少年と小さな訣別-6

 桐花が送ってくれた位置情報のお陰で、嗣乃の行き先はすぐ分かった。


 辿り着いた場所は、産まれてから小学校の間まで住んでいた県営住宅の団地群だった。

 確かに、一番最初の場所だった。


 どの棟もエントランスはベニヤ板で塞がれ、解体計画書が張り出されていた。

 だけど、俺達が住んでいた棟は簡単に侵入できる。

 裏手の非常口の扉のラッチだけは、ずっと前から壊れているからだ。


 なんせ、壊したのは俺だ。

 ラッチの中身を見てみたかった。

 まさか、幼少期のフラグを今回収する日が来るとは。


 中に入ったところで、ちょうど携帯が震えた。


『外で待ってて』というメッセージが待ち受けに表示されていたが、それはできなかった。

 今にも不安に押し潰されそうだ。


 暗い内廊下を進み、みぎわ家の前に立つ。

 次の住民はいなかったのか、表札は『汀』のままだった。


 ドアノブを回すと、何の抵抗もなく開いた。

 ダイニングキッチンと廊下を隔てる襖を開けると、外の光が差し込んでいた。


 食堂と奥の居間を隔てる襖の向こうに、俺の会いたかった相手がいた。


「……何してんだよ?」


 その部屋だけ、ほこりが綺麗に掃かれていた。

 しかも、使い古したマットレスと毛布まで置いてあった。

 そのマットレスの上に、嗣乃と桐花が座っていた。


「お前、今も鍵持ってたのか?」


 嗣乃からの反応はなかった。

 俺も陽太郎も、家の鍵は持っていなかった。

 嗣乃の家へと帰るのが普通だったからだ。


 嗣乃が部活の練習に出る日も、嗣乃から鍵を預かってここへ帰っていた。


 あぁ、今更思い出した。

 背が高くて日焼けした女が、嗣乃を連れ出したのを見たことがあった。

 あれが当時の笹井本かとりとは思えないが、昔の写真を見ればそうだとすぐに分かってしまう。


「座って」


 桐花の言葉に、思わず従ってしまう。

 懐かしくてたまらない場所なのに、桐花がいることに何の違和感も感じない。


「嗣乃、安佐手君に言いたいこと」

「呼び方」


 やっと嗣乃が口を開いたと思ったら、なんだそれは。

 だけど、嗣乃が桐花を矯正してくれるのは助かるけれど。


「つ、つき、ひと……?」


 こそばゆい気分を堪能したいけれど、今はそんなことをしている場合じゃない。


「お前が話さなきゃいけない相手は俺じゃなくて陽太郎だろ?」

「待って」


 桐花の冷静な言葉に怯んでしまう。

 甘やかしすぎだ。

 嗣乃の頭の中はこんがらがっているだけだ。


「なぁ、嗣乃、陽太郎のこと、好きだろ?」


 やっと嗣乃の目に光が戻ってきた。


「どのくらい好きか教えてくれよ」

「どのくらい……?」


 嗣乃は俺の質問の意味が理解できていないようだ。

 俺も自分で訳の分からない質問をしているという自覚はある。


「じゃあ、お前の中で、よーは何番目だ?」

「……怒らない?」

「怒らない。絶対怒らない」


 こういう時にはっきり言い切らないのは悪手だ。


「……二番」


 二番ってなんだ!

 陽太郎が二番だと!?

 落ち着け、動揺するな。

 嗣乃のこの感覚はきっと一時的なものだ。


「ど、どうしてよーは二番なんだ? 一番は?」

「……仁那が、一番」


 びっくりさせるなよぉ……!

 お友達ランキングじゃねぇっての。


 友達として見たら陽太郎より瀬野川の方が好きなのか。

 まぁ、初めての同性の親友だからか。


「嗣乃は、多分、頼りにしてる人のこと、言ってるから」

「……ちがう」


 嗣乃が首を横に振った。

 やはり友達ランキングか。


「つ、嗣乃、仁那に会いたいの?」

「……つっきに会いたい」


 目の前に居るんだが。

 なんで陽太郎に会いたがってくれないんだよ。

 今は頼りたい奴優先ってことか?


「俺に会ってどうすんだよ? 何話すんだよ?」


 無言で嗣乃が両手を伸ばした。


「ああもう……分かったよ」


 嗣乃の上半身を抱き寄せる。


「どうだ? これで満足か?」


 どうして俺は桐花の前で嗣乃を抱きしめなきゃならないんだ。

 桐花の悲しげな視線が目に入る。

 すぐ終わるから堪忍してくれ。


「別に満足しねえだろ……俺はよーじゃないからな」


 嗣乃は微動だにしなかった。


「もう離せよ」

「……やだ」

「なんでだよ?」


 頼むから、離してくれよ。


「つっきが、いなくなるから」

「いなくなってないだろ。お前がよーと付き合ってフラれても、俺はお前の近くに居るよ」

「……わ、私もいるもん」


 そうだよ、桐花もいてくれる。

 なんで俺を掴む腕に力を入れるんだよ。


「嗣乃、俺はお前のこと、本当に大事だよ。嗣乃と桐花のどっちかしか助けられないなんて状況になったら、俺は、嗣乃を選ぶよ……家族なんだし」


 桐花の前で言わせないでくれよ。

 俺にとって嗣乃は家族で、桐花は一番大事な他人だ。


 そもそも桐花に愛想を尽かされたら、その関係を完全に切ることすらできてしまう。

 嗣乃はそうはいかない。


「だからお前もさ、家族の俺か、その、あの、彼氏になった陽太郎か、どっちかしか助けられないなら、家族の俺を選べよ。な?」


 線を引けよ、嗣乃。

 陽太郎は家族の輪から外して恋人になれ。

 そのうち、また家族になれるんだから。


「……いなくならない?」

「ならないっての」


 嗣乃の体を離すと、桐花の顔が更に沈んでしまった。

 でも、俺の言いたいことは飲み下して欲しい。


「よーに会いたいか?」

「……会いたい」


 良かった。

 桐花が嗣乃を追いかけてくれて。

 嗣乃が混乱したままだったら、またこの二人のボタンは掛け違ったままになってしまうところだった。


「と、とろ……陽太郎……君?」


 なんだ嗣乃。

 桐花の陽太郎に対する他人行儀な呼び方も矯正しようってのか。


「……よー、ばっちり決めろよ」

「う……うん」


 部屋に入ってきた陽太郎が、俺に柔らかく微笑んだ。


「桐花、行こう」


 桐花は無言で立ち上がると、俺よりも先に玄関から外へと出て行ってしまった。


「あ、おい、ちょっと!」


 うへぇ、怒ってらっしゃる。


 桐花が開けた玄関のドアを掴んで一緒に廊下へと出ると、突然振り返った桐花にぎっと睨まれた。


「……ごめん」

「悪いことしてないのに謝らないで」


 うそぉ。

 ならどうすれば良いんだよ。


 手を伸ばして桐花に触れようとしたが、その手は避けられてしまった。


「な、何で笑ってるの?」

「は、はい? 俺、笑ってる?」


 自分が気持ち悪いな。

 こうやって癇癪を起こされることが嬉しくてたまらない。


 もう一度桐花の方へと手を伸ばしてみると、今度は避けられなかった。


「嗣乃……助けてくれて、ありがとう」

「え?」


 俺が言おうとしたのに。


「感謝したいのは俺の方だよ」


 抱きしめてしまいたかったが、桐花の険しい表情に阻まれてしまった。


「……嗣乃、可愛かった」

「は……はい?」

「嗣乃の方が、可愛いのに、たくさん、知ってるのに」


 さすがにその考え方は気を悪くするぞ。


「だったらなんだよ? お前の方が好きになんだから、仕方ないだろ……え!? ちょっと!」


 抱きつかれたのは嬉しいけど、ここまできついとほぼベアハッグだ。

 制裁の意味もありそうだ。


「だったらなんで嗣乃じゃなくて……わ、私を助けてくれないの?」


 感情のコントロールができてないな。


「聞いてただろ? 俺とお前のお母さんどっちか選ぶとなったらどっちを選ぶんだよ? お母さんの方選ぶだろ! ちょっ! 痛いって!」

「お母さんって言うのずるい!」

「分かってるくせに分からない振りするからだろ!」


 可愛いな。

 もう、我慢ができなかった。


 目を閉じた瞬間、カチっという音がした。

 前歯に不快なムズ痒さが残る。


 桐花の唇は離れなかった。

 思い出の詰まった場所でこんなことができるなんて思いもよらなかった。

 でも、そろそろ離してもらえないかな。


 汀家のドアの奥から足音が聞こえた。

 俺の首に両腕を回し、がっちりとロックしている相手はもちろんそれに気づいているし、それを狙っている。

 でも、振り払うなんて格好悪いことはできない。


 ドアの音がやけに大きく響いた。


「な……な……!?」


 嗣乃が動転していた。


 桐花、ありがとう。

 今、すごく気分が良いよ。

 今だけ主役を食った気分だよ。

 唇が離れると、桐花は何も言わずに俺の手を掴んで階段へと引っ張っていってしまう。


「え? ちょっと!」

「急げば退場の誘導に間に合う!」


 そんなことよりも……いや、良いか。


 もう二人を優先する自分の生き方を変える時が来たんだ。

 脇役として遠慮して生きる日々とは訣別して、自分を中心に据えないと。


「桐花! 速いって!」


 自転車にまたがった瞬間、桐花は恐ろしい速度で走り出した。


「自分のペースで来て!」


 どんどん桐花が小さくなっていく。


 当面の目標は決まった。

 桐花のペースに少しでも付いていけるようになることだ。

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