肩まで伸びた黒髪を揺らしながら、扉を蹴破らんかの勢いでやって来たのは妹の可南子だ。

 この間までは寝癖なのか天然なのか分からないような髪型で出歩いていたくせに、最近少し色気づいたらしく、毎朝鏡に向かって祈るように櫛を通している。しかしそんな願いも虚しく妹の髪の毛は四方にぴょこんと飛び出していて、お菓子の袋を抱えている可南子の姿はラッコの様だ。色気など微塵も無い。


「ドアを開ける時くらいノックをしろ」

「なに? いやらしい事でもしてたの?」

「真っ最中だ」俺は歴史の教科書やノートを広げて見せた。

「こうやって、他人を蹴落とすためにいやらしい努力を積み重ねているんだ。そして明日クラスの連中に「あー俺勉強やってねーわ」と言う」

「うわー、本当にいるんだそんな人。都市伝説かと思ってた」

 可南子は眉をしかめる。

「兄が伝説の人となれば、さぞ妹は鼻が高いだろう」

「それは、あたしの鼻が低いと馬鹿にしてるやつ?」

「とんでもない」俺は首を振る。

 しかし、確かに可南子は鼻が低い。ついでに背も低い。


「明後日、学校が終わったらすぐ戻って来てよね」

 そう言いながら、可南子は教科書の豊臣秀吉の額に「人」と刻印を打つ。猿と呼ばれた秀吉に対する、可南子なりの気遣いなのかもしれない。

「何の話だっけ」

 俺は可南子が書いた「人」の字に一本横棒を足し「大」にしつつ惚けて見せると、可南子は「ちょっと!」と肘で俺を小突きながら「大」の字に点を添えて「犬」に書き換えた。

「秀吉が猿から犬に……何か意味ありげだ」

「これ以上惚けるならボールペンでいくからね」

「わかったわかった、明日な。それよりお前、部活は?」

「あー、まだ。良いのが無くって」


 我が校では、生徒は必ず何かの部活に所属しなければいけない。

 もう四月も終わる頃なので、大体の一年生は所属する部活を決め終えている。我が演劇部にも何人か新一年生が入った事で活気立っていた。


「うちの部にだけは来るなよ」

「お生憎様、興味がありません」可南子は貴族の様に丁寧にお辞儀をして見せると、ドアをバタンと閉めて自分の部屋へ戻っていった。


 俺は一つ溜め息を吐き、再び机に向き直る。


 部活を決めるのはなかなか難しい。かく言う俺も、あっちゃこっちゃ色んな部活を渡り歩いた挙句、二年になってようやく落ち着きどころを見つけたくらいだ。


 さて、可南子の登場で試験勉強が中断してしまった。キリも良い事だしコーヒーでも飲んで一休みしようか、と大きく伸びをしたその時、


 不意に背後から何かの気配を感じた。


 てっきり再び可南子が部屋に入って来たのかと思ったが、部屋のドアが開いた様子は無い。


 ――気のせいか。

 コーヒーを求めて階下へ降りようと立ち上がったその時、


「うらめしや……」


 消え入りそうな細い声が、静かな室内に響く。


 女の声だ。妹のやりそうな悪戯ではあるが、しかし可南子の声では無い。

 おそらくこれは――俺は、その声の方へと振り返った。


 八畳ほどの部屋の隅。

 昔から使っているベッドの横に、セーラー服を着た女の子がいた。

 

 それだけならばごく普通の女子生徒(いきなり人の家に侵入している時点で普通ではないけれど)なのだが、その子の身体は地面から数十センチほど浮いていて、


 そして彼女の頭からは赤い血が流れていた。


 つまり、幽霊と言うやつだ。


 幽霊を見るのは、これが初めてではなかった。昔から時折、幽霊と思しき物体を見かけた事はある。しかしそれを周りに言うと気味悪がられ、誰もが俺と距離を取った。気味が悪いのは俺ではなく幽霊の方である筈なのだが、「幽霊が見える」という人間も、彼らにとっては同じようなものらしい。


 ならばどうするか――答えは簡単だ。


 人との差を無理に縮めようとするのではなく、俺が譲れば良いのだ。俺も幽霊は見えませんよ、と言う恰好をしておけば、彼らとも上手くやっていける。


 その幽霊は、紺色のセーラー服を着ていた。童顔なので中学生なのか高校生なのかいまいち判然としないが、おそらく後者だろう。前髪は眉毛に掛かるくらいで、肩の後ろに流れる艶やかな黒髪と相まって、規律正しい優等生を思わせる。


 待っていれば彼女の方から何らかのアクションがあるかと思ったが、彼女はただキョロキョロと部屋の様子を眺めているだけで、特に何をしてくるという様子はなかった。

 

 俺は彼女の顔を見つめながら、片端から昔の知り合いの顔を思い浮かべてみたが、どの顔とも一致しない。「うらめしや」と出てきたという事は、俺に相当な恨みがあるのだろうか。少しショックだった。


「……あの」


 俺は意を決して話しかけてみた。このままでは明日のテストに支障をきたしてしまう。ただでさえあまり集中出来ていなかったのだから、この状態では尚更だ。


「――何か、用ですか?」


 我ながら間の抜けた発言だとは思う。しかし、この幽霊は何かしらの理由があって俺の部屋にやって来たのだろうし、もし俺に恨みがあるのならば、それを聞かないと寝覚めが悪い。というか寝られない。


 すると、部屋を見回していた幽霊がパッと俺の顔を見て、「きゃっ」と驚いた。


 幽霊が、驚いた。


 彼女はこれでもかと目を丸くして、あからさまに動揺している。

「あああ」と慌てながら右へ左へと部屋を動き回った幽霊は、小さな悲鳴を上げながら窓ガラスを通り抜けて、闇の中へと消えていった。


 俺は呆然とその窓を見つめ、しばらくして椅子から立ち上がり、窓の向こうに消えた幽霊の姿を捜した。窓ガラスのひんやりとした冷たさが指に伝わり、手を離すと自分の指紋が残る。窓の外には闇夜が広がり、ガラスには自分の顔が映っている。


 なるほど、確かに驚いているようには見えない。寝起きに洗面台の鏡に映っている顔とほぼ同じだ。もうちょっと目を見開いた方が、それらしかったりするのだろうか。


 しかし、このまま窓だか自分だかを見つめていても埒が明かない。

 今向き合うのは、勉強机だけで十分だ。


 明日は、ご丁寧に二日間も用意されている実力テストの初日だ。まず小手調べに新三年生の成績を調べておこうという魂胆なのかは分からないが、「実力テストは実力で」と玉砕覚悟で望むのは、些か無謀というものだろう。

 いつ担任の真山が他のクラスに感化されて補習制度を採用するか分からないし、そうでなくても、俺の答案用紙を見た真山に鼻で笑われるのは癪に障る。


 真山は数学の教師で、一年の時からずっと顔を突き合わせている。どうも俺は嫌われているようで、意味も無く睨まれたり、些細な事で怒られたりと目を付けられていた。そんな真山に小馬鹿にされるくらいなら、少しくらい苦労しても良い。


 よし……勉強するか。


 気を入れ直して机に向かう。けれど、頭の中に浮かぶのは先ほどの幽霊の姿だ。

 目を閉じ、顔を振ってみても、あの幽霊の顔が浮かんで来る。


 頭から血が流れている事を除けば、普通の女子高校生に見えた。頭の怪我が死因なのだろうか。事故か、それとも――自殺か。


 彼女は「うらめしや」と言っていた。


 俺に恨みがあるのか? いや、一人の女性を自殺に追い込むほど深い付き合いをした事なんて無い。きっと、出て来る所を間違えたんだろう。


 ……あるいは、殺されたという可能性もある。

 そう思うと、背中の辺りに寒気が走った。


幽霊の事が気になって勉強など出来やしなかった――というのは半分はただの言い訳で、気が付いたら机に突っ伏したまま朝を迎えていた。

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